ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

オタクじゃない人もフィクションの世界で生きている!? 『ヒトの目、驚異の進化』

お題「読書日和」

 

目次 

 

 今回はマーク・チャンギジー著、柴田裕之訳『ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)をご紹介したいと思います。本書は早川書房から2020年3月に出ています。

 私がこの本を読んでもっとも感動したことは、オタクじゃない人でも(ある意味では)フィクションの世界で生活していることを教えてくれたことでした。しかし急にこう言われてもよくわからないと思うので、私の言葉でざっと説明していきます。

 人間に限らず、視覚を持つすべての動物は、その種が生きるのに役立つように世界を見ています。犬や猫は赤色がわからないことや、昆虫と人間では花の色の見え方がちがうことは有名です。その種にとって不要な色は見えず、必要な色は見える。つまり、生物はあるがままの世界を見ているわけではないのです。ここまでは私でもうっすらと気づいていました。私を驚かせたのはこの先です。本書では、人間の視覚について、3つのフィクションがあることを教えてくれます。以下、順に解説していきます。

 

色の見え方というフィクション

 まずは、色の見え方というフィクションについて。著者は、人間の色覚は人間の肌色の変化を見るために進化したという説を提唱します。たとえば赤面した人を見て怒っている(または恥ずかしがっている)ことを読み取ったり、酸欠や病気になっている人の変色した肌を見て相手の健康状態を知ったりして、私たちが社会生活を営むために、私たち人間の色覚は進化したのである、というのが著者の主張です。

 続いて著者は、P93「飛び散る色」でこう言います。

酵素飽和度の高い肌のための赤は、夕焼けやルビーやテントウムシにも飛び散る。こうした赤の例は、気まぐれな偶然にすぎない。

まるで、肌用の特殊な眼鏡が私たちの目を覆うように縫い付けられてしまったかのようで、その眼鏡は、周りの人たちの内面生活を見る役には立っても、非社会的な世界については、私たちに誤解を与えかねない(たとえば私たちは、夕焼けとルビーとテントウムシには何か客観的に似ているものがあると、誤って思い込むかもしれない)。

 以上、本書「飛び散る色」P95、P96より

 

 赤色が見える他の動物、たとえば鳥と人間が同時に夕焼けを見たとしても、空の色が同じに見えるとは限らない。生物はその種がもっとも見るべきもの「X」を見るために色覚を進化させてきたので、その色覚に則って世界を見ている。だから、構成物質が異なる、まったくちがう物体を見ても似た色に見えてしまうことがあるというのです。著者は、この、似ていない物体が似た色に見えてしまう現象を指して「飛び散る色」と表現しています。そしてこの「飛び散る色」現象は無用のフィクションだと言います。人間の色覚を、肌色を見ることに最適化した結果の副作用のようなものでしょうか。私たちは副作用で色を見ていたのだという驚きがありました。

 

視点の位置というフィクション

 続いて、視点の位置というフィクションについて。私たち人間に限らず、2つの目を持つ動物はたくさんいます。目が頭の横についていようが、頭の正面についていようが、目が2つであることは変わりません。では、どうして多くの動物は2つの目を持っているのでしょうか。この疑問に対して、今までは物を立体的に見るため、立体視をするためだと考えられてきました。しかし、著者はこの説に反対します。著者は、多くの動物が2つの目を持つのは立体視のためではなく透視のためだと主張します。目が1つしかないと、自分の鼻やクチバシなど、顔の正面に突き出た部分で視界が遮られてしまいます。この問題の解決策として自然が出した答えは、2つの目を持ち、それぞれの目で見えている視界を統合することで自分の身体を透かし見るという方法でした。こうすれば、自分の鼻やクチバシで視界が遮られることはありません。このために私たちは、目は2つなのに見える外界(映像)は1つだけというフィクションの中で暮らすことになったのだ、というのが著者の主張です。

 著者は人間の知覚(視点の位置)は、実際に目が位置している場所ではなく「両目の真ん中、鼻の上部から少し奥に入ったところ」であることを指摘します。ではなぜ、人間はこのような、不正確な知覚で生きていくことになったのでしょうか。著者は、その理由を、その方が(透視ができたりして)生きるのに役立つからだとしています。著者はコンピュータのデスクトップ画面を例に出し、あれはコンピュータの内部を正確に表しているわけではなく、コンピュータのデスクトップ画面があのような外見になっているのは(その方がユーザーにとってわかりやすいので)役に立つからだと指摘します。そして、私たちの知覚も同じだと言います。

