ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

自転車に乗れるようになったら猫が来ておひな様を落とした話。

※本記事は、過去記事を流用してお題に参加しています。加筆・修正はしていますが、ほぼ同じ内容です。既読の方はブラウザバックしてください。

 

今週のお題「ねこ」

 

ひな祭りの思い出といえば、亡き愛猫のこと。彼は高島屋の屋上のペットショップから来た、青い目をしたラグドールのオス(後に去勢した)だった。名前はよりによって「ポケット」。大きく育つラグドールという品種の彼には似つかわしくない名前をつけてしまった。彼が病気になって少し短命に終わったのは私のネーミングのせいじゃないか。今ではそう思っているが、もはや本猫には謝りようがないので、謝罪するかわりに記事にしてみようと思う。

 

ナワバリを持つ動物は猫に限らずみんなこうなのだろうが、彼も家の中に新しい物が増えると必ず確認していた。もちろん、ひな祭りの日に出現した七段飾りのひな人形も例外ではない。 

彼はまず匂いをかいでみたが、生き物の匂いではないし、つついてみても反応がない。これはただの動かない物体だ。無害であるが、おもしろくもない。 

こう結論した彼は、その物体の間をぬって段を登っていった。並んでいる物体が無害であるならば、あとは未知の高所を確認するべきだろう。この家に、自分が知らぬ所などあってはならぬ。 

彼はてっぺんまで登った。そして、そこに並んでいる物を確認した。下の段に並んでいた物と同じだった。先ほどはつついてみただけだったので、今度はちょっといじってみよう。彼はその物体の出っぱっているところを軽くくわえて、少し引っぱってみた。その部分はあっさりと動いたが、それだけだった。何もおもしろくない。 

彼がひな人形の段に登っていることに家人たちが気づき、何やら騒いでいる。彼は華麗に物体の間をぬって登ったつもりであったが、端のほうでは物体が段から落ちていたらしい。しかも、少し形状が変わっている。人間ならば騒いで当然の事態であった。

彼にはただの物体であるものは、人間からすれば「ひな人形」という特別な物である。孫娘に母方の祖父母から贈られた高級品だ。七段という集合住宅には不釣り合いなスケールで、ありがた迷惑でもあったが、祖父母が初孫のために奮発してくれた、非実用的ながらも気持ちのこもった贈り物である。

祖父母にとって想定外だったことは、この家に猫が迎えられたことだった。猫は自分で危機管理をするので安心して目をはなしておける点では赤ん坊と異なる。しかし、好奇心にかられての行動は、猫と赤ん坊ではほとんど同じであった。

彼はひな人形の匂いをかぎ、人形を落としながら段を登り、てっぺんで、おだいり様の首を少しばかり長くした。赤ん坊を監視するように猫を見張ることは馬鹿馬鹿しく無意味であるので、仕方ないことといえば仕方ない。

これが、我が家のひな人形に起こった災難である。このあと、段の設置が面倒であるとか、飾ってもまた猫がいたずらするからとか、そもそも不気味でたいしてめでたくもないとかいう理由でひな人形は飾られなくなり、我が家の押入れの天袋にしまわれっぱなしになった。

これでよくおひな様たちから祟られなかったものだと思うが、これにも猫が関係しているのではないだろうか。それというのも、彼は天袋を寝床にしていたからだ。そこは絶対に人間が入れず、じろじろ見られることもない、貴重な場所だった。おまけに彼は箱に入るのが好きなので、おひな様の箱に入って寝ていたのだ。当然ながら箱にはおひな様が入ったままなので、大掃除などで箱の中身を確かめるとたいがいは彼の毛まみれになっていた。彼は長毛種で白い毛をしていたので一目瞭然である。

この状況で祟られなかったどころか恨まれすらしなかったのは、あのおひな様たちが猫好きだったからではないだろうか。あのおひな様たちは、添い寝してくれる彼のことが好きだったのかもしれない。

どうせおひな様をしまいっぱなしにするのであれば、猫の彼がいてくれてよかったと思う。おひな様を飾らなくなったのは人間の都合で、けっして彼のせいではなかった。

最後に。引っ越しを機に祖母宅へ移ったおひな様たちへ。私が将来、娘を授かるかどうかはわからないけれど、今、手元にあるぬいぐるみたちは大切にしますので、あの頃の冷遇に関してはどうか、ご勘弁ください。

 

以上。今週のお題「ひな祭り」にお答えしました。

 

・・・というのが以前、お題「ひな祭り」の時に書いたことだ。猫の彼がウチに来た経緯を説明すると、父が「コマなし自転車に乗れるようになったら猫を買ってやる」と言ったのが原因である。その言葉を信じた運動音痴の私は根性を出し、小学4年生にしてようやくコマなしの自転車に乗れるようになった。そして父は有言実行の人だったので、本当に猫を買ってくれたのである。彼は血統書つきで20万円もした。当時は珍しい品種だったのかもしれない。私は彼がウチに来るまで、猫にも大型種があることを知らず、彼が子猫らしからぬ体格をしているのはペットショップで時間が経って成長してしまったからだと思っていた。父もそう思ったらしく「育ち過ぎてて売れ残ってるみたいだから買った」そうだ。売れ残りは殺処分されるのかもしれないし、品種にこだわりはなかったから良い判断だったと思う。子供を叱る時は手が出るような乱暴な父だったが、約束は守る人だったし、ペットショップで猫を選ぶ基準が外見の可愛らしさではなく、処分されそうだったからという点は今でも尊敬できる。

私は大学進学とともに実家を離れたので、猫の彼を看取ってくれたのは母だった。私は母に猫のことを押し付けた罪悪感が今でも消えない。ペットは大人が自分の判断で買うものであって、子供にねだられたからと言って買うものではないのだろう。私には、実家で一緒に暮らした犬を亡くした後、社会人になってから自分のお金で犬を買った友人がいる。彼女にとって犬を飼うことは憧れではなかったのだろう。彼女は本当に犬が好きなのだと思う。

いつかペット産業が滅んで愛玩用の猫がいなくなり、全ての猫が図書館でネズミを獲るようになりますように。

以上。