次
以前、8番出口×AI ソムニウムファイルの二次創作を記事にしたんですが(⇩)
実はこれ、起きることを箇条書きで時系列に沿って書いただけで創作とさえ呼べないシロモノなんですよ。これで終わるのなんかさみしいなと思って別バージョンを書いて、さらに「アイデアだけで本文を書かないのもなんかなあ」と思って、小説を書きだしたんですよ。そしたら12万字ぐらいのボリュームになったんですよ。いや、半分はわざとなんですけど。書いてること自体が楽しくてすぐに終えるのがもったいなくてできるだけ長引くようにアイデアを足していった結果、こんなボリュームになってしまったんですよ。でもって私、ネット上のコミュニティのアカウントって、はてなブログのIDしか持ってないもんだから、ここで公開することになったんですよ。発売から何年も経ってるゲームの二次創作なのでどれだけ需要があるかわからないんですけど、一応は目次をつけておいたんで、お暇なら読んでほしいんですよ。それではどうぞ。
8番出口×AI ソムニウムファイル
2019/8/9 不審な青年と奇妙な通路
8月9日の午後1時、熊倉組事務所のドアが珍しくコンコンとノックされた。戻った組員やガサ入れに来た丸暴の連中ならノックなどしない。この遠慮がちなノックからすると身内でも敵でもない第三者が訪ねてきたと思われる。
「うちのドアがノックされるなんざ珍しいこった。久しぶりに聞いたぜ」
ソファーに座った幹部の屋蓑がつぶやくと、デスクにいる下っ端の陳平がボケた応えを返した。
「アニキ、出前でも頼んだんスか?」
「うちはデリバリー禁止じゃボケ!」
「それじゃあ荷物じゃないスか?」
「宅配業者がノックのあとで黙ってるわけねえだろうが。招いてねえ客だ、用心しろ」
屋蓑は熊倉組の一員であり歴とした極道ではあるが医師の資格を持っており、主な仕事は生きている人間の腹から闇市場へ卸す臓器の摘出である。いわゆる「インテリヤクザ」なので肉弾戦は不得手だ。「招いていない客」の正体がわからない以上、自分が応対しないほうがいいだろう。ここは若い奴に任せるべきだ。
「へい。撃っていいスか?」
「先手必勝にもほどがあるわ! 初手で撃とうとすんな! 弾がもったいねえだろが!」
「へい。すんません」
自分たち極道は軍隊とちがって気軽に銃弾を補充できない。闇市場では熊倉組のように歴史が浅く小規模な暴力団は低く見られがちでブローカーに足元を見られ、代金をふっかけられるのはしょっちゅうだ。いくら多量の銃を所有していたところで弾が尽きれば無意味である。せっかくの銃がただの鉄塊になってしまう。そうならないためにも「銃を使うのは抗争のみ」というルールが定められているのだ。それなのに陳平はこのルールを忘れているらしい。熊倉組は非暴力主義を掲げており久しく抗争していないからだろう。良くも悪くも極道としては平和ボケしていると言える。
「いいからさっさと出ろ。不審者だったら殴りとばせ」
「へい」
陳平には「不審者」の定義がいまひとつわかっていないが、とりあえず席を立ってドアを開けに向かう。敵意がありそうな野郎なら怒鳴ったあとに殴って追い払えばいい。ガキのいたずらなら殴るまでもない。
「こらあ! うちをなんだと思っとんじゃあ!」
陳平はドアを開けると同時に怒鳴った。まだ相手の姿は確かめていないが並の相手ならこれで逃げ出す。ドアを開けきるまでもない。
「えっと、暴力団の熊倉組事務所って、ここですか?」
ドアの向こうにいた奴は怒鳴られても逃げなかった。返事はあったから耳が聞こえないわけではないらしい。逃げなかったのは他の理由があるからだろう。陳平はしかたなくドアを全開にして相手の姿を確かめる。
ドアの向こうにいたのは見知らぬ青年だった。年齢は20代前半か、高校生に見えなくもない。覇気のない顔立ちからして、まだ学生なのはまちがいないだろう。なぜかキャップの上からゴーグルをつけていて、腰にはおもちゃの変身ベルトみたいなウエストポーチをつけている。若くして極道を志す人間もいるにはいるが、オタクっぽい恰好をしたひ弱そうなこいつには極道らしい迫力がまったくない。どこかの組の使い走りではなさそうだ。極道どころか半グレにさえ見えない。せいぜい、浪人か留年して年をくった大学生といったところだろう。
「ああ? 確かにうちは熊倉組だけどよ。てめえは誰で、なんの用だあ?」
こいつはうちが暴力団の熊倉組なのを承知で訪ねてきたらしい。珍しいこともあるものだ。どう見ても学生にしか見えないひよっこが暴力団になんの用があるというのか。まさか学校の課題でうちを取材したいとでも言うつもりか。いくらうちが「非暴力的暴力団」をうたっているとはいえ、さすがに学生の課題につきあうほど暇ではないし、早いところ追い払わないと自分が屋蓑に叱られそうだ。
「やっぱりここであってるんだ。よかった。猛馬さんは帰ってます?」
「うちの組長を名前で呼ぶんじゃねえ! てめえ、誰だこらあ!」
見知らぬ青年になれなれしく組長を名前で呼ばれ、陳平は思わず怒鳴ってしまったが青年は平然としている。どうやら怒鳴られるのには慣れているらしい。怒鳴るだけではびびらせられないようだ。
「ぼく、猛馬さんの知り合いです。猛馬さん、昨日から帰ってないんですね。ぼくは猛馬さんの居場所しってるんで、とりあえず、なかに入れてくれません?」
「なんだとこら。てめえ、なんで組長の居場所しってんだ?」
「だから、それはなかで話しますってば。立ち話で済むような内容じゃないんで」
名乗りもせず「組長の居場所を知っている」という不審な青年は気に食わない。しかしこいつを追い返すのはまずい気がする。組長の居場所については一晩たってもまったくなんの情報も得られていないのが現状なのだ。
「おい、陳平! さっさとその坊ちゃんをなかに入れろ!」
陳平がドアを開いたまま思案していると事務所のなかから屋蓑の指示がとんできた。これで不審者を招き入れた責任は屋蓑に押しつけることができる。自分の責任にならず情報が得られるのなら一石二鳥だ。
「へい、アニキ。ほら小僧、さっさと入れ」
「はーい。おじゃましまーす」
これから暴力団の事務所に入るとは思えない気軽さで青年はドアをくぐった。
「へえ。ここが、見た目の割に耐久力がある事務所かあ」
青年はわけのわからないことをつぶやきながら、陳平の案内も待たずにずかずかとソファーの前まで歩いていく。
「待てこら!」
陳平はあわててドアを閉めてあとを追う。こいつには遠慮も恐怖心もないらしい。下手すると勝手にソファーに座って自己紹介もしないで話し始めるかもしれない。さすがにそんな無礼は見過ごせない。
「なんだ、やっぱり生きてるじゃん・・・近づくとほんとにあいつにそっくりだなあ」
壁側のソファーに座る屋蓑につかつかと近づいた青年は案の定、無礼な口をきいた。陳平はその無礼さに怒鳴ろうと息を吸って口を開けたが、声を発する前に屋蓑が青年に応えた。
「あん? なんのことだ? 坊ちゃん」
「あ、声に出てた? すみません」
「あいつに似てるとか言ったが」
「それは後で説明します。屋蓑さん、ここ、座っていいですか?」
「なんでおれの名前を知ってるのか教えてほしいが…いいぜ。とりあえず座りな、坊ちゃん」
屋蓑は警戒心を働かせた。自分の名を知っているということは、この青年は外見通りの人物ではない。実年齢は外見年齢よりもずっと上だろう。ただの学生ではなく、警察か反社の関係者とみるべきだ。このオタクっぽい服装は街に溶け込むための変装にちがいない。
「どうも」
青年は背中からリュックを降ろして両手で抱き、デスク側のソファーに腰かけた。
「じゃあ、自己紹介しますね。まず、ぼくの名前は真津下応太です」
「そうか。おれは屋蓑だ。もう知ってるかもしれねえが、熊倉組の幹部を務めてる」
「はい。猛馬さんからきいてます。こっちの人は?」
ソファーにかけた応太が背後を見た。応太の背後で仁王立ちした陳平が大声で答える。
「おれは輪貝陳平だ!」
「へえ。おもしろい髪型だね。ここまでシリアスな事態じゃなきゃ笑ってたかも」
確かに、陳平の独特な髪型は屋蓑から見てもコミカルだ。坊主頭ではあるが完全なスキンヘッドではなく、頭頂付近に一房だけ茶色い髪が残っている。丸坊主ともなんともいえない不思議な髪型だ。生まれつきハゲやすいのを気にしているのならいっそ全部剃ってしまえばいいと思うのだが、屋蓑はこれを言葉にしたことはない。常識はずれの風体で生きられるのもヤクザの特権なのだから。
「おい、小僧! さっきからきいてりゃ、組長の知り合いみてえな口きくじゃねえか!」
「本当に知り合いですけど」
「いったいどこで知り合ったんだこらあ!」
「だから、それはこれから説明するってば。とりあえず、ここから先は質問禁止ね」
「あ!? なめた口きいてるとぶっとばすぞ!」
「あっそ。言っておくけど、下手に殴ってぼくが死んだら、二度と猛馬さんに会えなくなるかもしれないよ。それでよければ殴ってもいいけど」
『!?』
謎の青年の思わぬ応えに熊倉組の二人は思わず身構える。こんな弱っちそうな若造に組長を誘拐できるわけはないが、仲間がいるなら可能かもしれない。万が一、こいつが誘拐犯の一味だったら困る。ここでへそを曲げられるのはよくない。屋蓑は態度を改め、下手に出て情報を引き出すことにした。
「うちの若い者が失礼な口ききましてすいやせんでした、坊ちゃん」
「わかってくれたんだったらいいけど」
「ええまあ。坊ちゃんにうちの組長をどうこうできるとは思えねえが、お話は最後まで聞きやしょう」
「最初からそうしてよ。無駄に時間くったじゃん」
陳平は引き続き失礼な応太の態度に怒りが収まらないが、幹部が下手に出ている以上、乱暴な口をきくわけにはいかない。陳平は屋蓑に会話を任せて見張りに専念する。
「これは失敬。それで、これは質問じゃなくてお願いなんですがね」
「なに?」
「お話を聞くにあたって、坊ちゃんの所属を明らかにしてもらいてえ」
「所属? もしかして、ぼくのこと、どっかのヤクザだとでも思ってるの?」
「おや、ちがうんで? てっきり、どこかの若頭さんかと」
「それでほめてるつもりなの? 嫌味にしか聞こえないんだけど。所属ね…しいて言うなら、食堂」
『は?』
組員の二人には完全に予想外の答えだった。どこの世界に暴力団事務所へ単身で乗り込んでくる食堂のガキがいるというのか。ふざけるのも大概にしてもらいたい。ただでさえ我らが熊倉組は組長が行方不明で混乱しているのだから。これ以上、混乱させる情報をもたらすのはやめてほしい。
「樺崎地区のとなりに、黒樺地区があるでしょ。ぼくの家は、黒樺地区の飲食店組合に所属してた食堂なんだよ。今はもう営業してないけどね」
「それはお気の毒に」
「本気で言ってるの? 黒樺地区の飲食店組合は、今じゃ被害者の会だよ。8年前にあった、樺崎地区の爆発汚染事故の」
「ああ、ありゃひどい事故で」
「とぼけてるの? あれって実は事故じゃなくて破壊工作で、化学工場を爆破したのは熊倉組だって、もっぱらの噂だよ? だからぼく、熊倉組は助けたくなかったんだけど」
「とんでもない。なんでまた、そんな不名誉な噂が?」
「熊倉組は樺崎地区の土地を転がしてボロ儲けたしたってきいたけど?」
「うちがそんなに羽振りよく見えますかね。ボロいのはむしろ、この事務所のほうで…」
「お金に困ってるんだったら、あの龍でも売れば? 高そうだし」
応太が指さしたのは組長机の左右に置かれた二体の龍の像だ。像といっても素材はブロンズや石ではなく木製ではあるが現役の宮大工が手掛けた特注品である。なかなか金のかかった代物なのだが実を言うと組員たちはこの龍像に大した思い入れがない。しかし現組長にとっては大切な品だ。よほど困窮しない限り売り払うわけにはいかない。
「あれは、今は亡き先代が据えられたもんでね。今の組長にとっちゃ、思い出の品なんですよ。金に換えるわけにゃいかない」
「え、あれ、お兄さんの遺品なの!? 道理で、猛馬さんの趣味とは大違いだね。兄弟なのに」
「…待て小僧、なんで、先代が組長の実の兄だって知ってんだ?」
それは屋蓑に、質問を禁じられたことも下手に出ることも忘れさせるほどの驚きだった。このガキは熊倉組について知りすぎている。まるで本当に組長の知り合いであるかのように。
「猛馬さんにきいた。先代の組長さん、ぼくも見たことあるよ」
「坊ちゃん、先代とも面識がおありで?」
「ううん。本人には会ったことない。あれは、通路がつくったものだったから。で、いつまで質問するつもり? ぼくの話をきく気がないなら帰るけど」
これを聞いてついに陳平の堪忍袋の緒が切れた。かりにも暴力団の幹部が下手に出ているというのにこの態度はなんだ。何も知らない食堂のガキが、熊倉組の窮地を知って嫌がらせに来たにちがいない。
「黙ってきいてりゃあ、失礼なことばっか言いやがって! さっさと組長の居場所を吐きやがれ!」
陳平は応太が着ている上着の後襟をひっつかみ、片手で応太をソファーから持ち上げた。小太りのチンピラにしか見えない陳平だが、こう見えて真面目に筋トレしており腕力には自信があるのだ。ここまですればいくら生意気な小僧でも知っていることを吐くだろう。知っていることがあればの話だが。
意外にも応太は平然としている。今や応太は母猫に運ばれる子猫のようにソファーから持ち上げられ爪先さえ床についていないが、すぐに屋蓑と目を合わせて問いかけた。
「ねえ、あんたらが知りたいのはどっち? ぼくの正体? それとも組長の居場所?」
「もちろん組長の居場所ですよ、坊ちゃん。陳平、降ろせ」
「へ、へい」
陳平はそっと応太をソファーに降ろす。宙ぶらりんにされてなお応太は動じなかった。その事実が陳平の態度を変化させる。こいつは明らかにただの学生ではない。それにしては肝が据わりすぎている。異常な無礼さに加えて年齢不詳なのもあり、不気味だ。応太と名乗ったこの青年はずっとまわりに気味悪がられながら生きてきたのかもしれない。
「降ろしてくれてありがと、陳平さん」
この青年は不気味だが意外と真面目な性格らしく、いまだ背後に立っている陳平に礼を言ってから屋蓑に視線を戻した。
「屋蓑さん、もう話していい?」
「少々お待ちを。お茶を出しますんで。陳平、お客様にお茶をお出ししろ。ついでに、おれにも一杯」
「へいっ」
陳平は素早く給湯室へ行き、外見から受ける印象に反した機敏な動きでてきぱきと二杯のお茶を淹れる。湯は保温ポットに入っているものを使う。沸かす時間は不要なので二人を待たせる時間は少ない。お盆に乗せたお茶をソファー前まで運び、ローテーブルにそっと置く。お盆を給湯室に戻した陳平は応太の背後に戻った。
「粗茶ですが。どうぞ、坊ちゃん」
「ありがと。ヤクザの事務所でもお茶出すんだね。意外と常識的だなあ」
「ヤクザも社会人にはちがいねえですからね」
「反社会的勢力とか呼ばれてるくせに、社会人ね…まあいいや。それじゃ、猛馬さんに出会った場所のことから話すね。たぶん今もあそこにいると思うから…生きててほしいな」
「はい?」
「あ、不安にさせた? ごめん。あの猛馬さんが死ぬわけないよね。でも、あの場所はまともじゃないから。ぼくも心配なんだ、猛馬さんのこと」
組員の二人には疑問が増えただけだった。応太は行方不明になっている組長の居場所を知っていると言ったので誘拐犯の一味なのだろうと思っていた。しかし応太は組長の身代金額を伝えるわけでも、引き渡し場所を告げるわけでもなく、なぜか組長の身を案じている。屋蓑と陳平は嫌な予感に襲われた。まさか組長は、どこかのイカレた殺人鬼にでも捕まったのか。応太の言う「まともじゃない」場所は、どこにあるのか。ここから先の話は一言も聞き逃すわけにはいかない。
「あそこ、いや、あれは、一言で言うと怪奇現象だった。ぼくと猛馬さんは二人とも、変な地下通路に閉じ込められたんだ」
「地下通路だあ?」
応太の話を真面目に聞こうとしていた組員の二人は肩透かしを食らった気分だ。「地下通路」というのはどこかの地下街の通路か、あるいは地下鉄の駅から地上に出るための通路のことか。どちらにせよ殺人鬼よりホームレスの隠れ家になりそうなロケーションだし、通路に人間を閉じ込められるわけがないだろう。
「あの地下通路は、まともな空間じゃなかった。ぼく一人だったら死んでたかもしれない」
疑問が山積している二人の反応を無視して応太は話し続ける。その内容は都市伝説じみていて、とても信じられなかった。
応太が秋葉に出る時はいつも地下鉄を使い、樺島線の黒樺駅で乗り降りしている。8月8日に新しいスマホを買った応太は、いつも通り秋葉駅から乗って黒樺駅で降りた。黒樺駅の10番出口へ向かう通路は歩き慣れている。改札を出てしばらく階段はない。階段が見えてくるまでは顔を上げなくていいからスマホでネットアイドル「あせとんちゃん」の過去配信でも見よう。
改札を出た直後にスマホを取り出して動画を見始めた応太は、200メートルほど歩いてからようやく気がついた。上りの階段をとっくに通り過ぎていることに。スマホで動画を見ていたことに加えて階段の気配が感じられなかったので歩きすぎてしまったようだ。いつの間にか人の気配もなくなっており応太は一人ぽつねんと通路に立っていた。
「…あれ、どこだここ?」
通路の案内板には「出口0」と書かれている。自分が目指していたのは10番出口なのに。黒樺駅の出口はほぼ一直線に並んでおり、通し番号のように規則正しく番号がつけられている。10番出口を目指していたのに若い番号の出口に着いてしまったのなら、考えられる可能性はふたつしかない。改札を出た時に反対方向へ進んでしまったのか、あるいは通路が輪になっていて一周してしまったのか。このどちらかのはずなのだ。常識的に考えれば。
「え、ここ、黒樺駅じゃなくない!?」
応太はこの「通路」に対して常識は一切通じないことを即座に理解した。なぜならこの通路は床も壁も天井も真っ白なタイル貼りで、見慣れた黒樺駅の地下通路とは似ても似つかないからだ。黒樺駅で改修工事をするなんて話はきいたことがないから、いつもの通路を進んだだけでこんな「通路」に入ってしまう理由がない。応太がワープしたとでもいうならともかく。
「まさかこれは…リミナルスペース!? 実在したんだ。やった! 小説のネタにできるじゃん!」
都市伝説でしかないと思っていた不気味かつ無限の閉鎖空間「リミナルスペース」の一種と思われる場所を実際に見られた応太は感動し、はしゃいでいた。この時はまだ「通路」の残酷な性質を知らなかったから。
「脱出するにはまず、この通路の法則性を見破ら…何これ、ご案内?」
出口番号を表示する黄色い案内板のとなりに、ご丁寧にも注意書きが貼られていることに気がついた。「ご案内」と書かれたその銀色の板には、黒い文字でこう書かれている。「異変を見逃さないこと・異変を見つけたら、すぐに引き返すこと・異変が見つからなかったら、引き返さないこと・8番出口から外に出ること」
「ふーん、これが『ルール』ね」
自力で「通路」の法則性を見破ってやろうと意気込んでいた応太は出鼻をくじかれたが、法則性がまったくわからなくて途方に暮れるよりはマシだと思いなおし、すぐに気分を切り替える。切り替えが早いことは応太の数少ない長所だ。この「ご案内」板がまたみつかるとは限らない。念のため、いつも持ち歩いているネタ帳にボールペンで「ご案内」の内容を書き写した。
「よし、それじゃあ行きますか!」
懐にネタ帳をしまった応太は一人、意気揚々と歩きだした。目指すは「8番出口」だ。
