ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

自転車のパンクと惜しい喫茶店。

いつも通り近所のショッピングモールに自転車で行った翌日、なぜか自転車の前輪だけ空気が抜けていた。前日にせっせと空気を入れたはずなのだが仕方ないので理由はさっぱりわからないまま商店街の中にある自転車屋さんへ。言葉少なで、どちらかというと無愛想なおじさんに愛車の小型自転車を預け、時間潰しに近くの喫茶店へ入る。

男性の声だなという以外には何も印象に残らない、特に高くも低くもなく特徴のない声に、いらっしゃいませと迎えられた。この喫茶店に入るのは初めてだ。目についたのは2人がけの席。この席で入口側を向いているイスに腰を下ろすとウェイターさんがおしぼりとお水を持ってきてくれた。注文が決まったらボタンで呼んでくれとのこと。声からすると先程の声の主はこのウェイターさんらしい。ウェイターさんが離れるのを待ってメニューを眺め、一番珍しそうなものを選ぶ。今回私が選んだのは「黒糖ミルク」だ。ホット・アイス両方とも提供可らしいが、この日は寒かったので素直にホットを頼むことにしてテーブル上の黒いボタンを押した。来てくれたウェイターさんにホット黒糖ミルクを注文し、カバンから文庫本を取り出す。タイヤの修理に時間がかかることを見越して家から持ってきたのである。我ながら準備がよかった。

私がこの喫茶店で読もうとした文庫は、日本で新型コロナウイルスが流行する以前に某百貨店で開催されたとある古本系イベントで買ったうちの1冊だ。買ったこと自体を忘れて本棚で眠らせていたのを引っ張り出してきた。これを読みだしたら周りのことは目に入らなくなってしまいそうだ。それではもったいない。この本はいつでも読めるから、初めて入った喫茶店の内装を一通り眺めてから読み始めよう。私は席についたままで見える範囲をざっと見た。そして発見した。この店は、惜しい。

入口の脇にぶら下げられた、百円均一ショップで見た覚えのあるオブジェ。吹き抜けだが天窓はなく、梁についている木製ファンは静止していて本来の機能を果たしていない。せっかくの出窓は小さな衝立のせいで外が見えず、観葉植物が所狭しと置かれている。おまけに、ペンダントライトには作り物のツタが巻き付けてあった。この喫茶店には埃が溜まりそうな物が多い。あまり金をかけずにオシャレな雰囲気を醸し出そうとしたのだろう。プロには相談せず素人が頭を寄せ合って懸命に考えた気配があった。

「惜しい。目指した方向はなんとなくわかるけど。そこに到達してない」

私は内心でつぶやいた。自分だってインテリアデザインとは無縁の人間のくせに。

気が済んだ私は内装から目を離した。幸いにして私がついた席の上にある照明はほどほどの明るさだから本を読むことはできそうだと思った時にウェイターさんが、お待たせしましたとホット黒糖ミルクを持ってきてくれた。見たところ、うっすらと黒糖の色がついたミルクだ。一口すすってみたら見た目通り、ほんのり黒糖味がするホットミルクだった。

私は本を汚さないよう先に黒糖ミルクのカップを空にした。時計を見ながら文庫本を読み進め、キリのいいところで中断して席を立つ。財布と伝票を持ってレジのありそうなカウンターに近づくと、先程のウェイターさんが気づいてお会計してくれた。お釣りを待っている間にふと視線を左に向けると、大きな水槽がある。中には大きな魚が3匹泳いでいた。銀色で細長い体つきの1匹はアロワナであろうか。

立派な水槽ですね、と金魚とベタを飼っていた私が思わず言うと、ウェイターさんは、どうも、と特にうれしそうな様子もなくフラットに応えてくれた。ここで下手に熱帯魚ウンチクでも聞かされようものなら自転車屋さんで約束した時間に遅れていただろう。この時はウェイターさんのドライな対応に救われた。

ウェイターさんの、ありがとうございましたという声に送られて喫茶店を出る。あの水槽には大きな魚が3匹も泳いでいたが、水草の一本どころか底の砂さえなかったなと思いながら。都会によくあるアクアリウムが売りの店でも参考にして挫折したのか、前オーナーが趣味で飼っていた魚を押しつけられたのか。これまた惜しい。

つまらないことを考えながら自転車屋さんへ愛車を迎えに戻った。今回の料金はなんと700円だという。いくらなんでもそれは安すぎるのではないか、こんな値段で本当に直ったのかと疑いながら千円札を出し、お釣りを受け取って帰った。今のところ、自転車の前輪に異常はない。

自転車のパンクを直しに行ってみつけた喫茶店。あの殺風景な水槽で、あの魚たちはあと何年生きるのだろう。