同じように、私たちの視知覚も役に立つから進化したのであり、目の前の世界を忠実に表すからではない(あるいは、現に外界を正確に表すことがあれば、それはその表象が役に立つからだ)。もし私たちの脳が、それぞれの目から送られてくる二つの違った映像をそのまま受け入れて満足できるのなら、フィクションなど必要ないだろう。それなのに、そもそも実在しない、統合された単一の映像を脳が好むとすれば、脳は「フィクションで行く」決定をしたのだ。なにしろ、二つの本物の映像を無理やりまとめて単一の映像にしたら、でき上がった映像は本物とは言えない。だから、私たちの知覚は、今述べた点ではフィクションだ。

 以上、同書「三人称自己観察装置」P115~P116より

 

 なんということでしょうか。著者の説に従えば私たちは、自分の身体を透かし見るという利便性と、統合された、たった一つの視界というわかりやすさを得たために、世界を忠実に見ていない、ということになります。私たちの視覚は色の見え方に加えて、視点の位置までもがフィクションだったのです。このフィクションを生み出すために私たちは目を2つ持つように進化しました。人間どころか、目が2つの動物はみんな、このフィクションの中で生きているフィクション仲間というわけですね。今は亡き私の愛猫も、猫用フィクションの中で暮らしていた、と考えると感慨深いです。

 

現在というフィクション

 最後に「現在」というフィクションについて。今までは目を持つ動物すべてに当てはまる指摘でしたが、ここからは人間だけの話になります。私は本書の指摘の中でこれに一番驚きました。著者によると私たち人間の脳はまさに今現在を直接知覚しているわけではなく、実は0.1秒後の未来予測をしつづけることで、結果的に現在を見ているというのです。

視覚系が光を受けてそれを視知覚に転換するのに、どれだけの時間がかかるのだろう? 答えは約〇・一秒だ。もし私たちがたんに、網膜が光を受けたときにそこにあるものについての知覚を生み出すのだとしたら、知覚は発生時の〇・一秒前の過去の世界のさまを示していることになる。

以上、同書「時の刃を鈍らせる」P190~P191より

 著者は、この0.1秒の差を甘くみるべきではないとしています。秒速1mで歩くとしたら、0.1秒では10cm進むことになる。そうなると、10cm以内にあるものを知覚した時にはそれにぶつかっているか通り過ぎている。飛んでくるボールをキャッチする場合なら、見た目ではボールはまだ手に届いていないのに、実際にはすでにボールは顔面にぶつかっている、ということになる。どちらにせよケガをすることになりそうです。私たちは未来予測をしつづけることでケガや事故を予防しているらしい。視覚系から来た情報を処理するのにタイムラグがあるのは当然といえば当然ですが、改めて、私たちが見ているのは真の現在ではないと指摘されたのでとドキッとしました。私たちはみな、未来予知という超能力者ばりのことを日常的に行うことで世界を見ていたのですね。

 

3つのフィクションまとめ

・色の見え方はフィクション

私たちは自分たちの肌色の変化を見るために進化したので、夕焼けとルビーと(ナナホシテントウムシが似たような色に見えるのは偶然。

 

・視点の位置もフィクション

私たちは透視能力を得るために進化したので、実在しない視点で外界を見ることになった。

 

・「現在」もある意味ではフィクション

私たちの視覚系の処理には0.1秒かかるので、未来予測をしないと0.1秒前の過去しか見られない。だから私たちは0.1秒後の未来を予測することで、結果的に現在を見ている。

 

 要するに、人間は3重のフィクションでできた世界を見ている。この点はオタクも非オタクも同じ。だから、フィクションばかり好んで消費することをバカにする奴に絡まれたらそいつに言ってやりましょう。

「うっせぇ! どうせてめえもフィクションの中で生きてんだぞ! ウソだと思うならこれを読め!

 

以上。『ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)をご紹介しました。全人類にこれを読ませればオタクと非オタクとの溝が少し狭くなるかもしれません。