確かに不思議な話ではある。しかしこの段階では何が恐ろしいのか聞き手にはさっぱりわからない。現に応太は無事に脱出できていることだし、命に関わることではなさそうだ。
「それで、その通路で坊ちゃんは『異変』とやらを見たと」
「見ただけじゃなくて聞いたものもあるよ。あの通路、音まで使うから質が悪いんだ」
「悪いんですがね、もう少し具体的に」
「そう言われると思ってたから、通路の略図を書いてきた。二人とも、これを見て」
応太は膝に置いたリュックに手をつっこんでネタ帳を引っぱり出した。ページをめくって「通路」の略図を書いたページを開き、ローテーブルに置く。陳平はしかたなく応太の背後を離れて屋蓑のとなりに座り、開かれた応太のネタ帳をのぞき込む。
「これがあの通路を上から見た図だよ。まずここが番号表示。この角を曲がると左手にポスターが7枚と、右手にドア3枚と換気口二つとその他ね。あとは天井に『出口8⇧』の表示。ざっとこんな感じ」
「なるほど。で、異変とやらは、どんなもんなんですかね」
「たとえば、ポスターに書かれた目がこっちを見るとか。従業員出入口のドアがひとりでに開くとか。なかでも傑作だったのは、換気口から血が滴るヤツだね。いかにもホラーな演出でさ、思わず笑っちゃったよ」
「失礼ですがね、それは目の錯覚じゃあ…」
「ほんとに起こったことだってば。言ったでしょ、まともな場所じゃないって」
「なるほど…で、その、わけのわからない『通路』でうちの組長に会ったと」
「そう。猛馬さんはぼくの恩人だよ。生まれて初めて他人に感謝したもん。猛馬さんて、意外と優しい人だよね」
「うちの組長は確かに情に篤いお人ではありますがね、ヤクザにはちがいありませんぜ」
「確かに、怒鳴ると恐いよね。あの体のどこからあんな声量が出るんだか。ボイトレでもしてるのかと思った。肺活量すごそうだよね」
「坊ちゃん、悪いですがお話の続きをお願いできやすか」
「ああ、ごめん。猛馬さんについて話せる貴重な機会だったもんだから、つい。それじゃ、ここから先はこの図を見ながらきいてね」
応太はまず0番通路へ入った。一見すると何の変哲もない、どこにでもありそうな通路だ。しかし同時に、この世のものではなさそうな気配も漂っている。幸か不幸か無人だ。今のところは。
「はじめはチュートリアルだよね」
異変をみつけろという指示があるからには、まずは「通常」の状態を見せられているはずだ。応太はさっそく対策を思いついた。我ながら天才的なアイデアだ。
「そうだ、スマホ! オブジェクトを撮っておけばいいんだ」
応太は懐からスマホを取り出したが、画面の時刻表示がおかしい。表示されている時刻は「88:88」だった。
「なにこれ。88時の88分? 変なの。何かのバグかな…まあ、写真が撮れればいいか」
応太は深く考えずにカメラを起動させて、あたりにある物をかたっぱしから撮影していった。
「えーと…まずは天井の案内、出口8番。ポスターが1、2、3…」
応太がポスターを3枚数えたところで、通路の奥から規則正しい靴音が聞こえてきた。どうやら通路の奥から誰かがこちらへむかっているらしい。
「あの、誰かいますかー?」
靴音を聞いた応太はオブジェクトの撮影を中断して通路の奥に声をかけたが返事はない。しかし靴音は確実に近づいてきていた。
ここまで聞いた屋蓑は思わず口を挟む。
「それが、うちの組長だったわけですね」
「ちがうよ。確かに猛馬さんはいい靴はいてるけど、声をかけられて無視するような人じゃない」
「確かに。返事がなかったってのは、おかしいですね」
「でしょ。通路の奥から来たのは猛馬さんじゃない。そもそも人間じゃなかった」
「お言葉ですがね坊ちゃん、靴をはいた幽霊はいませんぜ」
「それがね、いるんだよ。ぼくらはあの人型オブジェクトを『歩く男』って呼んでたけど。一般的な表現なら『幽霊』ってところだね。歩き続ける幽霊」
「歩く幽霊ねえ…いまいち信じられねえが、まあ続きをお聞きしましょう」
応太の呼びかけに返事がなかったことからして、通路の奥からむかってくる人物は耳が聞こえないか性格が悪いかの二択だろう。どっちにしろ話しにくそうな相手だ。「コミュニケーション能力が高いオタク」を自称する応太でも会話には苦戦するかもしれない。
「困ったなあ。ぼく、手話はできないんだけど…」
相手に聴覚がない可能性も考慮し、応太は相手を待つことにした。この靴音の近さからして、もうすぐ角を曲がって姿を現すだろう。自分が相手の視界に入ってから声をかければ驚かせないはずだ。
「我ながらできてるな、配慮」
応太は自分の性格を自画自賛しながら通路の奥をみつめた。通路の角を曲がって姿を現したのは、右手に鞄を、左手にスマホを握りしめたおじさんだった。仕事帰りなのかしてワイシャツを着てスラックスをはいている。靴音の源は、このおじさんの革靴だったようだ。
「来た。そろそろ、ぼくのこと見えるかな。おーい、すみませーん」
おじさんはいまだ無反応だ。まさか、聴覚に加えて視覚もないのだろうか。仮にこのおじさんがそういうヘレンケラーみたいな人だとしたら、いくら平坦な通路の床でもこんなふうに一人でスタスタと迷いなく一直線には歩けないと思うのだが。実際のところはどうなのだろう。
「しょうがないなあ、もう。知らない人にはさわりたくないんだけど」
応太はおじさんの接近を待ち、手が届く距離になってからおじさんの肩をつかんだ。たとえヘレンケラーみたいな人だとしても、ここまですればさすがに気づくだろう。
「ごめんおじさん、ちょっと止ま…」
驚いたことにおじさんは、またしても無反応なまま歩き続けている。肩をつかまれていることさえわからないらしい。ここまでくると「無視する」の範疇を超えている。おじさんのことが急に怖くなった応太は、おじさんの肩からすぐに手を離した。
「え、なんで無反応なの? 無視どころじゃない」
もはや「無視された」で済む事態ではない。もしかするとあれはアンドロイドで、ただ通路の端を歩き続けているのかもしれない。歩行の耐久実験でもしているのだろう。「おじさん」の行方を目で追うと、応太が入ってきた側の通路端を左折して視界から消えた。
「こっわ…あれも『通常』に含まれてるわけ? やだなあ」
あのアンドロイドも通常状態に含まれているのならば毎回、通路に入るたびにあのおじさんとすれ違うことになる。不気味で怖いがしかたない。
「まあ、さすがに襲ってはこないでしょ」
この認識が誤りであることは後になってわかった。
「へえ、地下通路に人型ロボットね。しかも人間を襲わせるとは、これまた酔狂な実験で」
「言っておくけど本当のことだからね。あと、あのおじさんはロボットじゃなくて幽霊だから」
「はいはい。お話の続きをどうぞ、坊ちゃん」
「ぼくの話、信じてないね?」
「まさか。ちゃんと信じてますぜ」
「もう…ちゃんときいてもらわないと、あの通路の異常さがわからないってのに。こうなったらもう、これを見せるしかないね」
応太はリュックに手をつっこむと、なぜかビニール袋で包まれた小さな箱を取り出した。ビニール袋から取り出されて応太の手のひらに置かれた小箱をよく見ると、どうやらマジック用トランプの箱らしい。
「これ、ぼくが猛馬さんからもらったトランプ」
「坊ちゃん、冗談はやめてくださいよ。ヤクザの組長がトランプなんざ持ち歩いてるわけがねえ」
「身内のくせに、猛馬さんの特技しらないの? あの人は手品が得意なんだよ。これはまちがいなく猛馬さんのトランプ」
「…ほう。どうしてそれがわかるのか教えてもらいてえですね」
「印があるからだよ。ここ見て」
応太はトランプの箱を裏返して見せた。驚いたことに、そこには金色のマーカーで書かれたと思われるマークがある。○で囲まれた「熊」の字だ。
「うちの代紋!? じゃあ、これは本当に…」
「そう、猛馬さんのト…」
応太が「トランプ」と発音し終わる前に陳平がソファーから腰をあげ、ローテーブルに力強く両手を叩きつけて身を乗り出した。陳平はその姿勢のままで応太に怒鳴る。
「てめえ、うちの組長に何しやがった!?」
「やっと信じてくれたんだ」
「てめえが組長に会ったのは本当みてえだなあ! 組長はどこだ!?」
「このトランプ、返してあげる。だからさ、手伝ってくれない?」
「ああ!?」
「猛馬さん、自分は熊倉組の組長だって言ってたから。これを見せたら知り合いだって信じてもらえるかもしれないと思って、ダメ元でここに来たんだ。ぼくは、猛馬さんを助けたい。あの通路に置き去りにしちゃったから」
「だったら最初からそう言えばいいだろうが!」
「ごめん。まずはあそこのヤバさを理解してもらわないと、危機感が共有できないと思ってさ」
「坊ちゃん、言い訳は聞きませんぜ。陳平、おちついて座れ」
「へい、すんません」
「坊ちゃん、そのトランプの中身は見ましたかい?」
「ううん。見てないよ。もらってから一度も開けてない」
「だったら、中身を確認したほうがいい。坊ちゃん、そのトランプをこっちへ」
「いいけど、雑に扱わないでよ。猛馬さんのなんだから」
屋蓑は応太からトランプの箱を受け取ると、箱を開けて中身を取り出した。見たところ普通のトランプだが、箱に書かれている説明によるとちょっとした仕掛けがあり手品の心得がない素人でも簡単にカードマジックができるらしい。しかし屋蓑が確認したいのはトランプの仕掛けではない。我らが組長の手品の腕は着実に向上しており、今やこんな初心者向けの物を使わなくてもプロ顔負けのマジックを披露できることを屋蓑は知っている。このトランプはもう使われていないからこそ応太に託されたのだ。このカードのどれかに、組長からのメッセージが書かれているにちがいない。屋蓑はそれを確かめるため、すべてのカードを、裏面を上にしてローテーブルに広げた。一枚一枚ていねいにめくり、表面を確認していく。愛の象徴ハート、財産の象徴ダイヤ、労働の象徴クラブのカードを調べ終え、残るは死を象徴するスペードのみになった。
「今のところメッセージはなし。女・金・シノギに関する指示はなかったな」
「そうみたいだね。あとはスペードか…不吉だね」
「ああ。イヤな予感がするが、めくるしかねえな」
陳平には二人の話の意味がいまひとつわかっていないが、屋蓑がトランプのなかに組長からのメッセージがないか確かめていることは察せられたので黙って見守っている。
屋蓑は次の一枚をめくり、ついに組長からのメッセージをみつけた。カードの狭い面積を惜しんだのだろう。その文字はスペードのエースを斜めに横切っていた。右上角から左下の角へ向けて、金色の平仮名が5文字。「あきらめろ」と。
「この金色は、箱に書かれてた印と同じだな。おまけにこの筆跡、組長の字にまちがいねえ」
「そんな…どうして…」
応太は予想外のメッセージに動揺している。かりにもヤクザの組長で意志の強そうなあの猛馬が、自分の組へ帰ることも、応太と再会することも、自分の命もあきらめたとは思いたくない。
「よし。組長には悪いが、これは見なかったことにしちまおう」
屋蓑は金色の文字で「あきらめろ」と書かれたスペードのエースをひっつかむと、ローテーブルの上で真っ二つに引き裂いた。
「紙だったんだ!?」
応太はカードを破られて怒るよりも先に驚いた。てっきりプラスチック製品だと思っていたが紙製だったとは。屋蓑に引き裂かれたスペードのエースはすぐにバラバラにされ、紙屑と化した。
「ああ。うちの組長は紙製トランプを愛用してんだ。坊ちゃんは知らなかったか」
「アニキ、破いたのはまずかったんじゃ…」
「これでいいんだよ。見たくないもんは見ねえ、不都合なもんは消す。それがヤクザだろうが。好きな時にそうできなきゃ、この業界にいる意味がねえ」
「屋蓑さん、名言だね。そういう当事者ならではの言葉、もっとききたいな」
「切り替え早すぎだろうが! てめえ、ほんとに組長を助ける気あんのか!?」
「あ、ごめん。ぼく、実は小説家を目指してて。ネタになりそうなことには、つい反応しちゃって」
「小説家志望だあ? まさか坊ちゃん、今までのことはぜんぶ作り話じゃあ…」
「じゃあ逆にきくけどさ、組長が行方不明になってるヤクザの事務所に乗り込んで『組長さんの居場所しってます』なんて、冗談で言うやつがいると思う? 作り話だったら八つ裂きにされるのに」
「八つ裂きじゃ済まねえよ。嫌がらせの域を超えてるからな」
「そうでしょ?」
「ってことは、ぜんぶ本当のことなのかよチクショウ!」
「だから、さっきからずっとそう言ってるじゃん。あの通路がヤバすぎて、百戦錬磨の猛馬さんですら、ぼくを逃がすだけでせいいっぱいだったんだよ」
「だから執拗に情報共有しようとしてたわけか。やっと腑に落ちたぜ」
「猛馬さんの嘘つき。あとから行くって言ったくせに」
応太はうつむき、膝に置いた両手の拳を握りしめた。
「このトランプは記念にもらったんだよ。次に会った時、あの時の人だって、お互いにわかるようにさ。なのにあきらめろだなんて、ひどいよ」
「ああ、ひでえ。しかしまあ、わからんでもない」
「はあ!?」
応太は驚きのあまり顔をあげた。年若い応太にはまだ猛馬の気持ちがわからないが、見たところ猛馬と同年代の屋蓑にはわかるらしい。
「組長はおまえの身を案じたんだよ坊ちゃん。助けに戻ろうなんて危ねえこと考えねえように。あの『あきらめろ』は、坊ちゃん宛てのメッセージだ。通路からの救出はあきらめろ、おとなしく日常に戻れって意味だろう」
「ふーん。もしそうだとしたら、猛馬さんはぼくのこと全然わかってないね。あんな精神状態の人、放っておけるわけないじゃん・・・」
「ん? なんの話だ?」
「あ、いや、これはあとで説明するから」
「…坊ちゃんの良心と勇気には感謝しないといけねえな」
初めて屋蓑がほほえんだ。最初こそ無礼かつ不審で気に食わなかったが、応太が勇気を出してここへ来てくれたおかげで組長の居場所がわかったのだ。組員としては素直に感謝するべきだろう。
「勇気? ああ、この事務所に乗り込んできたこと?」
「それだけじゃねえ。やばい通路に戻ろうとしてることもだ。一人でも行く気だったんだろ?」
「うん。装備を整えてからね。でも…」
一般人が買える物には限界がある。装備を整えるといっても、せいぜいサバイバル用品しか買えない。おまけに応太には大した額の貯金がなく、高価な物には手が出せない。調理用具はいらないとしても、寝袋・ランタン・ナイフ・携帯食料をそろえるとそれなりの金額になる。
「ぼく、あんまりお金もってなくて。ここに来ればお金も、文字通りの武器もありそうだったから」
「いい判断だな、坊ちゃん。おれらならチャカも持ってるからな。ここには実銃が山ほどある」
非暴力主義をかかげており攻撃力よりも防御力を重視している熊倉組だが、暴力団のひとつであることには変わりない。どちらかというと合法的な手段のシノギが多いというだけで犯罪と無縁なわけではなく、違法に所持している武器も多い。例外なのは組長がわざわざ狩猟免許を取ってまで買った猟銃ぐらいのものだ。
「行方不明事件だからって、ヤクザが警察の世話になるわけにゃいかねえ。かといって、他の組員はこんな奇天烈な話は信じねえだろう。おれたち三人で行くしかねえな」
「あ、大事なこと伝え忘れてた」
「どうした、坊ちゃん」
「あの通路、たぶん一年に一日しか開かない。だから、助けに行くのは来年になる」
『来年!?』
組員の二人は驚きのあまり思わず同時に叫んでしまった。例の「地下通路」は危険な場所だとは聞いたが一年に一度しか入れないとは聞いていない。もしこの情報が確かなら自分たちは一年も組長の不在に耐えなければいけないことになる。
「坊ちゃん、その情報は確かか? 出どころは?」
「確かじゃないよ。これはあくまでも、あそこを体験したぼくの直観」
応太があの通路に捕まったのは昨日、8月8日だ。18時頃に黒樺駅で捕まり、8番出口を目指したが一度リセットされた。気を取り直して二週目に挑んだところ猛馬に出会って脱出に成功したが、通路の外でスマホの時刻表示を確認した瞬間に嫌な予感に襲われた。その時の時刻は23時。日付が変わり8月9日になってしまったら出入りできなくなる気がした。こちらから助けに向かうのなら、来年の8月8日を待つことになるだろう。
「てめえ! ほんとにそう思ってんなら、なんで昨日のうちに来なかった!?」
「猛馬さんなら、自力で出られると思ったからだよ! それに…」
「それに?」
「疲れてたんだ。助けに戻っても、足手まといにしかならないから」
「まあ、妥当な判断だな。共倒れになっちまったら、組長のお気持ちが無駄になる」
「そうでしょ。思いつきで動いちゃダメだ。ちゃんと対策しなきゃ…さっきの話。確信はないから、猛馬さんが乗った駅から乗って、降りた駅で降りて、実験してみてもいいけど」
「ああ。さすがに一年は待てねえ。陳平、今日から毎日、地下鉄に乗れ。交通費はおれが出す」
「へいっ」
「じゃあ、ぼくは東京の地下鉄にぜんぶ乗る。屋蓑さん、ぼくの交通費もよろしく」
「はあ? なんでまた?」
「自動販売機の調査だよ。あの通路、たまに自販機が出現するんだ。たぶん、実在する自販機をサンプリングしてるんだと思う。だから対策しないと」
あの通路は、捕らえられた人間が空腹やのどの渇きをうったえると自動販売機を出現させる。ご丁寧にもコインの投入口がついていたから、硬貨を入れてボタンを押すと、実際に商品が取り出し口に排出され、取り出すことができる構造になっているのだろう。閉鎖空間に閉じ込められているうえに体が弱っている状況では食品というだけでとても魅力的だが、食べたらどうなるかわからない。出現するタイミングからして罠のような気がする。猛馬は通路の自販機を警戒し、応太が自販機に近づこうとすると制止した。猛馬は「自販機のものを食べると通路に取り込まれる」と思っていたからだ。その可能性は大いにある。
「だから、地下鉄の駅に置かれてる自販機を調べるんだよ。猛馬さんは、自販機の中身と同じ物は絶対に食べないから」
一口に飲食物の自動販売機といっても、その種類は様々だ。たとえば缶コーヒーやペットボトル飲料。栄養食品や小さなお菓子、冷凍食品もある。一目見て「これは自販機の商品ではなさそうだ」と思えるものでなければ猛馬は食べてくれないだろう。実際に地下鉄の駅構内に置かれているものを調べ、その自販機では買えないものを選ばなければいけない。
「絶食が続いてるなら、相当弱ってると思う。何か食べさせてあげたいでしょ?」
「なるほど。おれたちが持ち込む食料も、その調査を元にして決めるわけだな。理にかなってる」
屋蓑は「なぜ自分が応太の交通費も出さないといけないのか」という意味できいたので応太がよこした答えは想定外だったが理にかなっている。持ち込む食料の選定は応太に任せるべきだろう。そのための調査費用だというならしかたない。
「わかったら交通費出して。できるだけ乗り放題パス使うから」
「わかった。しかたねえ、出してやる」
「ありがとう。たぶん一年がかりで準備することになるから、これから色々よろしくね」
「いろいろっつうのは?」
「他の経費の支払いとか。あとは武器の手入れとか?」
「坊ちゃん、ヤクザにたかるのはよしたほうがいい。後が怖いぜ。ついでに言うと…」
「逃げたら殺す、でしょ? わかってるよそれぐらい」
「…坊ちゃん、肝が据わってるな」
「今まではつい面倒なことから逃げちゃってたけど、こればっかりはね。ここで逃げちゃったら、猛馬さんを助けられないから…猛馬さんが地下鉄に乗り降りした時間はわかる? できるだけ同じ時間に乗ったほうがいいと思うけど」
あの通路がひとつの駅に留まっているとは限らないし、同じ時刻の電車をターゲットにしているとも限らない。出入りできる日が「8月8日」で、挑戦者を捕らえる時間が「8に関する時刻」という決まりがあるだけだろう。ただあの通路を目指すだけなら乗り降りする駅はどこでもいい。降りた時に「8に関する時刻」であればいいだけだ。しかし、特定の人物と同じ通路に入りたいのであれば話は変わってくる。その人物が乗った駅・乗った時刻の電車に乗り、同じ駅で降りるべきだろう。
「ああ。時間ならわかるぜ。組長を見失ったのはおれの責任だ。昨日、組長と地下鉄に乗ったのはおれだからな」
「へえ、ヤクザの世界にも責任なんて言葉があるんだ?」
「てめえ、生意気な口きいてんじゃねえ!」
「仕事の成果に文字通り命がかかってる業界だからなあ。無責任な野郎にヤクザは務まらねえんだよ」
「な、なるほど…」
応太の顔は少しひきつっている。この二人は半信半疑ながらも一応は応太の話をきいてくれたし今のところ殴られてもいないのでつい忘れていたが、ヤクザはヤクザなのだ。ヘマをして東京湾に沈められた人間を無数に見てきたにちがいない。「無責任な奴にヤクザは務まらない」という言葉には妙な重みがある。ヤクザは素人が思うほど楽な稼業ではないという実感が込められていた。
「本当に一年がかりの計画になるんなら、なおさら責任感を発揮しねえとな。とりあえず、来月の集会はおれが組長の代理で顔を出す」
「当然そうなるっスね」
「他のことは、あとで他の幹部と打ち合わせしねえとな…いや、組長の置手紙を捏造するのが先か」
「捏造!? そんなことしたら屋蓑さんが吊るされない!? 大丈夫なの?」
おそらく屋蓑は組長の長期不在に備え、猛馬の筆跡を真似て「一年後に戻る」という内容の置手紙を捏造するつもりだ。カードに書かれた小さな文字からでも組長の筆跡を読み取れる屋蓑であれば猛馬の字を真似て偽物の「組長の置手紙」を書くことは可能だろう。しかし、置手紙が偽物であることがばれたらいくら幹部の屋蓑でもただでは済まないのではないか。応太は屋蓑の身を案じている。
「ばれなきゃいいんだよ。おれのことはいいから自分と組長の心配をしろ。坊ちゃんは組長の救助に専念するんだ。いいな?」
「う、うん」
「アニキへの返事は『はい』だ小僧!」
「は、はいっ」
「ようし、良い返事だ。坊ちゃん、組長とはいつ会った?」
「一度リセットされたあとだから、二週目のはじめだね」
「よし、じゃあそこから話せ」
「わかった。最初は『異変』扱いされて困ったけど、猛馬さんは頼りになったよ」
いくらオカルトマニアでも楽しめることには限界がある。さすがの応太でも音をあげる事態になった。意気揚々と進んできたのに、進捗度がリセットされてしまったのだ。よりにもよって最後の「8番通路」で。あの通路をクリアしてさえいれば今頃は出口にたどり着いているはずだった。それなのに今、応太の目の前にあるのは「0番通路」だ。
「異変を見落としたらリセットされるんだ・・・さっきの通路に異変なんかあった?」
応太はここまで8回連続で通路の「まちがい探し」をクリアしてきた。あと1回で、このゲーム「8番通路」をクリアして脱出できるはずだったのに。応太は落胆と疲労で力が抜けてしまった。また0からやり直さなければいけないと思うと気乗りしないが、ここに留まっていたら半永久的に出られないだろう。この異常な地下通路から出られる唯一の脱出口「8番出口」は「8番通路」の先にしかないのだから。
「進むしかないのはわかってる・・・しかたない」
今ここで座り込んでしまったら二度と立ち上がれない気がした応太は重たい足をひきずるようにして0番通路に入った。幸いにして「おじさん」の挙動には変化がなく、何事もなくすれちがえた。
「0番通路は見本だから不変なのかな」
応太は誰に聞かせるまでもなく独り言を言いながら0番通路を通り抜ける。ざっと見た感じ、一列に並んだ7枚のポスターに書かれた内容にも変化はない。リセットされて2週めに入っても、見本である0番通路は変化しないらしい。
「問題はこの先だな」
応太は1番通路の入り口で立ち止まり、深呼吸して呼吸を整える。背負ったリュックの重みが鬱陶しくなってきたが、この先なにが起こるかわからない。この通路で捨てた物は二度と回収できないだろう。疲労が限界に達するまで背中のリュックを捨てるわけにはいかない。もう少し背負っていこう。
「よし、行くぞ」
ここから先はまったく気が抜けない。体力の余裕がなくなりつつある今、これ以上リセットされてしまうことは避けなければ。応太は気を引き締めて1番通路に入り、半ばまで進んだところで遠目に「おじさん」の挙動を観察した。
「おじさんの速度、変わりなし」
全力疾走するおじさんに追われてびびらされたことがあるが、なんとか逃げ切ることができた。気づくのが遅れたら捕まっていたかもしれないと思うとぞっとしたが、この通路で捕まる心配はなさそうだ。近づいてきたおじさんの顔も確認したが表情にも変化はない。初めて不気味な笑顔を見せられた時は恐怖のあまり腰が抜けてしまったので、おじさんにはずっと無表情でいてほしい。
「それではポスターを、っと」
おじさんが通路の角を曲がって消えたのを見送った応太は反対側の壁にあるポスターを確認しようとしたが方向転換しただけで足がもつれ危うく転びそうになった。思った以上に疲労がたまっているらしい。
「意外と限界近い、かも」
荷物を捨てるのはずっと先、せめて5番通路にたどり着いてからにしようと思っていたが、もうここでリュックの中身を捨てたほうがいいかもしれない。財布以外の物は実験がてら捨ててしまおうかと迷っていた時。おじさんが姿を消した角から靴音が聞こえてきた。
「え、なんで?」
まさか、あの「おじさん」が戻ってきたのか。それとも「足音がする」という異変なのか。だとしたら戻るべきだが、そうすると足音の源へ近づくことになる。とても安全とは思えない。ここは、足音の主が姿を現すのを待つべきだろう。目に見える姿があるならの話だが。
「ほう。こりゃ、珍しい異変だな」
つぶやいたのは通路の角から現れた50歳前後と思われる中年の男だ。中年ではあるが見慣れた例の「おじさん」ではない。あの「おじさん」が言葉を発したことは一度もないし、服装もちがいすぎる。背中に楽器ケースのような物を背負ったその男の服装は妙に洒落ていた。まずは灰色でダブルブレストのジャケット。上着の合わせがダブルなのは年齢相応ではあるがワイシャツは黒く、ネクタイは赤紫色だ。おまけになぜか手袋の上から指輪を4つもつけている。ボトムスは上着に合わせた灰色のスラックスで靴は黒い革靴というありふれた組み合わせではあるが、全体的にサラリーマンではなさそうな格好だ。明らかにあの「おじさん」とは別の個体というか、生きた人間に見える。しかし、本当に生身の人間なのだろうか。応太はこの通路に入って以来、他の人間に会ったことがなかった。もしかしたらこの男も「おじさん」のように通路がつくり出したものなのかもしれない。
応太が突然の出会いに戸惑い、通路の半ばでこの男に話しかけるべきかどうか無言で思案しながら突っ立っていると、男は前の通路へ戻ろうと歩きだした。先ほど聞こえてきたのと同じ靴音が応太から遠ざかっていく。
「ま、待って! 行かないで!」
応太は思わず叫んだ。ついさっきまで「この男が人間とは限らないから話しかけないほうがいいかもしれない」と考えていたのに、いざ目の前から立ち去られると急に心細くなった。応太は思っていた以上に会話に飢え、人恋しくなっていた。普段は人混みが嫌いで一人が好きで、いつもいつも「ほっといてほしい」と思いながら生きている応太からすればかなり異常な心理状態だが、今の応太にはそれを自覚する余裕がない。
応太から離れようとしていた靴音が、止まった。どうやら相手は足を止めてくれたらしい。応太の声が届いたようだ。応太は早足で通路を戻った。今いるのは1番通路だ。ここでリセットされてもまだ惜しくない。振り出しに戻されることなんかどうでもいい。応太は男と話したい一心で歩き、通路の角を左折したところで思わぬものを見た。
「しゃべるたぁ、ますます珍しい異変じゃねえか」
男は猟銃をかまえていた。どうやら、この男が背負っているのは楽器ケースではなくこの銃のケースらしい。ケースから銃を取り出して背負いなおし、銃に弾を込め、ここで待ち構えていたのだ。わずかな時間でこれだけの動作ができたということは、よほど銃の扱いに慣れているのだろう。むやみと洒落た格好の男ではあるが、実は猟師なのかもしれない。
「元が誰だったのか知らねえが、さすがに自我はねえだろ」
「ううう撃たないでっ。ぼく、ぼく人間だよ!」
猟師にしては殺意がありすぎる気がする。猟師が撃つのは害獣で、人間ではないはずだ。応太に殺意をむけているこの男は猟師ではないのかもしれないが、だとしたらなぜこんなに構えが様になっているのだろう。
「その手にゃ乗らねえ。人の身内を奪っといて、今さら話し合おうとするんじゃねえ!」
冷静に見えた男が怒号を発した。この男は応太にとって致命的な勘違いをしているらしい。「通路が人型のものをつくりだして話しかけてきた」と解釈しているようで、応太のことを生きた人間だとは思っていないようだ。下手なことを言ったり不審な動きをしたら撃たれてしまう。自分の命のためにも、脱出に協力してもらうためにも、まずこの窮地から脱しなければ。そのためにもっとも効果的な言葉を応太は考えた。この通路に捕らわれた人間が例外なく求めているものを提示すればいい。この通路にいるすべての人間が求めているもの。それは「出口」だ。
「で、出口まで案内する!」
「・・・なんだって?」
「出口のある通路まで案内するよ! 本物の出口は見たことないけど、出口のある通路は知ってるんだ!」
「なんで、出口は知らねえんだ?」
「まだ、たどり着いてないから」
「ああ? まるで、この通路のチャレンジャーみてえなこと言うじゃねえか」
「まあ、実際、脱出ゲームのプレイヤーみたいなもんだし」
「おかしなこと言うな。おまえ、この通路の一部だろ?」
「ちがうよ。そう思いたくなるのもわかるけど」
「会話できるタイプは無自覚なのか。ってことは、あいつもそうだったのか?」
まだ根本的な誤解は解けていないようだが、男がかまえる猟銃の銃口がわずかに下がった。出口まで案内するという提案は、警戒心の強い男にも効果があったらしい。
「あいつって、誰?」
「おまえにゃ関係ねえよ。案内しろ。撃つのはあとにしてやる」
「あとでも撃たないでほしいな」
「それはおまえしだいだ。おかしな動きしやがったらすぐに撃つ」
「わかった・・・まあ、番号を見てくれたら誤解も解けると思うし」
「ごちゃごちゃ言わねえで、さっさと歩け。絶対に走るなよ」
応太は即死を免れたがまだ命の危機は続いている。
「これが、猛馬さんとの出会いだよ」
屋蓑は語り手の応太に小さく拍手した。応太の語り口はなかなかに達者なもので、思わず聞きほれてしまったのだ。まるでできのいいフィクションを聞かされている気分になり、危うく現実のできごとであることを忘れるところだった。
「いやあ、息をのむ語り口だな。臨場感があふれてたぜ。さすが、小説家志望なだけあるな」
「ありがと」
「それにしても、いかにも組長らしいご判断だ。それでよく撃ち殺されなかったな」
「まあ、がんばったから。信用してもらえるように」
「じゃあ、まずは番号を確認するからついてきて」
応太は銃をかまえた男の横を通りすぎ、右折して番号表示を確認しに行く。この間、男は応太からまったく視線をはずさず、銃口を下げることもなかった。どう見ても敵に対する行動だ。応太は生まれて初めて、敵視される気分を知った。生きた人間をここまで敵視できることからして、どうもこの男は猟師ではなさそうだ。ここまで明確な殺意を持てる者は軍人かヤクザぐらいなものだろう。近くでよく見ると、男の顔には傷があった。左のこめかみから額にかけて一筋の傷が走っている。軍人とヤクザのどちらにせよ顔に傷があって当然だが、洒落た格好に銃というちぐはぐな組み合わせからして、この男の正体は後者と思われる。だとしたら熊倉組のことも少しは知っているかもしれない。
応太は考えながら通路を歩いて番号表示板の前で立ち止まり、現在の番号を指さし確認した。
「0番。異変がないのに戻ったから、リセットされたんだ」
手を下げた応太は男を刺激しないよう、ゆっくりとふりかえって言う。
「ね。ぼくは異変じゃないでしょ」
「確かに0番だが。おまえが人間だってことの証明にはならねえ」
「え、どうして?」
「通路がよこした使いは異変に含まれねえからだろ」
「そんなの、おじさんの解釈じゃん」
急に「おじさん」呼ばわりされた男は不快そうに顔をしかめたが、お互いに相手の名前を知らないのだからしかたない。非常識な状況ではあるが、ここはやはり名乗るべきだろう。お互いの名前を知らないと会話しにくくてしかたない。礼儀以前の問題だし、この男の名と正体を確かめたい。自分から名乗れば男も名乗ってくれるだろう。
「ぼくは人間だってば。名前だってあるんだから」
「ほう。一応、きかせてもらおうか」
「ぼくの名前は、真津下応太。これからは名前で呼んでよ。おじさんの名前は?」
応太はあえてフルネームを名乗った。この男の姓を確かめるために。会話するだけなら下の名前だけでもよかったが、それだと相手はフルネームを名乗ってくれないだろう。応太が探しているのは暴力団「熊倉組」の関係者だ。あの組の名は創設者の姓にちなんで名付けられたときいたことがある。「熊倉」と名乗る者をたどれば、組員の誰かにたどり着けるかもしれない。そのためにもまずはこの男の名前が知りたい。
「名乗られちゃしかたねえな・・・おれは、熊倉猛馬だ」
「え、熊倉って。もしかしておじさん、あの熊倉組の関係者?」
応太の人生では今まで暴力団員との接点はなかった。初めて接触したのが熊倉を名乗る男とは、なんとも運がいい。
「おまえ、熊倉組を知ってるのか?」
男は「熊倉組」の名に反応した。やはりあの暴力団の関係者らしい。組の名と同じ姓を名乗っているから、もしかしたら熊倉組創設者の親戚なのかもしれない。親戚どころか熊倉組の一員だったらさらに話が早くて助かるのだが。
いまだ銃口をむけられている危機的な状況ではあるが考えようによっては幸運でもある。たとえこの男が熊倉組の一員ではないとしても、同業者ならば少しは情報を持っているだろう。
「そりゃあ知ってるよ。一部では有名だもん。熊倉組は、樺崎地区爆発汚染事故の実行犯だって、もっぱらの噂だよ?」
「またその話か。いいかげん、きかれ飽きたぜ」
「おじさん、熊倉組の人なの?」
「ああ、おれはあの組のもんだ」
なんとも都合のいいことに、この男は熊倉組の一員だった。どれほどの地位にあるのかはわからないが年格好からして長いこと熊倉組にいるはずだ。8年前のことでも詳しく知っているかもしれない。うまくすればあの「事故」の真相を聞き出せるだろう。
「そっか。おじさんには悪いけど、熊倉組が疑われるのはしかたないと思うよ。あの工場の最寄りの暴力団なんだから」
もちろん、疑われる理由は組事務所と化学工場の位置関係だけではない。熊倉組は政治家の世島とつながりがあると言われているのも理由のひとつだ。世島は己の居住地を犠牲にしてまで金儲けをしたのではないかと疑われており、工場の爆破を熊倉組に依頼したのではないかと噂されている。応太はここまで知っているがあえて口に出さず、より単純な理由だけを話した。まるでそれしか知らないかのように。応太はこの男に「無知で純真な少年」だと思われるようふるまうと決めた。あの事故の真相を聞き出すために。
「そりゃそうだがな、質問責めにされる身にもなれよ。あれはもう8年も前のことなんだぞ」
「そうだけど。やっぱり気になるじゃん」
「ったく、なんで兄貴がしたことでおれが責められなきゃいけねえんだよ」
「兄貴って?」
「おまえに教える義理はねえが・・・通路が知りたがることでもねえな。人間のふりじゃないってことか」
「だから、最初からそう言ってるじゃん。銃をむけられる身にもなってほしいね」
「わかった。ひとまず、おまえは人間だってことにしておこう」
「それはお互いさまだよ。ぼくだって、ついさっきまで『この人ほんとに人間かな?』って思ってたんだから。この通路で出会ったのは、熊倉さんが初めてなんだよ」
「そうか。ヤクザを相手に、それだけ減らず口がきけるとは度胸があるな。気に入ったぜ、信用できるうちは撃たないでおいてやる」
熊倉と名乗った男はようやく銃口を下げ、引き金から指をはなしてくれた。しかし背負ったケースを降ろす様子はない。まだ銃をしまう気はないらしい。
「それ、信用されたっていうのか?」
「人間だと思ってもらえただけでも、大した進歩だよ。撃ち殺されるよりは全然いいし」
「確かにな」
初対面かつ銃を持った人間に探りを入れるとは。応太は屋蓑の予想以上に神経が図太い青年らしい。この図太さが組長に評価されたのだろう。
「それで、そのあとはずっと組長と一緒にいた、と」
「うん。最初は恐かったけど。何が起きるかわからない通路のほうが、猛馬さんよりずっと恐かったから。一緒にいてくれてよかったよ」
確かに、わけのわからない異空間よりも不可解で恐ろしい人間などそうそういないだろう。仲違いして撃ち殺されるリスクを負ってでも、正気かつ武装した人間と組みたいと思うのも無理はない。相手の機嫌を損ねることなく協力できれば生存率も上がるだろう。
「二人で進んでも、順調にはいかなかったけどね」
「さては坊ちゃん、組長の機嫌を損ねたな? 撃たれそうになったんだろ」
「撃たれはしなかったけど、止められたことはあるよ」
猛馬が「おじさん」を見張り、ドア3枚と通気口の状態を確認。それ以外のオブジェクトは応太が確認する、という役割分担を決め、二人は0番通路から歩き出した。そして難なく3番通路までクリアしたが、4番通路で問題が起きた。といっても攻撃的な異変があったわけではない。「おじさん」の挙動に変化はなかった。ただ、通路の奥に冷凍食品の自動販売機が出現しただけだ。どうやら、本体の中で加熱してすぐに食べられるようにしてから出してくれるタイプの自販機らしい。
「熊倉さん、あれ見える!? 自販機だよね!?」
「確かに、自販機に見えるが・・・」
「よかった。ちょうどおなかすいてたんだ。この通路に来てから何も食べてなくてさ。財布に小銭があるか確認するから見張ってて。何も起きなかったら、何か買ってくるから。熊倉さんは何がいい?」
応太はリュックから財布を取り出したが、猛馬の返事はつれないものだった。
「何もいらねえ。戻るぞ」
「へ!? どうして!?」
「物体が出現するのは異変だろ。おまけに、あれはどう見ても罠だ」
「考えすぎじゃない? 通路の気遣いでしょ。プレイヤーに死んでほしくないから食べ物を・・・」
「あれの中身がまともな食い物のわけねえだろ。この通路は人間を捕まえたいんだ。あんなもん食ったら取り込まれるぞ」
「えー。そうかなあ」
「いいから財布をしまえ。いうこときかねえと置いてくぞ」
「もう。わかったよ」
応太はしぶしぶリュックに財布をしまい、猛馬のあとについていく。この分だと、飲み物の自販機をみつけても何も買わせてくれなさそうだ。ヤクザも人間なのだから腹は減るはずだし喉も乾くはずなのに、この男は平気なのだろうか。
通路を戻った二人は番号表示を確認した。ありがたいことに5番へ進んでいる。自分の判断は正しかった。一時的に気を緩めた猛馬は通路の床に腰を下ろす。
「真津下、隣に座れ。食い物がいるなら分けてやる」
「え、ほんと!?」
「ああ。干し肉でよければな」
「干し肉って、ジャーキーみたいなやつ? いかにもおじさんくさいチョイス…」
「いらねえならぜんぶ食っちまうぞ」
「い、いるっ」
応太はあわてて猛馬の右隣に座る。今まで応太は猛馬に警戒されていて、休憩時は向かい側に座るよう指示されていた。応太は通路の一部ではなく人間だとは信じてくれても、完全に味方だと思ってくれたわけではなかった。それなのに今は隣に、手の届く距離に座らせてくれている。猛馬の心境に何か変化があったのだろう。
猛馬は銃を床に置いて懐に左手を入れ、スーツの内ポケットから真空パックされた干し肉を取り出した。よく見るとパックには紙のラベルが貼られている。そこに書かれていたのは「ウルトラハードミート:モミジ」という商品名と「世界最硬肉! 歯の欠損にご注意を!」というアオリ文だった。
「なにそれ。初めて見た。めちゃくちゃ固そうじゃん」
「ああ。これは鹿肉なんだがな、固すぎて素手じゃまず裂けねえし、顎の弱い奴には噛みちぎれねえシロモノなんだ」
「水もなしにそんなもん食べろっての!?」
「安心しろ、おれに考えがある」
猛馬は真空パックの封を切って干し肉を一枚だけ取り出した。もう一枚はパックのなかに残し、パックごと懐にしまう。スーツの内ポケットに干し肉の匂いがつきそうだがしかたない。猛馬は右手に干し肉を持ったまま応太に指示を出す。
「よし、口を開けろ」
「や、いったん手渡ししてよ」
「いいから口を開けろ。おれがよしと言うまで閉じるなよ」
「もう。しかたないなあ」
応太はおとなしく口を開いた。どうやらこの男はどうしても自分の手で応太の口に干し肉をつっこみたいらしい。ヒナにエサをやる親鳥の気分にでもなっているのかもしれない。応太が口を開けて待っていると、切られていない干し肉がそのまま、そっと差し込まれた。乱暴に喉の奥までつっこまれてむせるところまで想定していたので、この優しさは意外だ。
猛馬は干し肉を半分ほど応太の口に入れてからそっと手を話した。
「よし、閉じていいぞ。そのままくわえてじっとしてろ」
応太はゆっくり口を閉じた。干し肉が歯に当たる。軽く噛んでいる感触だけでもすでに異常な固さを感じる。干し肉というより薄い鉄板でも噛んでいる感覚だ。舌に肉とスパイスの味を感じていなければ食べ物かどうかも疑っていただろう。
応太は横目で左隣に座っている猛馬の様子を確認した。考えがあると言っていたがどうするつもりなのだろう。
「よし、動くなよ」
なんと猛馬は右手にハサミを持っていた。見たところ小振りな台所ハサミだ。確かに食材を切るための道具ではあるが、この状況で見せられると恐怖しか感じない。いったいどこから取り出したのだろう。まさか持ち歩いているのだろうか。ヤクザがなんのためにハサミを持ち歩いているのか、理由をきいたら後悔するような気がするのできかないでおこう。いや、こんなことを考えている場合ではない。ここはいったん立ち上がって距離を取り、相手を鎮めるべきではないか。
応太が立ち上がって逃げるべきか迷っている間に猛馬の左手が中空にある干し肉の端をつまむ。続いて、応太の唇すれすれに台所ハサミの刃が差し込まれた。
「動くなよ。唇まで切れちまうからな」
ここで口を開いて干し肉を床に落とそうものなら怒鳴り声とともに顔面へハサミを突き刺されそうだ。こうなったらもうじっとしているしかない。応太は観念して目を閉じた。
応太の口元でハサミの刃がばつんと音をたてて閉じられた。一瞬、自分の舌が切り取られたのではないかと錯覚する。干し肉を切っただけとは思えない音と衝撃だった。
「よし、切れたな。もう動いていいぞ。しっかり噛めよ。この肉はとにかくかてえからな」
猛馬に声をかけられて、応太はおそるおそる目を開ける。猛馬はもうハサミを持っておらず、自分の舌と唇は無事だった。応太はわずかに口を開け、口の外へ出ている干し肉も口に含む。しばらく無言で干し肉を噛んでいると唾液のおかげで徐々に柔らかくなりガムぐらいの固さになってくれた。これぐらいの固さなら噛むのにそこまで集中力を要しない。今なら舌を噛まずに話せそうだ。
「ねえ、熊倉さん」
「なんだ。あんまりしゃべると舌噛むぞ」
「うん。気をつける。分けてくれてありがと。これ意外とおいしいね」
この干し肉の塩は控えめだが、そのかわりスパイスがきいている。肉の旨味と、鹿肉の臭みを殺すほど多量のスパイスのおかげで自然と唾液が分泌され、思っていたよりも早く柔らかになった。これなら水なしでも飲み込めそうだ。ふんだんにスパイスが使われていることからして、そこそこ高級な品だろう。普段は酒のツマミにしているものを非常食として分けてくれたらしい。
「な、うまいだろ。おれのお気に入りだ」
猛馬が初めてほほえんだ。表情が和らぐとヤクザもただの人間であることがうかがえる。誰であれ自分が気に入っているものをほめられれば気分がよくなるものだ。猛馬も例外ではないらしい。
「固すぎて食いにくいが、味はいい。顎も鍛えられていいだろ」
猛馬によると「ウルトラハードミート」シリーズには他に「ボタン」と「サクラ」と「クマ」があり、どれも同じぐらい固いらしい。1番人気は意外にもクマなのだとか。
「おれは兄貴から教わったんだ。兄貴はボタン派だったけどな。おれは断然モミジ派だ」
「確かにおいしいけどさ。この肉を人に分ける時は、いつも、さっきみたいにしてるの?」
「さっき? ああ、鋏のことか。切れ味よかっただろ。刃物屋で買ったんだ。付属のケースは革製でな。この鋏も気に入ってんだ」
「お気に入りなのはいいけどさ。危ないし恐かったよ。他の人にもしたの?」
「ああ。この肉を教えるついでに。さっきみたいにするとな、相手はたいていびびるんだ。その反応がおもしろくてな」
「舌まで切られるかと思った。冗談じゃ済まないからやめて」
「そうか? おまえは逃げなかったじゃねえか」
「疲れてて逃げられなかったんだよ」
おなかがすいていたから安全な食べ物を分けてほしくてじっとしていたのもあるが、何よりも疲労がたまって動きづらくなっていた。とっさに逃げるだけの気力も体力もなかった。
「そうか。さてはおまえ、見た目よりも弱ってるな?」
「かもしれないけど。食べ終わったら、先に進まないと」
「無理すんな。なんならここで仮眠でも・・・」
「ありがたいけど、もうちょっと先でいいよ」
「今いるのは5番だぞ。もう折り返し地点じゃねえか。休むならここがいいだろ」
「だめ。8番か、せめて7番まで行かないと」
「おまえがそれまでもつならいいが。先延ばしにする理由は?」
「この通路、連続で9回正解しないと出られないんだよ。残りの方が多いんだ。まだ気は抜けないよ」
「・・・ああ、言われてみりゃそうか」
応太に言われてるまで失念していたが、改めて数えてみれば確かにそうだ。捕らわれた人間たちが目指す8番出口が8番通路の先あるのは確かだが「8番通路に異変は起きない」というルールはない。出口につながる最後の通路もまた「間違い探し」の対象なのである。8番通路で異変を見落とせばリセットされてしまい、また0番からやりなおしになる。応太の状態を見るに、もう1週する余裕はないだろう。
「残りのほうが少なくなって、気が抜けちゃいそうなところで休みたいんだ」
「なるほどな。わかった。食い終わったら進むぞ」
「うん。一緒にいてくれてありがとう」
「礼を言うにゃ早いぞ真津下。まだ誰も助かってねえ」
「確かに。じゃあ、外に出たら改めてお礼言うね」
「ああ。生きてたらな」
「不吉なこと言わないでよ。ヤクザの人が言うと洒落にならないじゃん」
「冗談抜きで言ってんだ」
「まさか、ここで死ぬつもり?」
「なわけねえだろ。野郎どもが待ってんだ。おれは絶対に自分の組へ帰る。おまえも自分の家に帰りたいだろ」
「うん」
「だったら死ぬなよ。さすがに死体を連れてく余裕はねえからな」
「うん。気をつける」
この異常な空間では「気をつける」としか言えない。まともな場所でも人はちょっとした不注意で命を落とすのだから。ましてや悪意があるのかどうか、いやそれ以前に意思があるのかどうかもわからない通路が相手ではいつ死んでもおかしくはない。だからといって応太は死にたいわけではないが、この異常空間では軍人でもヤクザでもない凡人の身で「絶対に生きて帰る」とは言い難い。どこかの山で遭難しているほうがまだ生存確率が高い気がする。
「あ、そうだ。熊倉さん」
「なんだ?」
「ぼくのことはさ、応太って呼んでほしいんだ」
口内に残っていた干し肉の最後の一片を飲み込んだ応太は、なぜ名字で呼ばれたくないのか猛馬に説明した。働いた経験のない応太は名字で呼ばれるのに慣れていないし、街中で「よう、真津下じゃん。今なにしてんだ?」と声をかけてくるのは、中学や高校でいじめっ子だった同級生が多い。昔からかって遊んでいたやつをみつけて暇つぶしに近寄ってくる。応太はああいう手合いが嫌いだ。名字で呼ばれるとどうしても、ああいう連中のことを思い出して気分が悪くなる。
「だからさ、味方には応太って呼ばれたいんだよ」
「なるほど。うだつの上がらないやつの感性だな」
「わかってる。でも、お願い」
「わかった。だったら、おれは猛馬でいい」
「うん。ありがとう、猛馬さん。実は熊倉さんて呼ぶの嫌だったんだ」
「ほう。どうして?」
「ぼくの家は食堂だったんだ。だけど、あの爆発事故でブルームパークが閉園したせいで、客足が途絶えちゃって。うちが潰れたのは熊倉組のせいだと思ってた」
「なるほどな」
猛馬も噛んでいた干し肉を飲み込んだ。これでようやく真剣な話ができる。
「それで、あの事故について聞き出そうとしてたのか。熊倉組はずっと疑われてるからな」
「うん。でも、もうあの事故について調べるのはやめる。猛馬さんのことは恨みたくないから」
「そうか。じゃあ、二人とも生きて外に出られたら、おれが真相を教えてやるよ。だから、あきらめるな。しっかりついてこい。いいな?」
「わかった。ありがとう」
応太も初めての笑顔をみせた。実を言うと猛馬の態度が軟化するまでずっと緊張が続いていたのだ。隣に座らせてもらい、食べ物を分け与えられて、ようやく気を緩められた。初対面の時こそ殺されそうになったが、今は信じられる人だ。もう演技はやめよう。応太の場合、純真さはそもそも演じるまでもなかった。「年齢の割に子供っぽい」と言われ続けてきたのだから。無知を装う必要もなくなった。猛馬はあの事故の真相を教えてくれるというのだから。
「それじゃあ、後半戦もよろしくな、応太」
「うん。よろしく、猛馬さん」
「肉は食い終わったよな。立てるか?」
「大丈夫」
ふたりは立ち上がり、気を引きしめて5番通路へ入った。目指すは8番通路だ。
「よくそんな経緯でうちとけられたな」
「ヤクザの人でもそう思う?」
「ああ。さてはおまえ、疲れすぎて頭がまわってなかっただろ」
「それは猛馬さんもだと思うけど」
あの時は二人とも疲労がたまっていたから、普段ほどの警戒心は働いていなかったのだろう。お互いほとんど素の言動をしていたように思う。あの通路でできたことは疲れていてもできることだ。猛馬はあんな状況でも人を驚かして遊ぶだけの余裕があった。あの人はよほど追いつめられない限りユーモアを忘れない人なのだろう。さすが、組長を務めているだけのことはある。
「それで、5番通路から後は?」
「5番は問題なかったんだけどね。6番から先がまあ、ひどくてさ。もしあの通路に設計者がいるんなら、きっと悪魔だね」
幸いにして5番通路に異変はなく、集中力は要したが体力は温存できた。いつもの角を右折して、左手に見えてきた黄色い番号表示板を確認する。そこにあった番号は「9」だった。
『は!?』
あまりの驚きにふたりは思わず同時に声をもらした。5番の次が9番になっていることの意味がわからなかった。番号が変化しているから、異変を見逃したわけではないはずだ。では、いったい何が起きたのだろう。
「応太、今まで番号が飛んだことはあったか?」
「いや、ぼくが見た限りではなかったけど。猛馬さんは?」
「おれも見たことねえな。ということはこれは、完全に未知の状況か」
「どうする、戻る?」
「これは番号だろ。異変が起きる箇所じゃねえ」
「それはそうだけど、不自然な変化にはちがいないし・・・あ、もしかして」
「何かわかったのか?」
「いや、想像しただけ。もしかして、ボーナスステージかもって」
「ボーナスステージだあ?」
「そう。たとえば、攻略が有利になるアイテムがもらえるとか。それか、異変がないことが確約されてて安全だとか。とにかく、今までよりもちょっと楽なステージ、だったらいいなあって」
「なるほど。だとしたら、その逆を想定するべきだな。えらく危険な異変が出て、おまけに退路がふさがれて戻りにくいっつう状況を」
「そんな・・・通路がぼくらにトドメを刺そうとしてるってこと!?」
「ありえることだろ。下手するとこの銃の弾を使い切っちまうかもしれねえな」
「やだ・・・こわいよ、進みたくない」
「じゃあ一生ここにいろ。おれは進むぞ」
「うそ。さっき、よろしくって言ったばっかのくせに、もう置いてく気なの!?」
「残念ながらそうなるな」
「あー、もう、わかったよ! 行けばいいんでしょ行けば!」
「よし、その意気だ。これからふたりで9番通路へ入るにあたって、注意事項があるからよく聞けよ」
「え、注意事項?」
「ああ。異変を認識するまで戻るな。この通路のルールをよく思い出せ」
「えーと・・・あ!」
応太は思い出した。「異変をみつけたら」すぐにひきかえせというご案内を。あのご案内の裏を返せば「異変をみつけるまでひきかえしてはならない」ということだ。ひきかえすのは、異変が現れた後でなければいけない。
「そうか。嫌な気配がしても、それ自体が現れるまでは、ひきかえしちゃいけなんだ」
「そうだ。罠なら通路を半分過ぎてから、後方に現れる。つまり、乗り越えるかすれ違うかしないといけねえってことだ」
「そうなるね。怖いのも難しいのも嫌だけど、しかたない」
「ああ。しかたねえ。しっかりついてこい」
「はい!」
ふたりは危険を覚悟して9番通路へ入り、いつもの角をゆっくりと曲がった。
「で、その9番通路では何が出たんだ?」
「それがね・・・屋蓑さんにはすごく言いにくいんだけど」
「なんだ?」
「屋蓑さんにそっくりの奴が出たんだよ」
「はあ!?」
「まあ、きいてよ。すごく恐かったけど、屋蓑さんのせいじゃないから」
その通路で最初に気づいたのは「おじさん」の外見が変化したことだ。奥の角から現れたのはいつものスマホと鞄を持ったおじさんではなく、縦縞柄の上着を着てスラックスのポケットに片手をつっこんでいる金髪の中年男だった。
「あれ!? なんで急にちがう人に!? これも異変!?」
「いや、まだそうとは言い切れねえ。おれが通った通路では、ずっとこいつが歩いてたからな」
「え、じゃあ、猛馬さんは、ぼくと合流してから『おじさん』を見たってこと?」
「そうだ。おまえと合流するまで、あいつは見たことなかった」
「大事なことじゃん! 教えてよ!」
「ああ、そういや言ってなかったな」
「もう。これからはちゃんと情報共有してよ?」
「わかった。覚えてたらな。あれはおれが見張るから他を見ろ」
「うん。目をはなさないでね」
「わかってる」
実を言うと猛馬はこの人物のことをよく知っている。この「歩く男」のモデルになった人物は自分の部下、熊倉組幹部の屋蓑だ。しかしこれはあくまでも外見上のこと。見た目こそ本人によく似ているが中身はまったくちがう。会話できたことは一度もなく、立ち止まると不気味な笑顔をむけてくるか、つかみかかってくるか、あるいは懐の銃を取り出して撃ってくるか。なんにせよ本人が猛馬に対してすることはありえない行動ばかりとる。だからこそ「こいつは屋蓑ではない」という確信をもって射殺できた。この通路でもそうなるだろう。こいつを撃ち殺すことにはもう慣れたが、問題は応太の反応だ。猛馬は今までずっと応太のそばで猟銃をかまえていたものの発砲したことは一度もなく、応太の目の前で人型のものを撃ったこともない。おまけに、こいつを撃つとご丁寧にも血のようなものが吹き出す。なんとも悪趣味な演出だ。これを見た応太がどのような反応をするか心配だが、撃つべき時には撃たねばならない。自分と応太を守るためにも。
「歩く男」を見張っていた猛馬は、小声で応太に指示を出した。
「応太、止まれ。ゆっくりふりかえれ」
「!」
気がつけば通路の半分を過ぎていたが、先ほどまで聞こえていた規則正しい靴音が止まっていた。あの「歩く男」がふたりとすれちがった後に足を止めたらしい。今回の異変は歩く男に関するもののようだ。応太は無言で猛馬の指示に従い、音をたてないよう注意しながら、ゆっくりと体ごとふりかえる。
「ひっ」
応太は思わず小さな悲鳴をもらし、とっさに手のひらで自分の口をふさいだ。立ち止まってこちらをむいている「歩く男」の腕は、2本だけではなかった。今は8本になっている。どの腕も妙に長く、いっぱいにのばしたら両側の壁に手のひらがつきそうだ。おまけに、一本の腕の先には拳銃らしきものが握られている。指や銃の構造まで再現されているのかどうかはわからないが、わざわざかまえているということは少なくとも「歩く男」にとってあれは武器なのだろう。何か銃弾のようなものを発射する飛び道具にちがいない。
応太は懸命に悲鳴をこらえ、黙って猛馬の指示を待つ。自分たちが「戻る」べき通路は「歩く男」の背後にある。どうにかしてこいつをやり過ごし、番号表示板の前にたどり着かねばならない。
「歩く男」の目は虚ろでどこを見ているのか、ふたりを認識しているのかどうかもわからない。あれはどうも音に反応するような気がする。何か派手な音をたてる物を投げれば注意をひきつけられそうだが独断で動いてはいけない。異常事態では凡人よりもヤクザの判断をあおいだほうがいいだろう。どんなに恐ろしくても今は静かに猛馬の指示を待つべきだ。
「応太、何か音の出るもんは持ってねえか」
猛馬がささやいた。応太と同じことを考えていたらしい。応太は懐に手をつっこみ、手のひらサイズの黄色い携帯ゲーム機を取り出した。ゲーム機といっても最新機種ではなく乾電池で動くタイプで、モノクロの画面とキーホルダーがついたレトロなものだ。内蔵されているソフトはあの有名な落ち物パズルゲーム。応太が子供の頃にはたくさん流通していてありふれたものだったが、今ではすっかりみかけなくなり、珍しくなってしまった。今また同じ物を買おうとすればプレミア化して高額になった個体しか買えないだろう。正直いうと手放すのが惜しいし、こんな回収不能な場所で投げ捨てたくはないのだが、ふたりの命には換えられない。
「準備する。あいつ見てて」
応太は小声で猛馬に指示を出し、ゲーム機の操作に集中する。電源を入れてオプションメニューを開き、BGMの音量を最大に設定。次にメインメニューからゲームモードの選択画面を開き、このゲーム機に収録されたなかでもっともポップな曲が流れるタイムアタックモードにカーソルを合わせる。あとは決定ボタンを押せばゲームが始まり、大音量でBGMが流れ出す。決定ボタンを押したらすぐさま、自分たちの背後にむかって投げる。そうすれば通路の「奥」にあの化け物を誘導できるだろう。注意をそらせば安全にすれちがえるはずだ。
「準備できた。音が出るから注意して」
猛馬は「歩く男」から目をそらさず、黙ってうなづいた。
「それじゃ、いくよ」
応太が決定ボタンを押すとゲーム機からポップでアップテンポな電子音が流れ出した。この緊迫した状況にも不気味な地下通路にもまったく不似合いなBGMがゲーム機の大きさからはとても想像できない大音量で通路の静寂を破り、ふたりの耳に突き刺さる。思わず手で耳をふさぎたくなるのをこらえ、ふたりは「歩く男」の反応を待った。
「歩く男」に反応があった。虚ろな目のまま応太に顔をむけ、腕の1本に握られた拳銃らしきものがカチリと音をたてたかと思うと、残り7本の腕が一斉にゲーム機にむかってのばされた。これを確認した応太はすぐさま身をひねり、野球ボールを投げる要領で通路「奥」にむかってゲーム機を投げる。7本の長い腕は音源であるゲーム機を追っていき、拳銃らしきものから銃声のような音とともに何かが発射され、ゲーム機に当たった。しかし応太のゲーム機は破損し床に叩きつけられてなお音楽を流し続けている。まるで持ち主の危機を察しているかのように。
「歩く男」は床に落ちたゲーム機を追って通路の「奥」へ歩きだした。どうやら「歩く男」は対象が完全に沈黙するまで攻撃を続けるらしい。ふたりはゲーム機に気を取られている「歩く男」の横を無言で走り抜け、なんとか番号表示板の前にたどり着いた。
「ついて、きて、ない、よね?」
応太は肩で息をしながら背後をふりかえる。猛馬は隣にいるが、あの化け物の姿はない。
「ああ、だいじょうぶ、だ」
猛馬も息があがっている。猛馬は応太よりも年上だがスーツ越しにもわかるほど鍛えられた体つきからして、中年でも応太よりはるかに体力があるとばかり思っていたのだが。もしかすると、身体ではなく精神のほうにダメージを受けたのかもしれない。いくらヤクザで抗争の場数をふんでいても、さすがにあんな化け物を見たことはないだろう。
「あんなの、見たことなかったよ。猛馬さんは?」
「おれも初めてだな。あそこまで変形したやつは。おまえのおかげで弾を使わずに済んだ。応太、よくやったな。えらいぞ」
「ほめてくれるのはうれしいけど・・・普通の形のやつには、襲われたってこと?」
「ああ。何度か射殺した」
「ほんとに!? 変形する前は人間みたいに見えるじゃん! それでも撃ち殺したの!?」
「おれが好きこのんであいつを撃ってきたと思うのか!? おれだって撃ちたくなかった!」
「え、なんで」
「わけを知りたいんなら教えてやるよ。あいつはなあ、うちの組員にそっくりなんだよチクショウ!」
「あ、もしかして。最初に言ってた『あいつ』って・・・」
「ああ。さっきの、金髪の男のことだ。あいつのモデルになった人間を、おれはよく知ってる。あいつのモデルは、うちの幹部の屋蓑だ」
大規模な交通事故で道路が広域封鎖されてしまい、しかたなしに地下鉄で帰ろうとしていた。コインパーキングに車を停めて屋蓑と二人で地下鉄に乗り、事務所の最寄り駅で降り、改札を出たところまでは問題なかった。地上への出口にむかって地下通路を歩いていた時、異変が起きたのだ。気づけば二人とも、見知らぬ地下通路に閉じこめられていた。
「で、途中ではぐれたんだね?」
「あの野郎、偽物の出口の階段を上っていっちまったんだ。あの時、足を撃ってでも止めてりゃあ、人間のままでいられたろうに・・・」
自分と同行していたあの屋蓑は偽物であってほしかった。はじめから通路の一部で、階段を駆け上がったのは自分に後を追わせる罠であってほしかった。初めて応太と話した時、この通路が会話できる人型を出現させる可能性に思い至り、あの屋蓑の存在自体が罠だったのだと自分に言い聞かせていた。
実を言うと猛馬は、応太が干し肉を食うまで「こいつは自覚がないだけで本当は通路の一部なのだろう」と疑っていた。だからこそ、あえて固い干し肉を分け与えて観察したのだ。その結果、応太は猛馬の目の前で干し肉を咀嚼し、あっさり飲み込んだ。応太は通路の一部ではなく、生きた人間であることを証明してみせたのだ。その瞬間に猛馬は悟った。この通路が、話せる者を生み出すことはない。あの屋蓑は、生きた人間だったのだ。
「組員ひとり守れねえで、何が組長だ!」
猛馬が涙ぐんでいる。若い応太には、目の前で身内を失った者にかける言葉がみつからなかった。
「ちょ、ちょっと待て! それはつまり…」
「そうだよ、屋蓑さん。猛馬さんは、あなたを失ったと思い込んで苦しんでるんだ」
「そんなっ・・・」
「でも、ぼくには信じられなかったんだ。あの通路が同時に二人の人間を捕まえるなんて。何かがおかしいと思った。屋蓑さんは、外の世界で生きてるんじゃないかと思って。それを確かめに来たのも、ここに乗り込んだ理由のひとつだよ」
「なんてこった・・・」
「わかったでしょ? ぼくが猛馬さんを放っておけない理由が。あんな精神状態の人をひとりにしておけないよ」
「ああ。よくわかった。絶対に、おれが助けに行かないといけねえ。傷の手当ができることを抜きにしてもな」
「うん。屋蓑さんに会えたら猛馬さんも安心すると思う。助けてあげて」
「言われるまでもねえ」
「それで・・・悪いんだけど、最後まで話していいかな。ぼくが猛馬さんからトランプを受け取った経緯と、8番通路で別れるまでを」
「ああ。聞かせてくれ」
小僧の前で涙をみせるわけにはいかない。人前で泣くなど、極道以前に男の沽券に関わる。
猛馬は涙をこらえ、呼吸を整えた。
「悪いな、取り乱しちまって」
「いや、こんな状況じゃしかたないよ。まさか、はじめは二人だったとは思いもしなかったし・・・猛馬さん、組長なんだね」
「ああ。兄貴の跡を継いでな。おれで二代目だ」
「アニキって、ヤクザの先輩のこと? それとも、本当の兄弟?」
「血がつながってる、実の兄弟のことだ」
兄の狼範を支持していた武闘派組員は、猛馬の組長就任を見届けた後に宇治崎一家へ帰った。今現在、熊倉組に残っているのは猛馬の支持者だけだ。熊倉組は狼範派と猛馬派の派閥争いがなくなったおかげで内紛のリスクもなくなり、以前よりも組員たちの結束が強くなった。現在の熊倉組員たちは猛馬の方針に心から賛同しており、無意味な暴力を嫌う組長を臆病者と言う組員はひとりもいない。
「今いる組員は、代替わりしても残ってくれた野郎どもだからな。みんな、おれについてきてくれたやつらだ。あいつらのためにも生きて帰らねえとな。応太、改めてよろしく頼む」
「こっちこそ、よろしくね」
「ああ・・・そういや、ここは何番だ?」
「えーと、6番。よかった、まともな番号で」
どうやら先ほどの9番通路は「疑問の余地がないほど明確な異変が出る」という意味でボーナスステージだったらしい。何かのバグで「6」の表示が回転して「9」になってしまい、9も表示できることに気づいた通路が、ちょっとした遊び心で時たま5番通路の次に「9番通路」を出現させているのかもしれない。おそらくこの通路は「9」を「向きが変わった6」と認識していて、8の次の数字だとは思ってもいないのだろう。8より大きい数字は存在ごと知らないのかもしれない。
「次は7番であってほしいなあ」
「言うな。目の前の通路をクリアするまで、次の番号のことは考えるんじゃねえ」
「わかった。それじゃ、6番に入ろうか。猛馬さん、大丈夫?」
「あたりまえだ。おれは小僧に心配されるほどヤワじゃねえよ」
「なんでそんな強がるかな・・・じゃあ、いくよ」
ふたりは6番通路に入った。さすがに9番通路以上に危険なものが現れることはないと思って油断していた。いつもの角を右折したとたんに現れたものはある意味、襲ってくる化け物よりも危険だった。
そこにいたものは作務衣に前掛けをつけ、髪のない頭に鉢巻きを巻いた男。その外見は応太の父、真津下武郎にそっくりだった。
「はあ? 急に親父さんが現れたってのか?」
「そうなんだよ。あの通路は人型を生み出せるんだ。人の記憶をのぞいてるみたいでさ。父さんがまだ生きてたら、ぼくでもだまされてたかも」
「親父さんは亡くなってるんだな?」
「うん。その時のぼくはまだ高校生だったから、父さんのお葬式では、母さんが喪主で。でも母さん、すごく泣いてて。しょうがないから、お葬式ではぼくがかわりにあいさつとかしてたんだ」
「そうか。そりゃあ大変だったな」
「うん。でもまあ、昔のことだから。実はさ、通路を出たあとで思ったんだよ、父さんが死人でよかったって。おかげですぐに異変だってわかったし」
ここは超常的な地下通路で、父はすでにこの世を去っている。今ここに武郎がいるわけがない。応太にはそれがわかっている。だから、とっさに手で口をふさいだ。まちがって話しかけないように。
「応太。あいつ、人間だと思うか?」
猟銃をかまえて応太のとなりに立っている猛馬が小声で応太に問いかける。応太は我に返り、口から手をはなした。あれとにらみ合いをしていても時間の無駄だ。父の幻影が現れた理由など考えてみたところで推測しかできない。
応太も小声で猛馬に応える。
「あれ、ぼくの父さんだ。だから、人間じゃない」
「だったら、人間だろ?」
「だって父さん、もう死んでるし」
「わかった。ゆっくり下がれ。目はそらすなよ」
うなずいた応太は父のようなものを見ながらゆっくりと後ずさりする。背負ったリュックが後方の壁に当たる感触があった。もうこれ以上は下がれないので、今度は前をむいたまま横歩きする。自分の右半身が前方の壁に隠れた。これ以上横歩きするとあれが視界からはずれてしまう。見えなくなると追いかけてくる気がして、身をひるがえして番号表示板の前まで走った。
「っだあ、もう! 走るのもうやだ!」
応太と猛馬は番号表示板の前にいる。あれが追ってくる気配はない。猛馬は平気そうだが応太はまた息があがっている。応太はまだ20代だがインドア派で体力が少ない。運動には慣れていないので、連続で走らされるとすぐに息があがってしまう。
「泣き言いうな。今回は収穫があっただろ。この通路は死人まで再現できるっつう情報が」
応太は呼吸を整えてから猛馬に応える。この通路について新たな情報が得られたことは確かに収穫だ。
「うん。たぶん、プレイヤーの記憶を読んでるんだ。記憶にある人なら、誰でも再現できるのかも」
「死人でも再現できるのは質が悪いな。次はおれの番か・・・」
「誰が現れるか、心当たりはある?」
「ああ。覚悟はできてる。無駄撃ちはしねえから安心しろ」
「だったらいいけど。えーと、ここは」
ふたりは見慣れた山吹色の番号表示板を確認した。表示されているのは「7」だ。リセットはされていないし、数字が増えすぎてもいない。
「7番だな。異変探しもあと2回でおしまいだ」
「うまくいけばね」
「不吉なこと言うんじゃねえ。何が何でもあと2回で終わらせるんだ。おれたちに、もう一周する余裕はねえだろ」
「そうだね。リセットされたら離ればなれになっちゃうかもしれないし」
次の周回でも応太と猛馬が一緒にいられるとは限らない。誰と誰を合流させるかは通路が決めているのだ。ひとりなるだけならまだいいが、下手をするとまた初対面の相手と組まされるかもしれない。幸い猛馬は応太を盾や囮にはしなかったし、見捨てることもなく一緒に歩いてくれたからまだよかったものの、次に出会う人間が猛馬ほど強くて良心的な人物とは限らないのだ。信用できるかどうかもわからない人間とともにこの危険な通路を歩かされるなど冗談ではない。
「応太、体力は大丈夫か? もう7番だ。ここで休んでもいいぞ」
「いや、もうひとつ、進もう。休むのは最後の通路がいい」
「そうか。それじゃあ、いくぞ。はぐれるなよ」
応太は黙ってうなずいた。猛馬は次の通路で誰が現れるかあたりをつけているらしい。死者と対面することを覚悟しているのなら応太ほど動揺しないだろう。
「この通路で誰が現れたかわかる?」
「想像はできる。組長の兄貴だろ。うちの先代の」
「正解。さすがは身内だね。そう、あれは猛馬さんのお兄さんだった」
その通路に立っていたのは白いコート来た大柄な男だった。頭頂部に髪はないが、見た目からして年寄りではなさそうだ。髪が少ないせいで左側頭部の大きな傷が目立つ。肩幅が広くて首と腕が太く、腕組みをしてどっしりと立っているものの、その目は虚ろでどこを見ているのかわからない。
「ははは・・・やっぱりか。待ってたぜクソ兄貴!」
猛馬は言うが早いか猟銃をかまえた。その銃口は明らかに、人型物体の頭部にむけられている。
「あれがお兄さんなの!?」
「そうだ。兄弟なのに似てねえなんて言うなよ、聞き飽きてるからな」
どうやら猛馬は実の兄にそっくりなものを撃ち殺すつもりらしい。さすがにこれは見過ごせない。応太はとっさに銃身をつかみ、猛馬の制止を試みる。
「猛馬さん、だめ! お兄さんなんでしょ!?」
「うるせえ放せ! おれはこのクズにずっとふりまわされてきたんだ!」
「やめて! 家族は撃っちゃだめ!」
「やかましい! 一度も二度も同じだろうが!」
「えっ、猛馬さん、まさか・・・?」
「放せ! あの野郎、もういっぺんあの世に送ってやる!」
「だから、撃っちゃだめだってば!」
「・・・応太、心配すんな。だぁいじょうぶだ」
猛馬の口から急にぞっとするほど穏やかな言葉が紡がれた。応太はその落差に驚くと同時に恐怖し、思わず猛馬の猟銃から手を放してしまう。
「言っただろお、無駄撃ちはしないって。一発でしとめりゃあいいんだ。大丈夫、おれはなあ、こう見えて・・・射撃が得意なんだよ!」
猛馬が引き金を引く寸前に応太が銃身をひっつかみ、とっさに照準をそらした。響き渡る銃声とともに弾丸は発射されたが弾道は大きくずれ、狼範の眉間を打ち抜くはずだった弾丸は左耳を吹き飛ばすに留まった。通路がつくりだした人型物体だというのに血しぶきと肉片が飛び散る。何度見ても悪趣味な演出だ。
「おい、なんで邪魔した? 相手は死人だぞ。かばうことねえだろ」
「それでもだめだよ。いくら別れるためでも、こんなのだめだ・・・猛馬さんの心が壊れちゃうよ」
「ああ? おまえ、さっきまで何を見てたんだよ。おれはこいつを撃ち殺そうとしてたんだぞ? 平気だから撃ったに決まってるじゃねえか」
「うそだ。だって、猛馬さん・・・泣いてるよ」
「・・・あ?」
応太に言われるまで猛馬は気づかなかった。自分が涙を流していることに。まさか引き金を引く前から、兄の幻影と対峙した時から、ずっと涙を流していたのだろうか。応太が銃をつかんでまで自分を止めようとしていたのは、この涙を見たからなのか。
「ぼくたち限界だし、戻って休も。ね?」
応太は子供をあやすような口調なのになぜか腹は立たない。それどころか、今はその言葉に甘えたかった。
「ああ、そう、だな。これ以上は、無駄撃ちだ」
「そうそう。殺せないもの撃ってもしかたないし。だからあっちいこ、ね?」
「・・・わかった」
猛馬が応えると、応太はようやく銃から手を放した。猛馬は銃を下げ、上着の袖で頬に残る涙をぬぐい、兄の幻影を一瞥する。この物体は撃たれてなお無反応だ。猛馬の姿や声にも、耳を撃たれた衝撃にもまったく動じていない。腕を組んで立っているものの、その目は虚ろだ。この姿、いや、この状態は、廃人同然で入院していた頃の狼範を思い出させた。
「猛馬さん」
「わかってる。これは異変だ、戻らねえとな」
猛馬はおとなしく応太のあとについていく。いつもの角を右折して少し歩くと、左手に山吹色の番号表示板が見えてくる。そこに浮かんでいる黒い番号は「8」だ。ついに念願の番号が現れた。
「やっと、ここまで来たね」
「ああ。おまえと組んだおかげだな」
「お互いさまだよ」
「ここで休むか?」
「うん。ちょっと寝る」
応太は猛馬から離れて向かいの壁際に座り、背中のリュックを下ろした。それを枕のかわりにして床に横たわる。通路の床なので寝床にしては固くて冷たいがしかたない。そろそろ体力が限界で休みたいのもあるが、ここで仮眠する理由はそれだけではない。猛馬に感情を解放させ、悲しみと向き合わせるためでもある。
「ぼく、何も聞かないから。好きなだけ泣いたらいいよ」
「泣かねえよ。兄貴の葬式はした。別れなら、もうとっくに・・・」
「猛馬さん、きいて。男だから泣いちゃいけないんじゃない。大人は人前で泣けないってだけ。父さんが死んだばっかりの頃の母さんはよく、ぼくに隠れて泣いてたよ」
「・・・何が言いたい?」
「大人でも、ひとりの時なら泣いていいってこと」
応太が眠れば、物理的にはふたりでも精神的にはひとりの状況になる。誰にも聞かれないと思えば存分に泣けるだろう。こんな精神状態のままで最後の通路に入ってほしくない。猛馬の精神が不安定になり実力を発揮できない状態でいるのはふたりにとって危険だ。何より、純粋に、ひとりの人間としても心配だった。悲しみを自覚できないのは、心が壊れかけているからだろう。いくらヤクザだろうが、人間にはちがいない。心が弱ることもあるだろう。そんなときはそっとしておいてほしいはずだ。誰にでも、ひとりで泣きたいときがある。
「それじゃ、おやすみ」
応太は寝返りをうって壁側をむき、猛馬に背をむけてから目を閉じた。
「ったく、気遣いだけは一人前だな・・・っ」
じきに、背後からすすり泣きが聞こえてきた。応太の想像通りだ。やはり、猛馬の心は限界に近かった。無理もない。この通路ではずっと、部下によく似た何かを撃ち殺し続けていたのだから。自分の身を守るためとはいえ人間だったものを、身内だった者を撃つのは辛かっただろう。そこへ兄の幻影をたたみかけられたのだから、泣きたくなるのは当然だ。
応太は「男が泣いてはならぬ」「男は他人に弱みを見せてはならぬ」という教えには断固反対する。大人が泣くのは幼児が泣くのと同様に健全な反応だ。そこに男女は関係ない。人は涙を流して己の悲しみを自覚し、泣くことで悲しみを発散させ、精神を安定させているのだから。それを放棄するのは不健全だろう。男に対する「泣くな」「弱みを見せるな」という教えは、男の感情を麻痺させるものだ。こんなものを内面化したところで誰も救われないのに、なぜこんな悪しき教えが広く流布されているのか、応太にはさっぱりわからない。
わからないことを考えてもしかたないので、応太は本当に眠ってしまうことにした。
応太が目を覚ましたのは煙たさと同時に何かの香りを感じたからだった。ただ煙たいだけなら火事の可能性もあるが、こんな華やかな香りが伴う火事などないだろう。猛馬に叩き起こされなかったことからしても火事ではなさそうだ。もしかしたら猛馬が煙草でも吸っているのかもしれない。
応太は寝返りをうって猛馬を見た。猛馬が煙草を吸っているのにはちがいなかったが、ただの紙巻き煙草ではない。高級そうな葉巻だ。スーツを着た男が床に座り銃を傍らに置いて葉巻を吸っている様は、とても絵になっていた。猛馬は自分が葉巻を持っているのを思い出し、それに火をつけて煙をくゆらす程度には精神が回復したらしい。応太が眠る前よりは心が安定しているように見える。
「起きたか」
「うん。見張ってくれてありがとう。猛馬さんも寝る?」
「いや、大丈夫だ」
「そっか。その葉巻、高そうだね。いい匂いがする」
「ほう。この香りの良さがわかるとは。意外と鼻がいいじゃねえか」
「ありがとう」
「もう起きられるか?」
「うん。床で寝た割には長く寝てた気がする」
言いながら応太は床から身を起こし、軽くのびをしてからリュックを持って立ち上がった。そのまま猛馬のそばへ歩いていき、猛馬の右隣に腰を下ろしてリュックを腹に抱える。
「でも、さすがに熟睡はできないね。自分の家のベッドが恋しいよ」
「だろうな。おれも、自分の組が恋しい。いい事務所なんだぜ。外側はボロいが中は改装してあってな。見た目以上の耐久力がある」
「へえ。見てみたいな。お邪魔してもいい?」
「・・・おまえさえよければな」
「どういう意味?」
「なんでもねえよ・・・そうだ、応太。ひとつ、提案があるんだが」
「なに?」
「記念品でも交換しねえか?」
「え、まさかここで出会った記念?」
「ちげえよ。脱出の記念だ。同じ場所に出られるとは限らねえからな。別れる前に、何か・・・」
「証拠になる物がほしいってわけだね。帰って一晩寝たら、この通路のこと、夢だって思い込みそうだもんね」
「そうだ。わかってくれてうれしいぜ」
「まあ、ぼく、昔から変な奴って言われてるから。その先の考えもわかるよ。次に会った時、お互いのことがわかるように、でしょ?」
「察しがいいな。その通りだ」
「記念品ね。いいよ。じゃあ、ぼくからはこれ」
応太が懐から取り出して猛馬に手渡したのは、レトロな携帯ゲーム機だ。猛馬は口にくわえていた葉巻を手に取り、その先端を通路の床に押し付けて火を消し、吸い殻を捨てた。右手に握った小さなゲーム機を観察する。キーホルダーがついていて手のひらサイズなのは同じだが9番通路で放り投げたものとはデザインが異なる。本体の色は青く、液晶の下には「オウタ」という文字が彫られている。その文字は拙く、幼い印象を受けた。これはどうやら刻印ではなく子供が手彫りしたものらしい。
「あ、その文字、気になる?」
「ああ。さては、おまえの手彫りだな?」
「うん。釘でひっかいて自分の名前を彫ったんだ。誰かに盗まれないように」
「いい対策だな。手癖の悪いガキはどこにでもいる」
「上から名前シール貼って隠しちゃう奴もいたから、意味なかったけど」
「それはそれでひとつの悪知恵だな。そういうやつは盗人にむいてる」
「現実にそんな職業ないでしょ。RPGじゃあるまいし」
応太は思わず笑ってしまった。人生をゲームに例えるなら一番近いのはRPGだろうが、さすがに盗人という職業は実在しないだろう。盗人に近い生業といえばプロの空き巣だろうか。しかしあれはあれで肉体労働で大変そうだ。少々の悪知恵が働く程度で務まるものでもないだろう。
彫られた他人の名前を自分の名前シールで覆い隠す意図は、所有者を偽ることだ。その行為の本質は盗みというより横取りだろう。こんなことをする子供が成長すると、他人の成果を奪って自分の手柄にするような、ずる賢い大人になりそうだ。
「そういうやつは極道にむいてねえ」
「どうして? ある意味、頭がいいじゃん」
「いいや、バカだ。ばれたら信用なくすだろ。極道の世界は契約書がない分、信用で回ってんだ。だから、信用を第一に考えられない奴に極道は務まらねえ」
「そっか。バカだとヤクザにもなれないんだね」
「そういうこった。だから安易にヤクザになろうとすんなよ」
猛馬は応太から受け取ったゲーム機をそっと懐にしまった。万が一最後の通路で凶悪な「異変」が現れても囮のかわりに投げ捨てないよう注意しなければならない。
「ありがとな、応太。こいつは大事にする」
「そうして。それも生産中止品だからプレミア化してて、新品で買おうとするとけっこう高いから・・・それで、猛馬さんがくれる物は何?」
「ああ。このトランプだ」
猛馬は懐から小さな箱を取り出した。それはトランプの箱で、よく見ると「マジック用」と書かれている。なんでまたヤクザの親分がマジック用トランプなんか持ち歩いているのか。ポーカーなどギャンブルに使うならマジック用は選ばないはずだが、イカサマに使ったのだろうか。
「なにそれ。手品に使うやつ?」
「そうだ。おれのサイン入りだからな、大事にしろよ」
猛馬はトランプの箱を裏返してから応太に手渡した。中心に金色のマーカーで○に囲まれた「熊」の字が書かれている。どうやらこれが熊倉組のマークらしい。
「大事にはするけどさ・・・これでイカサマしたりした?」
「まさか。それこそ、ばれたら殺される。イカサマは賭場の華だと思ってる奴は命知らずか、ただのいかれ野郎だ」
「じゃあ、なんでこんなトランプ持ってるの?」
「経緯は説明しねえぞ。胸糞悪りぃからな…今じゃおれの特技だ」
「あ、もしかして、はじめは宴会芸だった?」
「ああ。思い出すと気分が悪くなる…詳細はきくな」
「わかった。大人って大変だね」
「慣れりゃあどうってことねえが。大変つうより、面倒くせえな」
「そっか…じゃあ、このトランプはぼくがもらっておくね。嫌な思い出と一緒に」
応太はトランプの箱を懐にしまった。トランプは53枚で一組だ。1枚でもなくしたらなんのゲームもできなくなってしまうから、中身のカードにはあまりさわらないようにしよう。
「おいおい。言っただろ、それは記念品だ。ここで起きたことを証明するもんだからな、大事に持ってろよ」
「うん。ありがとう、猛馬さん」
「よし、それじゃあ、行くか」
「ちょっと待って」
「どうした?」
「このリュック、もう捨てちゃおうと思うんだ。最後の通路は身軽でいたいから」
応太はリュックを開けて中身をざっと確認したが絶対に持ち帰らないといけない物は財布ぐらいだ。他には護身具と中身を飲み終えて空になったペットボトルと秋葉で買った漫画の新刊ぐらいしか入っていない。どれもあとで買える物ばかりだ。ここに置いていってもいいだろう。
応太は財布を懐に移し、不要になったリュックを膝から降ろして床に置いた。スマホと財布さえあれば問題なく家に帰れるはずだ。
「賢明だな。よけいな荷物はないほうがいい」
「これでぼくの背中が空いたから、そのケース、ぼくが背負っていこうか?」
この通路にいる間、猛馬はずっと革製のケースを背負っていた。本革なら頑丈だが、そのかわり空でもそこそこの重量があるはずだ。射撃に集中してもらうためにも、背中の重みはないほうがいいだろう。何も背負っていないほうが動きやすいはずだ。
「いや、これはおれが持っていく。この銃をしまうもんがなくなったら困るからな」
拳銃なら懐に隠せるが猟銃はそうはいかない。猛馬は狩猟免許を持っているので猟銃を所持していること自体は合法だが、だからといってむきだしの銃を持ち歩いていいわけではない。誰かに通報されたら面倒なことになる。この通路を出てすぐ警察に追われるのはごめんだ。
「ああ、そういえば。ぼくら、外に帰るんだったね。銃が丸見えになったらまずいか」
「そうだ。外に出たら常識を思い出せ。この通路のことは言いふらすなよ。おまえの頭がいかれたと思われるからな」
「わかった。ここのことは秘密にする。それじゃ、いこうか」
「ああ」
ふたりは立ち上がり、8番通路へ入った。いつもの角を曲がり、見飽きたオブジェクトを注視する。天井の出口表示、ポスター、ドア、換気口に異変はなかったが、この通路の「歩く男」は屋蓑の姿をしていた。
「また襲われるかな」
「わからん」
ふたりは「歩く男」を警戒したが、ふたりとすれちがっても相手は足を止めなかった。なんの反応もなく歩き続けて通路の角を左折し、何事もなく姿を消した。
「よかった。この通路、なんの異変も・・・」
応太がつぶやいた瞬間に猛馬は嫌な予感に襲われ、とっさに応太を力いっぱい突き飛ばした。応太は勢い余って通路の床に尻餅をつく。
「なに!?」
応太が戸惑っている間に急激な異変が起きる。今さっきまで応太が立っていた位置に、高速で氷柱のようなものが音もなく突き出した。床から天井にむけて突き出た高さは応太の腰ぐらいまである。自然な氷柱とちがって材質は氷ではなく通路の床材そのままのようだが、これが体に突き刺さったら重傷になりそうだ。
「えっ。これ、異変!?」
この現象を「氷柱型オブジェクトの出現」とするか「床の変形」と解釈するかは人それぞれだが、通路の床が変化したことはまちがいない。つまり、これは異変である。
「立て! 戻るぞ!」
「うん! 一緒に・・・」
応太は急いで立ち上がったが、言い終わらないうちにまた次の「氷柱」が床から突き出し、ふたりの間に立ちはだかった。今度の氷柱はさらに太くて高く、先端は天井に達している。ここまで太いともはや氷柱というより円柱形の壁だ。どうやらこの通路はふたりを分断したいらしい。
「猛馬さん!」
「戻れ! おれはあとから行く!」
「わかった!」
応太は猛馬に背をむけて通路「手前」の角を目指して走り出す。あの角を曲がれば番号表示版の前に戻れる。あの通路なら異変は起きず安全なはずだ。リュックを捨てたおかげで今までの通路よりも早く走れた。
「よしっ・・・番号は、8のまま!」
応太はまた息をきらして番号表示板の前にたどり着いた。膝に手をついて肩で息をしながら横目で番号を確認したが、数字は8のままで変化していない。
「よかった。もう一息だね・・・猛馬さん?」
返事がない。近くに猛馬がいる気配もない。応太は顔を上げてまわりを見渡したが、猛馬の姿はない。この通路には自分しかいない。
「まさか、猛馬さん!?」
応太はあわてて戻り、今さっき逃げてきた「8番通路」を確認したが、なんの痕跡もない。先ほどの「氷柱」は影も形もなく、ただの白い通路があるだけだった。
「このあとぼくは8番出口から外に出て、家に帰って寝て、今ここにいるってわけ。あの通路の話はこれでおしまいだよ」
さすがに「猛馬が泣けるよう配慮した」などと恩着せがましいことは言わなかったが、その他のことは正直に話した。トランプとゲーム機を交換したことも、応太のせいで猛馬は通路に取り残されたことも。
「てめえ、ほんとに反省してんのか!?」
「陳平、静かにしろ。この坊ちゃんは悪くねえ」
「でも兄貴、この小僧がいなけりゃ組長は・・・」
「この坊ちゃんがいなけりゃ、組長は永遠に行方不明だったろうよ」
この「通路」で死亡したらどうなるのかは応太にもわかっていないだろう。死体が不要品として排出されるならまだいい。人目に付く場所に放置されればいずれ発見される。死体がみつかれば警察が身元を確かめ、身内に連絡が来る。そうなれば遺体を確かめ、葬式を出せる。しかし、もしも死体がそのまま通路に取り込まれ、通路の端を「歩く者」へと加工されるのだとしたら。遺体の身元確認どころの話ではない。死んでなお再会できないのだから、別れを告げることさえできない。組長が日本のどこかにいるのなら死体が出るのを待つという手もあるが、異常な地下通路を相手に待ち続けることはまったく無意味である。
「どこにいるのか教えてくれただけでも、感謝しなくちゃいけねえ。ありがとな、坊ちゃん」
「お礼を言うのは早いよ屋蓑さん。猛馬さんがまだ生きてるとは限らないんだから。生きててほしいけど・・・」
「わかってる。確かめるためにも迎えに行かねえとな。陳平」
「へいっ」
「組長を助けるまでは、どんなにムカついても、この坊ちゃんは殴るな。命令だ。わかったか?」
「わかったッス」
「猛馬さんが死んでたら、殴っていいよ。ぼく、自分がゆるせないと思うから」
「坊ちゃん、悪いがそれじゃあ済ませられねえ。万が一、組長が死んでたらおまえの家を燃やす。なかに人がいようが関係ねえ」
「ちょっと、なんで急に脅すの!?」
「下手したら家族は死んで、おまえだけ生き残るかもしれねえな」
「もしかして屋蓑さん、怒ってる!?」
「べつに怒っちゃいねえよ。落とし前つけろってだけの話だろ?」
屋蓑は笑み浮かべているがその眼はまったく笑っていない。応太と目を合わせ、応太の返事を待っている。
応太は察した。屋蓑は「通路」の話を信じてくれたからこそ、心底から怒っているのだと。人間を捕らえる通路の存在にも、組長の判断を鈍らせて置き去りにした応太にも、応太のために取り残された組長にも。さらに言えば見知らぬ青年の言葉を信じて案内を乞い、準備するしかない自分たちの無力さにも怒っているのだろう。
「わかった。ぼくも全力で臨むから。屋蓑さん、お金は出し渋らないでよ?」
「てめえ、アニキの話きいてたのか!?」
「ヤクザの脅しは常に本気だぜ、坊ちゃん。極道はな、できることしか言わねえんだ。救出に失敗したら本当に焼くぜ」
「わかってる。失敗しなけりゃいいんでしょ」
「本当に肝のすわった坊ちゃんだ。組長が気に入ったのもわかるな」
実を言うと応太は肝がすわっているわけではない。誰に叱られても堪えないだけだ。幼少期に父から叱られることが多かった応太は、いつの間にか説教を聞き流すスキルを身につけてしまい、怒鳴り声にも慣れてしまった。元から心の壁が厚いのもあり、今ではどんなに怒られても平気だ。応太は自分を怒鳴りつけて操ろうとする者の目論見に従ったことはない。他人を脅して従わせようとする者の考えは、どうせろくでもないのだから。
猛馬を助けに行くのは屋蓑に脅されたからではない。これはまちがいなく応太自身の意志だ。だからこそ応太は決心した。必ず猛馬を救うと。
「じゃ、打ち合わせ・・・の前に、このトランプ、どうする?」
応太が猛馬から受け取ったトランプはローテーブルの上に並べられたままだ。スペードのエースが引き裂かれたあとは放置されている。
「そうだな・・・一応、他のカードも確認するか」
「そうしなよ。あとちょっとだし」
未確認のスートはスペードだけ。あとは2からキングまでの12枚を確かめれば終わりだ。
「それじゃ、めくるぞ」
屋蓑はスペードの2から順にめくり始める。陳平と応太が見守るなか、屋蓑は黙々とカードをめくっていく。10をめくったところで屋蓑の手が止まった。
「これは、まさか・・・」
スペードの10を斜めに横切って書かれていたのは金色のカタカナが4文字。その文字列は「ウジサキ」と読めた。
「宇治崎一家のことか? だとしたら、なんでまたスペードに? クラブじゃねえのかそこは」
屋蓑はカードをみつめて独り言を言っている。屋蓑の意識は猛馬からのメッセージを解読することに集中しているようだ。
「御本家の名を、スペードに書いたってことは・・・」
「消したいんじゃない?」
応太にはウジサキが地名なのか人名なのかわからないが、とにかく猛馬はウジサキに関わる何か、あるいは誰かを消し去りたいのだろう。そうでなければわざわざ死を象徴するスペードのカードに書くわけがない。
「まさか。あの暴力嫌いな組長が、今さら抗争なんぞするわけが・・・いや、そういうことなのか?」
組長が嫌っているのは無益・無意味・無謀な暴力だ。有益かつ有意義で勝てる見込みがあるのであれば武力抗争も厭わないだろう。我が熊倉組とて暴力団にはちがいないのだから。
「そういや、組長は宇治崎一家を嫌ってたな。おれも嫌いだが」
「おれも。あの連中は嫌いッス」
陳平の声で屋蓑は我に返る。己の思考に沈むあまり、隣にいる陳平のことも向かい側にいる応太のことも忘れていたようだ。
「へえ。嫌な連中なんだね。で、ウジサキってどこ、ていうかなに?」
『てめえは知らなくていい』
屋蓑と陳平の声が重なった。我が熊倉組は宇治崎一家を本家とする二次団体であり、本来は宇治崎一家に従属する立場だ。つまり我らが組長は謀反を企てているわけだが、応太にここまで教える義理はない。
「えー。教えてよ」
「組長を助けたら、組長から教えてもらえ。おれらには、組の事情を部外者にもらす権限がないんだよ」
一般人が裏社会の知識を得ても無駄どころか有害だろう。特に応太は口が軽そうに見える。下手に熊倉組の内部事情を知られようものなら言いふらされそうだ。こいつの口から出た噂が宇治崎一家の耳に入ろうものなら熊倉組が潰されてしまう。熊倉組が潰されれば、熊倉組から利益を得ていた連中が噂の出処を探し、やがては応太を見つけて殺してしまうだろう。ここで熊倉組の事情を教えないのは応太の安全のためでもある。
「そうか。猛馬さんからきけばいいのか。わかった」
「おれから言えることはひとつ。組長は宇治崎が大嫌いだから、組長の前で宇治崎の名を出すなよ。組長の機嫌が悪くなるからな」
屋蓑は常日頃、組長から宇治崎一家への愚痴を山ほど聞かされている。「四十を過ぎた男をくんづけで呼ぶな」「ゴルフなんぞ一家だけでやれ」「なんで宴会は和服なんだ」「芸を見たけりゃ芸人を呼べ」「人から吸い上げた金で外車を買うな」などなど、一度始めると止めどなく、次から次へと宇治崎一家への愚痴が組長の口からあふれ出ていた。組長が心から求めている世界はきっと、宇治崎一家が存在しない世界だ。
「わかった。猛馬さんが元気になるまで、絶対きかない」
「約束だぞ」
「うん。約束する」
「よし、それじゃ、残りもめくるか」
屋蓑は残りのカードもめくったが、残念ながらジャック・クイーン・キングにはなんの書き込みもなかった。
「なんてこった。これじゃあ殺意の度合いがわからねえ。誰から消すべきかもわからねえ。ご本人に確かめねえと」
「全部見終わったね。このトランプはどうする? 屋蓑さんが持つ?」
「いや、これはおまえのもんだ。おまえが持ってろ。ただし、スペードの10はおれが持つ」
「わかった。それじゃあ箱にしまうね」
屋蓑がスペードの10を懐にしまったのを確認した応太は残りのカードを箱にしまい、その箱をリュックに入れた。早くも2枚も欠けてしまったが大切なトランプには変わりない。
「このあとはどうする? もう4時だけど。このまま打ち合わせする?」
トランプをリュックにしまった応太は、ついでにメモ帳とペンを取り出してメモをとる準備をした。
「ああ。他の組員が帰ってくるまであと2時間はある。このまま打ち合わせするぞ。まずは役割分担だな」
陳平は毎晩地下鉄樺島線に乗り、猛馬と同じ「通路」に入れるかどうか試す。応太はできるだけ多くの地下鉄線に乗り、駅の構内に置かれている自動販売機を調べて記録し「通路」へ持ち込む食料を決める。屋蓑は「一年後に戻る」という組長の置き手紙を捏造し、他の幹部と分担して組長の業務を代行する。
「ここまでは確定だな」
「うん。他に何か、ぼくにできることあるかな」
「武器と装備品の調達はおれたちがする。そのかわり、おまえに頼みたいことがある。せっかく一年つきあうからな」
「なに?」
「先代の遺品を探してくれ」
『!?』
陳平は驚いたが、応太も驚いた。あまりに急な頼みだったからだ。いくら一年つきあうとはいえ、熊倉組の部外者にするには突拍子もない頼みに思えた。
「アニキ、本気ッスか!? そんな大事なもん、こんな小僧に探させるんスか!?」
「もちろん、全部とは言わねえ。素人にゃ荷が重いのもわかってる。だがな、おれの直感が言ってんだよ。今こそ、あれを取り戻すべきだってな」
「行方不明になってる遺品が、いくつもあるの?」
「ああ。先代が長期入院してる間に、病室から盗まれたもんがあるんだ。それを取り戻したい。だから、地下鉄沿線の質屋と骨董品屋を片っ端から調べてくれ」
「自販機を調べるついででいいよね?」
「それで充分だ。本腰入れて探すのは組長が帰ってからでいい」
「わかった。それじゃあ、その『遺品』の詳細を教えて」
「ああ。陳平もよく聞いとけよ。これはうちの組にとっても大事な品だからな」
屋蓑が言うには、最も取り戻したい遺品は1本のステッキだという。そのステッキの頭は鷲の形になっている。特に高級な品ではないし、デザインとしてはありふれたものだ。おまけに持ち主の狼範は足腰が強かったので、わざわざステッキを持つ必要はない。実際、狼範がこのステッキを持って外出することはめったになかった。狼範は装飾品や実用品としてのステッキを求めたわけではなく、愛用の品とは言い難い。
では、なぜこのステッキを取り戻す必要があるのか。それはこのステッキがある「場」への鍵になっているからだ。これがなければ出入りできないところがある。屋蓑も詳細を知っているわけではないが、どうやらそこは関東に拠点を置く極道の親分たちが集う場のようだ。熊倉組の本家である宇治崎一家は規模こそしれているが歴史は長く、その「場」への入場資格を持つ。そして、自分たちから独立した二次団体の組長たちにもその「場」へ入る資格を与えている。熊倉組の場合はまず創立者の狼範にその資格が与えられた。
「それを証明するのがあのステッキだ。あのステッキは分解できるようになってる。鷲の部分をまわしてはずすと、合い言葉が彫ってあるそうだ」
「それを見せるとなかに入れてもらえるわけだね」
「そうらしい。おれは見たことねえが。鷲の部分がはずせるってのも、組長から聞いたことだしな」
「それでも、大事なもんにはちがいねえ。ほんとにこいつに探させるんスか?」
「ああ。おまえには『通路』を探すっつう大事な役目があるからな。遺品探しはこの坊ちゃんに任せる」
「任せてくれるのはうれしいけどさ。それ、猛馬さんにとっては仕事道具じゃないの? お兄さんの遺品だって思ってるのかな」
「その点は心配いらねえ。あのステッキは先代が自ら注文したもんだ。素材もデザインも先代がお決めになったもんだからな。組長からすれば『兄貴の遺品』だ」
屋蓑によるとその「場」への鍵には決まった形がないらしい。合い言葉が彫られてさえいれば、どんな品でも鍵として認められるという。宇治崎一家が狼範に与えたのは「場」への入場資格と合い言葉のみであり、あのステッキそのものを与えたわけではない。合い言葉を彫りつける品は自ら用意しなければならない。そこで狼範が選んだのはステッキだった。なぜ懐に隠せる大きさの品にしなかったのかはわからないが、壮年の男が持ち歩いていても自然に見える品を選んだのは確かだ。
「小さいとなくしやすいから、あえて大きなものにしたのかもよ」
「だとしたらアダになっちまったな。身につけられない分、盗まれやすい。まさかあの病院に、金に困った職員がいたとはな。調査不足が悔やまれるぜ。わかってりゃあ転院してもらったのによ」
「先代さんが入院してた病院の職員が、盗んで売っちゃったってこと?」
「ああ。それは確かだ」
「それっていつ頃? どれくらい前のこと?」
「病室から遺品が消えてることがわかったのが、二年前だ。退院の手続きをしてる時にな」
病院から返された狼範の私物は下着や本など、細々したものばかりだった。狼範が最後に使っていた歯ブラシまで渡されたというのに、肝心のステッキはどこにもない。職員を問い詰めても、もう病室には何も残っていないという。組長と屋蓑も狼範の病室を確認したが、あのステッキは影も形もなかった。狼範のステッキは熊倉組の前から忽然と消えてしまったのだ。
「わかった。じゃあその病院を教えて」
「だめだ。ここから先は先代の個人情報だからな。おれの独断では教えられねえ」
「それでどうやって探せってのさ」
「だから言っただろ、ついででいいんだよ。熊倉組に関する品がどこに流れたか、心当たりはないかってきいてまわれ」
「ぼくと熊倉組の関係は、どう説明するの?」
「そうッスよ! こんな小僧じゃ、怪しいじゃないスか!」
「そうだな・・・じゃあ、こうしよう。坊ちゃんは熊倉組幹部の親戚だ。おれの名前を使え」
「え、屋蓑さんの親戚のふりしろってこと?」
「そうだ。まちがっても組長の親戚を名乗るなよ。勝手に組長の名前を使いやがったら承知しねえぞ」
「わかったよ・・・じゃあ、ぼくは屋蓑さんの親戚ってことにするね」
「ああ。それでいい。親戚が困ってるから、親切心で探してるんだと言え。頼まれたとは言うなよ」
「え、どうして?」
「おまえも暴力団員だと思われたらびびらせちまうだろうが。骨董屋どもに『警察に睨まれたくない』って日和られちゃ、協力させられねえ」
「協力って、強制するもんじゃないと思うけど。発想がヤクザだね」
「本物のヤクザだっつうの。おれをなんだと思ってたんだよ」
「いや、それこそ親戚のおじさんみたいな」
「てめえ、アニキになれなれしいだろうが!」
「だって、ふたりともちゃんと話きいてくれたし」
「おまえが不気味すぎて話を聞かざるをえなかっただけだ。万が一ぜんぶ嘘だったら、おまえを殺す」
「トランプ見せたでしょ!? 本当だってば! ちゃんと協力するから!」
「そうしてくれ。おれだってむやみに人は殺したくねえ。逃げるなよ」
「逃げないよ! 言ったでしょ!」
「そうか。それじゃあ」
屋蓑が空中に右手をさしだした。どうやら握手を求めているらしい。
「脅した直後に握手するとか、どういう神経してんの?」
「ヤクザだからな。ちょっと脅したぐらいじゃ良心は痛まないんだよ。さ、握手しろ、坊ちゃん」
「はいはい」
陳平は「ハイは1回だ!」と怒鳴ろうとしたが、屋蓑の左手に止められた。陳平の前に出された左手の掌はこちらをむいている。その意味は明確。「怒鳴るな」だ。
「悪いな坊ちゃん。うちの組は礼儀に厳しいもんで」
陳平が怒鳴るのを止めた屋蓑は左手をおろし、応太と目を合わせた。
「いいよ。もう慣れたから。それじゃ、握手ね」
応太も右手をさしだし、屋蓑と握手した。
「それじゃあ、一年よろしくな、応太」
屋蓑が初めて名前で呼んでくれた。やっと気を許してくれたと思うとうれしい。脅されたのは恐かったが、もしかするとこの握手には「一年よろしく」の他に脅したことへの謝罪も含まれていたのかもしれない。ヤクザと握手できる機会はめったにないので貴重な体験ではある。これはこれで小説のネタになりそうだ。
「こっちこそ。よろしく屋蓑さん。陳平さんも」
「『も』ってえのはなんだ、おれはおまけか!?」
「うん」
「正直すぎるだろうが! てめえ、ほんとに協力する気あんのか!?」
「チームが発足したばっかりなのに怒鳴らないでよ」
「チームだあ? てめえ、なにを勘違いして・・・」
「あ、そうだ、チーム名を決めなくちゃ」
「だったら『組長救助隊』だな」
「アニキ!?」
「やっぱりそうなるよね。それじゃあ、チーム名は『猛馬組長救助隊』で決まり」
「おれを無視して話を進めんなよ・・・アニキ、そろそろ5時ッス。この小僧を家に帰したほうが・・・」
「ああ、もうそんな時間か。それじゃ最後に、連絡先の交換だ。スマホは持ってるか?」
「うん。メールアドレスも持ってるけど、LIMEのほうが便利だよね。屋蓑さん、アカウントは持ってる?」
「ああ。一応は」
「ヤクザでもLIMEするんだ。トークルームの内容、気になるなあ」
「小説のネタにするにゃあいいかもしれねえが、おれは見せねえぞ」
「えー。ケチ」
「アニキはケチじゃねえ! てめえの好奇心が強すぎんだよ!」
「いいからさっさとスマホ出せ、坊ちゃん」
応太の呼ばれ方が「坊ちゃん」に戻ってしまった。先ほど名前で呼んだのは親しみを込めてのことではなく、ただ応太に責任感を持たせようとしただけのことらしい。
応太はリュックからスマホを取り出し、屋蓑と連絡先を交換した。ふたりの間で新しいLIMEトークルームがつくられる。
「それじゃ、調べた自販機の写真はこのトークルームにアップするね。一応、確認しといて」
「ああ。おれは改めて馴染みの骨董屋にあたる。何かわかったらここにあげるから、見ておけよ」
「はーい」
「よし。今日のところはこんなもんだな。もう帰っていいぞ、坊ちゃん」
「応太だってば。名前で呼んでよ」
「なに言ってんだ。ヤクザに名前で呼ばれたら怖いだろ普通は」
「ぼくは普通じゃないからいいの。猛馬さんと屋蓑さんは怖くないし」
「アニキと組長をナメんなこら!」
「ったく、しょうがねえな・・・それじゃあまたな、応太」
「うん。またね」
陳平は応太をドアの前で見送り、そっとドアを閉めた。金属製の外階段を降りる足音が遠ざかっていく。やっと不審な青年が去って一安心だ。兄貴分らが帰ってくる前にいなくなってくれて本当によかった。屋蓑以外の兄貴分と鉢合わせしていたら事務所に部外者があがりこんでいる理由の説明を求められ、面倒なことになっていただろう。今日初めて会った部外者と協力関係を結んだなど、口が避けても言えない。応太のことは存在ごと秘密にしなければ。
「小僧は帰りましたぜ、アニキ」
「そうか。よし、あとをつけろ」
「へい。あいつの家をみつければいいッスか?」
「ああ。住所がわかるようならメモしてこい。早く行け、見失うぞ」
「へいっ。行ってきます」
陳平が応太のあとを追って事務所を出た。応太はこの事務所を知っているのに、こちらが応太の家を知らないのは不平等だ。新たな取引相手ができたなら、互いが持つ情報の偏りを均さなければいけない。何より、場合によっては燃やす家の場所を知らないのでは話にならない。極道の世界において、脅しは必ず実行されねばならないのだから。
「組長は生きてるし、あいつは逃げねえ・・・はずだが。念のためだ」
屋蓑はぽつりと独り言をこぼした。
2019/8/10~2020/8/7 下準備
その後の調査は順調で、熊倉組のふたりは応太の正体を確かめた。応太の家は本当に元食堂で、その食堂を営んでいた夫婦の一人息子であること。屋蓑の想像通り応太の年齢は外見年齢よりも上で、実年齢は24歳であること。応太は大学を三年で中退しており、それ以降は小説家志望のフリーターだったこと。
応太は、地下鉄沿線にある骨董屋でバイトを始めたという。その骨董屋の店主は関西の出身で、あえて縁もゆかりもない土地で骨董屋を開いたらしい。ということは、この店主は関東の極道に顔がきかないかわり、どの暴力団にも組みしていないはずだ。この店主が熊倉組を恨んでいることはまず考えられない。ここならば嘘偽りなくあのステッキの行方を教えてもらえると考えた応太が、駄目で元々だと思って狼範のステッキについて店主に尋ねたところ、あっさりと情報が得られたらしい。その店主いわく、とある裏オークションの出品目録に、それらしきステッキが載っているという。応太が「そのステッキを落札してほしい」と頼み込むと「ほんなら、かわりに店番してや」と言われ、バイトすることになったとのこと。
驚くべきことに、骨董屋が落札したものは狼範のステッキにまちがいなかった。応太が初めて店番したその日のうちに店主が戻り、応太にそのステッキを手渡したのだという。骨董屋から応太の手を経て熊倉組に戻ったステッキは、組長机の後ろにある備え付けの金庫にしまっておいた。この調子なら他の遺品、5つの指輪も取り戻せるかもしれない。一年ぶりに会う組長によい知らせができそうだ。
応太の自動販売機調査も順調に進んだ。飲み物やお菓子や栄養食品の自販機は見慣れているし、冷凍食品の自販機はあの「通路」で見たことがあるので驚かなかったが、カップ麺の自販機には驚いた。その自販機は、蓋を剥がして開けたカップ麺を注ぎ口にセットするとお湯が注がれて食べられるようになるものだ。まさかこんな自販機があるとは思いもしなかった。あの通路にカップ麺を持ち込むつもりだったが予定変更だ。インスタント食品を持ち込むにしても、お湯を使わないものにしたほうがいい。いっそのこと炊飯器も持ち込んで、猛馬の目の前で炊き込みご飯でもつくったほうがいいかもしれない。できるだけ栄養があって温かいものを食べてほしいから。
結局、応太が採用したのは鍋焼きうどんだ。冷凍のものだと猛馬は警戒して食べてくれないかもしれないので、あえて当日に自然解凍する。ともに持ち込む調理器具はポータブルタイプのIHコンロだ。携帯用なので火元は一口しかなく、鍋焼きうどんの場合はひとつずつしか調理できないが、これが一番かさばらないと判断した。なにせ今回は車が使えないので人力のみで運ぶことになる。リュックサックに入る大きさで、持ち運べる重さの物しか使えないのだ。この条件を前提に考えると電気ケトルや炊飯器といったかさばる物は却下される。応太がIHコンロを採用したのは必然と言えるだろう。これにキャンプ用電源を加えれば、再会祝いの一食を用意できる。
陳平は応太が初めて熊倉組の事務所を訪ねた日から毎日、地下鉄に乗った。応太が単独行動している陳平に持たせた携帯食料は煎餅だ。さすがに煎餅の自販機は見たことがないので猛馬も安心して食べてくれるだろう。煎餅なら軽くて薄くてかさばらないので持ち運びやすい。それでいて原材料は米なので意外と腹にたまり、腹持がよいのが利点だ。そのかわり口内の水分を奪われるのが欠点である。この点は2リットルのペットボトル入りミネラルウォーターを持たせることで解決した。2リットルなら自販機の商品ではありえないので猛馬も飲んでくれるだろう。陳平は毎日、応太が選んだ煎餅とミネラルウォーターを持って地下鉄に乗り続けたが、猛馬と同じ地下通路に入ることはできないまま一年が過ぎた。
Xデー、組長救助隊と不気味な通路
そうして迎えたXデー。猛馬が行方不明になった翌年の8月8日。応太たちは一年がかりで集めた装備品を身につけ、地下鉄樺島線の東樺駅に集合した。屋蓑と猛馬は去年、この駅から地下鉄に乗り、事務所最寄りの樺下駅で降りたのだ。応太たちも同じルートをたどる。乗り込む電車は19:51東樺駅発、20:23樺下駅着。一見すると8に関する時刻とは言えないが、ホームから改札口を経て地上まで移動している間に5分経てば28分になる。12時間表記で言えば午後8時28分。あの「通路」が人を捕らえてもおかしくない時刻だ。
東樺駅から樺島線に乗った応太たちは予定通り樺下駅で降りた。ここから改札口を通って通路へ出る。そして、前方を見ないようにしながら地上へむかって移動する。視線をむける物はなんでもいいが、とにかく前方を見ないことが肝心だ。この他に重要なことは、同行者と物理的につながっていること。屋蓑は猛馬に同行していたにも関わらず猛馬だけが「通路」に捕らわれたことから考えると、あの通路は一度に一人しか捕らえないように見える。しかしそれは人間側の解釈にすぎない。あの通路が人間を個体識別しているとは限らないのだ。物理的につながっていれば応太たち「猛馬組長救助隊」の三人を「一人」と解釈して、まとめて捕らえてくれるかもしれない。今回はむしろそうしてくれないと困る。自分たちは三人でひとつのチームなのだから。
「よし。それじゃあ、ここからはリュックをつなぐよ。歩きにくくなるから気をつけてね」
改札口を出た応太たちは、お互いのリュックをカラビナとワイヤーでつないだ。ここから先は横一列で歩く。背中側から見て左は屋蓑、真ん中は応太、右は陳平だ。リュックをつなぎ終わった応太は懐からスマホを取り出し、ネットで樺下駅の構内図を検索した。応太のスマホに構内図が表示される。
「屋蓑さん、あの日はどの出口から出ようとしてた?」
「2番出口だ」
「オッケー。じゃあ、こっちだね。出発するけど、前は見ないでよ」
「了解・・・つっても、難しいな」
「屋蓑さん、意外と背が高いもんね」
実際、屋蓑は成人男性の平均身長よりも背が高く、180cmを越えている。失恋して痩せ細る以前、恰幅のよかった頃は高身長と相まって今よりもはるかに迫力のある外見をしていた。そのせいで屋蓑が熊倉組の組長だと思われてしまったことがある。あれ以来、屋蓑は華美な服装を控えている。万に一つも自分が組長だと思われないよう、高価な物は身につけないにしているのだ。いつも着ている縦縞柄のスーツは一見すると高級品に見えるが実は安物である。大切なのは値段よりも洒落っ気だ。
「『意外と』はよけいじゃ小僧!」
「陳平、往来で怒鳴るな。ここは路地裏じゃねえ。通行人が恐がるだろうが。無意味に市民をびびらせるんじゃねえ」
「へい、すいません」
「意味があればいいんだ?」
「ああ、意味があればな。極道にゃ、恫喝も恐喝も日常だからなあ。しかしまあ、市民に絡んで得することはねえけどな。警察呼ばれちまうし」
「熊倉組は警察より弱いんだね」
「今のところはな」
「こわっ。屋蓑さん、意外と野心家だね・・・あ、着いた」
応太が見ていたスマホの時刻表示に例の「88:88」が表示され、自分たちがあの「通路」に入ったことが確かめられたので、応太はスマホを懐にしまった。
「なに言ってんだ。まっすぐ歩いてただけじゃ・・・あ!?」
陳平は驚いてあたりを見回した。気がつけばさっきまでいた通路とはまるでちがう通路に立っている。天井も壁も床も、まるでそれ自体が発光しているのではないかと思うほど真っ白だ。ここは明らかに樺下駅の一部ではない。おそらくここが応太の言っていた「地下通路」だろう。正直なところ陳平は半信半疑だったが現実に組長の不在が一年続き、こうして本物の「通路」に着いた以上は信じないわけにはいかない。
「ここだな!? 組長がいんのは!?」
「陳平さん、おちついて。確かに例の『通路』に着いたけど、猛馬さんがいるかどうかは、進んでみないとわからないから」
「陳平、チャカ出せ。弾を確認しろ。この先ではずっと持ってろよ」
「へいっ」
屋蓑と陳平は懐に隠していた拳銃を取り出し、弾を確認した。ここなら駅員にみつかることはなく、警察を呼ばれる心配もない。存分に撃てると思うと、極道にとっては良い環境だと言えなくもない。
「それじゃ、改めまして。お兄さんがた、よろしくお願いします」
応太はどこかでヤクザ映画でも見たらしく中途半端にヤクザ風のことを言い、ぺこりと頭を下げた。
「こっちこそ。出口までよろしくな、坊ちゃん」
「うん。それじゃ、注意事項ね。まず、リュックの連結は解かない。分断されるとまずいから、猛馬さんをみつけるまではこのままで行くよ」
「わかった。他には?」
「通路の端を歩いてくるヒトみたいなのが出るけど、撃たないで」
「人間じゃねえんだろ。殺人にゃならねえぞ?」
ここで出会うものは人間の他に2種類いるが、どちらも人間ではなく通路の一部だときいている。通路の端を一定の速度で歩いてくるものは会話できず襲ってくることがあると言ったのは応太だ。どうせ襲われるのなら先手必勝で、出会いしだいに撃ち殺せばいいのではないか。
「むやみに撃たないでよ。弾がもったいない」
「じゃあ、なにを撃つんだ?」
「撃つものには変わりないよ。タイミングの問題。襲われた時だけ撃って。襲われる前に撃っちゃだめ。たとえ相手が笑顔で、めちゃくちゃ不気味だとしても」
「それはわかったが・・・おまえ、妙にはきはきしてんな。こんな妙な場所に、えらく適応してるじゃねえか」
「ある意味、懐かしいからね。それに、猛馬さんをみつけないといけないから」
「そうか。それじゃあ応太、先導しろ」
「うん。今から0番通路に入るよ。まわりをよく見て、覚えておいてね」
「そういや、まちがい探しするんだったな」
「そうそう。まずは『通常』の状態を覚えておかないとね。前と変わってないといいんだけど」
救助隊の三人は0番通路に入った。見たところオブジェクトの配置に変化はないが、問題は通路の端を「歩く者」だ。以前の「通路」では、ポスターを三枚ほど数えたあたりで角のむこうから足音が聞こえてくる。そして、ポスター7枚をすべて数えたあたりで通路の中程に至る。問題はその瞬間だ。挑戦者が何も考えずに歩いていると通路の半ばで「歩く者」とすれちがう。ここで相手が何もしてこなければ安全だが、何かしてきたとたん危険になる。「歩く者」とすれちがうまで気は抜けない。
「陳平さん、歩くヒトの見張りはよろしくね」
「おう」
「たぶん、前のおじさんだと思うんだけどね。屋蓑さんは、左の壁にあるものを覚えて。ポスターの内容とか」
「わかった」
「ぼくは天井と右の壁をっ・・・」
言っているうちに通路の奥から足音が聞こえてきた。三人に緊張が走る。0番通路で攻撃されることはまずありえないが、実際にどうなるかわからない。そもそも「歩く者」が前と同じ「おじさん」かもわからない。
通路の「奥」から姿を現したのは中年の男ではあったが、例の「おじさん」ではなかった。あの「おじさん」はワイシャツを着てスラックスをはいていたが、この男は作業着を着て安全靴をはいている。服装からして別人ではあるものの脇目もふらず一直線に歩いていながら応太たちに対して無反応なところを見ると人間ではなさそうだ。この通路の一部「歩く男」にちがいない。
「応太、あれが『歩く男』か? 化物にゃ見えねえが」
「そうだよね。でも、あれは『歩く男』だよ。この通路の一部だから、人間じゃない。すれちがうまでは警戒して」
「そうか。陳平、おまえはあれを見張れ」
「へい」
陳平は半信半疑だ。組長が行方不明なのも奇妙な「通路」が実在したのも事実だが、目の前で歩いている男が人間でないとはとても信じられない。陳平としては、相手は人間のほうが助かる。人間なら大まかな動きや反応は予想できるし急所を撃てば殺せる。しかし相手が化物では、どんな風に攻撃してくるのかも、どこを撃てば殺せるのかもわからない。命令されたから見張りはするが、うまく反撃できる自信はない。それでも、今は応太の言うことを信用してこの通路を攻略するしかない。そうしないと組長には二度と会えないのだから。
陳平は作業着を着て歩いてくる男をみつめた。男は歩き続けているというのに、近くで見ると意思も生命も感じられない。作業着の胸に刺繍された名前が読めるほど近づいてきても男は無反応だ。男の目をよく見ると、どこにも焦点が合っていない。その目はあまりにも虚ろだったので、さすがの陳平も認めざるをえなかった。この男は生きた人間ではない。たとえ人間だとしても、なんらかの術で歩かされている死体という印象だ。万が一この男が襲ってきたとして、どうやって殺せばいいのだろうか。
陳平が思案している間に「歩く男」は黙って陳平たちの横を通りすぎた。
「アニキ、あの野郎は行っちまいました」
「ああ。後ろの角を曲がったな。一安心だ」
「よかった。さすがに0番通路では襲われないみたいだね」
「本当に気味が悪いな。実物を見るまで信じられなかったけどよ。あれじゃまるで、動く死体だぜ」
「ほんと、歩いてるだけで不気味だよね。変形したらもっと気持ち悪いから、覚悟しといて」
「マジかよ・・・」
「アニキ、しかたねえッスよ。組長のためッス」
「わかってるっつうの。びびっちゃいねよ。腑分けならさんざんしたからな。自慢じゃねえがおれは、死体とスプラッタホラーには耐性があんだ」
「そっか。屋蓑さん、医者だもんね。死体には慣れてるか。実はあれ、人間じゃないくせに出血するんだけど、ふたりとも平気そうだね」
「ああ。血と死体を見るのはヤクザの日常だからな。思えば適材適所だぜ。並の人間じゃ、さっきの男を見ただけでびびりそうだ」
「ぼくも初見の時はびびったよ。一人の時は怖かったな」
「安心しろ。今はおれたちがついてる。この通路が実在してやがる以上、進めば組長もみつかるだろ」
「うん。この調子で進もう。オブジェクトの配置は前と同じみたいだから、ぼくは異変に気づきやすいと思う」
「そうか。頼もしいな」
屋蓑がほほえんだ。猛馬の時もそうだったが、表情が和らぐとヤクザも人間にすぎないことを実感する。今、応太のそばにいるのは生きた人間の味方だ。武装した味方が二人もいると、とても心強い。
三人はゆっくり歩いて0番通路の端に着いた。
「よし。端まできたね。屋蓑さん、ポスターの数と内容は覚えた?」
「ああ。ポスターはぜんぶで7枚だ。順番も覚えた。むこうの壁の様子は覚えたか?」
「うん。通気口とドアが三枚。前と同じだよ」
ポスターも通気口もドアも、どれもなんの変哲もない。どこかの地下通路にあってもおかしくない物ばかりで独創性はまったく感じられないので、創造されたものではなさそうだ。おそらくこの通路は実在するものをコピーすることしかできないのだろう。
「どうせなら、奇抜な物もつくればいいのに」
「応太、煽るな。おれたちはこいつの腹の中にいるんだぞ。むやみと挑発すんな。進むぞ」
「そうだね。進もう」
三人は次の表示板まで進んで番号を確認した。黄色い表示板に黒で書かれているのは「1」だ。
「1番だね。さすがに、こんなところで番号はとばないか」
ここから先は「異変」が起きるので「歩く者」に攻撃されることも想定しなければならない。ケガをする可能性もあるし、下手をするとケガでは済まないかもしれない。
「攻撃的な異変じゃないといいんだけど。何か、変なものをみつけたら教えて」
「わかった」
「それじゃ、今から1番通路に入るよ。攻撃されるかもしれないから、注意して」
ふたりがうなづく。危険なまちがいさがしは、いよいよ本番だ。三人は1番通路へ入り、慎重に角を曲がる。応太はまず頭上にある出口表示を確認した。矢印の隣に「8番出口」と書かれている。
「今のところ異変なし、と。じゃあ、進むよ」
三人が歩き出す。最初の分担通り屋蓑は左壁のポスターを確認し、応太は右壁の通気口とドアを確かめる。屋蓑が三枚めのポスターを見たところで「奥」から足音が聞こえてきた。「歩く男」の見張りは陳平に任せているので足音を無視して四枚めのポスターに目を移したところ、陳平が足を止めた気配がした。
「アニキ! 女です!」
陳平は立ち止まって前方を見たまま叫んだ。屋蓑と応太も前方を見る。確かに、初めて見る女が通路の端をまっすぐに歩いていた。ふんわりとしたワンピースに身を包んだ女は、近づいても目を合わせることなく通り過ぎる。何事もなくすれちがえたのは良いが、あまりにも機械的な移動だ。あの女は明らかに「歩く者」の特徴を備えている。つまり、人間ではなく通路の一部だ。
「あの女、何もしてこなかったのはいいが・・・応太、今まで『歩く男』が変化したことはあったか?」
「うん。猛馬さんと合流したあとは、ちがう奴が歩いてた。もしかしたら、猛馬さんがいる通路に合流できたのかも」
「なるほど。先行者がいる通路に入ると、それに合わせて『歩く者』が変化する、と」
「じゃ、この先に組長がいるんだな!?」
「陳平さん、おちついて。まだ、はっきりしてるわけじゃないから。とりあえず、このまま進もう」
「戻らねえのか? 今のは、異変だろ?」
「まだ1番通路だから、リセットされてもロスは少ない。お願い、試させて」
「わかった。陳平、進むぞ」
「へい」
ふたりは半信半疑ながら応太とともに進んだ。わけのわからない空間では経験者の直感に従ったほうがいいと判断したからだ。この異常な空間では常識はもちろんのこと極道界の知識も役に立たないだろう。
「よし。他には変化なし、と」
通路の「奥」に着いたが他の変化はなかった。ここは「異変なし」と判断し、あえて戻らず、目の前にある角を曲がる。左手に見えてきた黄色い表示板に示されている番号は「2」だ。
「よし。番号が進んでる」
「さっきのは異変じゃねえのかよ。毎回、ちがう奴が歩いてくるのか?」
「そんな気がしたから、戻らなかったんだ」
「そうか。おまえは勘がいいんだな。この先も頼むぜ」
「うん。法則が変わったのはちょっと不安だけど、進もう」
次の通路でも「歩く者」が変化すれば、新しい法則に確信が持てる。この通路は少し趣向を変え、番号ごとに異なる者を歩かせることにしたらしい。だとしたらこの通路は己を完成させるのに最低でも9名の人間を必要とするので、9人集め終わるまでは人間の捕獲を続けるつもりなのかもしれない。ということは危険度が以前よりも上がっていることになるが、今回は始めから味方が同行してくれている。危険度が上がっても人手は増えているので脱出難度は変わりないだろう。応太が判断を誤りさえしなければ。
三人は2番通路に入り、また分担に則って役割をこなす。ポスターの三枚めを見たところで、またしても陳平が立ち止まって叫んだ。
「アニキ、また別の野郎ッス!」
「野郎っつうか、じいさんだな」
この通路に現れたのは老人だった。長い白髪を後ろで束ねて口ひげを生やしている独特な風貌を見るに、以前は芸術家だったのかもしれない。それが今や虚ろな目でひたすら通路の端を「歩く者」と化しているところを見ると、少し気の毒だ。自分たちが顔を知らないだけで実は著名な人物で、美術界には多大な損失がもたらされたのかもしれない。しかしこうなってしまった者を救う術はなさそうだ。一介の外科医にできることはなにもないだろう。
「気の毒にな」
屋蓑はつぶやいた。冷静に考えれば組長や自分たちも例外ではない。今はこの通路のなかにいる以上、いつ捕まって「歩く者」にされてもおかしくはないが、その可能性は思考からふるい落として考えないようにする。自分たちは必ず、四人そろってここを出るのだ。
「応太、他に変化はあったか?」
「今のところはないね。そっちのポスターは?」
「こっちも、三枚めまでは変化なしだ」
「よし。それじゃあ、このまま・・・」
応太が「進もう」と言おうとした瞬間、通路が真っ暗になった。この通路の天井には照明器具がついていないが、そのかわり天井・壁・床のすべてが光を放つことであたりを照らし、視界が確保されていたのだ。しかし今はどの壁も、一面たりとも発光していない。視界は完全な闇になった。
「ヤバい! 早くランタンつけて!」
三人はすばやくリュックをおろし、外側にぶら下げていた電気ランタンを手探りしてスイッチを入れた。
「よかった、ついた! 屋蓑さん、ポスター見える!?」
「見えてるから静かにしろ。順番にたどって、戻るだけだろ」
屋蓑は動じておらず、リュックからはずしたランタンを持ってポスターを照らしている。まるでただの停電のような反応だ。よく考えれば照明が消えただけで、何かに襲われたわけではない。あまり騒ぐようなことではないのかもしれない。屋蓑の冷静な言葉に、応太はおちつきを取り戻した。
「う、うん。そう。後ろは見てるから、集中して」
「ああ。ランタン持って、静かについてこい」
屋蓑の指示で応太と陳平もランタンをリュックからはずして手に持つ。三人はリュックを背負って立ち上がり、前方を照らした。視界が闇になった瞬間に老人の姿をした「歩く者」の気配は消えていたが、あのまま歩き続けているかもしれない。後ろに「歩く者」が現れないか注意しながら、応太と陳平は少し前を行く屋蓑についていく。
「3、2、1・・・と。これが最初のポスターだな。ということは、こっちに行けば入ってきた角が・・・陳平、左側を照らせ」
「へい」
陳平が左側を照らすと、そこには曲がり角があった。自分たちが2番通路へ入ってきた角だ。
「よし、曲がるぞ」
ランタンを持った三人が角を曲がったとたん、視界が白い光に包まれる。
「うわっ、まぶしっ」
「サングラスでも持ってくりゃよかったが・・・2番から出た。表示板はあそこだな」
早くも光に目をならした屋蓑は黄色い表示板をみつけた。通路を戻ったのに表示板が右手ではなく左手の壁にあるのを見ると、この通路の異常さを嫌でも認識させられる。やはりここはまともな空間ではない。一刻も早く組長をみつけ、すみやかに脱出しなければならない。
「ほら、行くぞ。番号を確かめねえと」
応太と陳平はまだ目を細めているが、うなづいて歩き出す。表示板の前まで行って確認すると、示されている番号は「3」だった。
「3番だね。わかってたけど、よかった」
「ああ。この調子で、無傷で進みてえところだが。応太、休むか?」
「うん。ちょっと休憩しよ。ランタン戻したいし」
「さてはおまえ、怖かったんだろ。部屋の電気はつけたまま寝るタイプか?」
「まさか。そんな子供っぽいことしてないよ。今は」
言いながら応太はリュックを降ろして座り、ランタンを元の位置に吊りなおす。子供の頃は怖い話が大嫌いで暗いところが怖かったが、今は平気だ。今はオバケよりも不審者のほうが怖いので、外出する時は護身具を持ち歩いている。怖いものが変化することが、健全な成長なのだと思う。
「むしろ今は、まぶしいと寝られない。寝る時の明かりなんか、街灯で充分だよ。都会は夜でも明るいじゃん?」
「確かに。カーテン閉めてても、真っ暗にはならねえな」
「ね。それに気がついたら、電気消しても平気になった」
「大人になる」というのは、怖いものを減らしていくことなのかもしれない。抽象的なものは怖れず、具体的な災害にだけ備えるのが大人なのだろう。
「屋蓑さんと、陳平さんもランタン戻しなよ。ふたりはずっと拳銃かまえて行くんでしょ?」
「そうだな。戻しとくか・・・逆に、おまえはなんで戻すんだ。ずっと持ってるほうが安心じゃえねえのか?」
応太のランタンもずっとリュックに吊られていた。応太は銃を持っているわけではないので、手を空けておく必要はないはずだ。どうせなら、ずっとランタンを持っていたほうがすばやく対処できてよかったのではないか。
「それもそうなんだけど。ずっと持ってると疲れるから」
応太の体力は少ない。日常生活に支障はないものの、持久力や瞬発力があるわけではないのだ。ずっと握っていたらそのうち疲れて落としてしまうだろう。番号表示のある通路ならともかく、異変の起きる通路で落とした物は回収できないそうにない。さっきのように暗くなる異変がまた起きた時に備えるなら吊りなおしておいたほうがいい。
「おまえは本当に体力がねえんだな」
「しょうがないでしょ。普段はインドア派のオタクなんだから」
応太は子供っぽく口をとがらせた。この反応を見ると、とても成人しているとは思えない。しかし、今回はこの子供のような性格が役に立っている。ヤクザの手を借りてまでいかれた空間に戻ろうとするのは常人の感性ではない。組長を助けたいのもあるのだろうが、好奇心のほうが勝っている気がする。味方とともに通路へ入れば、あたりを観察する余裕ができる。それこそ小説の題材にでもするつもりでここへ戻ったのだろう。味方を連れて戻れば救出も取材もできて一石二鳥というわけだ。
「よし。せっかくだから、何か食べよ」
「おまえなあ。まだ3番の前だぞ。こんなとこで食い物減らすなよ」
「休憩といったらオヤツじゃない? せっかく煎餅もってきたし」
応太はクッキーのほうが好きなのだが、煎餅よりも割れやすいので却下した。リュックに入っているのは堅焼き煎餅だ。おにぎりのかわりになるように大きなものを選んだので、どれも食べ応えがある。
「あるからって食わなくてもいいんだぞ」
「食欲あるうちに食べておこうと思って。あんまりグロいもの見たあとだと、食欲わかないからさ」
「そういやおまえ、一般人だったな。血は苦手か?」
「うん。映画でもスプラッタ系は見ない。ゲームも、あんまりグロいのはやらないなあ」
言いながら応太はリュックから煎餅を一枚取り出した。味噌タレが塗られていて、唐辛子が少しまぶされている。個包装を開けて試しに一口かじってみると、なかなかおいしい。
「味噌系も意外とおいしいなあ。さすが老舗」
「組長はよく『工場生産品ばっかり食ってると舌がバカになるから、たまにはいいもん食え』って言ってたな」
「へえ。猛馬さん、グルメなんだ。お酒の好みとかうるさそうだね。お歳暮選びとか大変じゃない?」
「何気なく他人んちの事情を探ろうとすんな。この救出が失敗したら、そもそも送る相手がいなくなっちまうだろが。集中しろ。よけいなことは考えるな」
「わかった。それじゃ、食べ終わったら行こうか」
「いや待て。写真はどうなった? 記念といえば写真だろ。前にこの通路で撮った写真はどうなったんだ?」
屋蓑は一年前に聞いた話を覚えていた。応太はたしか、持っていたスマホでオブジェクトの写真を撮ったと言った。記憶力を問われる「まちがいさがし」においては有効な攻略法だと思われるが、今回の応太はスマホを取り出す様子がない。それはなぜなのだろう。
「あー。あれね。実はさ、あとで見たらなんか、モザイクみたいになってて。まともな画像じゃなかったよ」
「それ、今、見られるか?」
「それがね、見られないの。通路を出たら消えちゃったみたいでさ。カメラロールに残ってなかったんだよ。まあ、どうせあとで消すつもりだったんだけど」
あの妙な画像をカメラロールに残しておくとスマホがバグりそうで恐ろしかったので、通路を出たら消すつもりでいたのだ。それが自動的に消えてくれたのはありがたかった。
「消えただあ? まさかこの通路、電子機器にも干渉できるのか?」
「そうかもしれない。なかに入ると、ずっと圏外なんだよね。電波が入らないの」
応太は懐からスマホを取り出し、画面をふたりに見せた。確かに圏外になっている。屋蓑と陳平も自分のスマホを確認したが、どちらも圏外だった。
「確かに圏外だな。これじゃ、どこにも通報できねえ」
「そう。助けは呼べないから、前はふたりだけでがんばるはめになったんだよ」
「組長からまったく連絡がなかったのはこのせいか。電波を遮断するとは、周到な野郎だぜ」
この通路に制作者がいるとしたら悪意のある者にちがいない。現代人は「何かあったら通報すればいい」と思っている。火事や事故を見れば消防署に、不審者を見れば警察に連絡すれば助けてもらえると思い込んでいる。しかしそれはすべて、連絡できればの話だ。携帯電話を経てスマホが普及した今は以前よりも格段に助けを呼びやすくなったが、だからこそ誰も、助けを呼べない状況など想定していない。電波の遮断は、現代人を無力化する有効な手段である。この通路自身が考えだした対策だとしたら、この通路はかなりの理解力を持っていることになる。知性があるのだとしたら侮れる相手ではない。
「ごちそうさま。それじゃ、行こうか」
「ああ。次は3番だな」
応太は煎餅が入っていた小袋をリュックにしまって立ち上がった。屋蓑と陳平も立ち上がり、三人ともリュックを背負う。三人は気を引き締めて3番通路へ入った。
3番から6番までの間に、さらに2種類の「異変」に遭遇した。異変のない3番通路を直進したのはよかったが、4番通路で床から白いワニが現れて襲われた時は生きた心地がしなかった。死人もケガ人も出なかったのは幸いだ。どこからともなくすすり泣きが聞こえてきた5番通路を引き返してクリアしたが、次の表示板を確認するまでは緊張した。万が一「9」が表示されていたら難易度が跳ね上がるところだったが、表示されていたのはなんの変哲もない「6」で、応太は胸をなでおろした。
三人が猛馬らしき男をみつけたのは異変のない6番通路をクリアした後、7番通路の前だった。
猛馬組長と救助隊
通路を進むことに慣れた三人は、異変のない通路をクリアするたびに、手鏡で角のむこうを確認してから進んでいた。屋蓑が猛馬に撃たれないよう、急な再会を防ぐためだ。7番通路の前で壁を背に座り込んでいたのは、灰色のスーツに身を包んだ黒髪の男。右足を負傷しているようだが、あれはおそらく猛馬組長だろう。
陳平は拳銃を懐にしまったが、そこから先は冷静さをなくしてリュックを投げだし、段取りを忘れて隠れていた角から駆けだした。ここは応太がフォローするしかない。応太は屋蓑と自分のリュクの連結を解き、屋蓑をその場に残し陳平のリュックを持って角を出た。
「組長ッ」
座っている男に駆け寄った陳平は早くも男のそばに膝をつき、男の肩をつかんで乱暴にゆすぶっている。
「おまえ、まさか、陳平か?」
男は驚いた顔で陳平に応えた。反応と声からすると、やはり猛馬らしい。いつもとちがって陳平がジャージではなく迷彩服を着ているせいで気づくのが遅れたようだ。陳平だと認識してもらうだけならいつものジャージ姿のほうがよかった。しかし、記憶にある通りの姿だと「通路が生み出したもの」と誤認されかねない。知っている人間だが自分の知らない服装をしている、という条件が達成されなければ「外」から助けが来たとは信じてもらえないだろう。少しぐらい認識されるのが遅れても、ここは迷彩服を着せておくのが正解だ。屋蓑と陳平が着ているものは自衛隊の払い下げ品なので、市販品のジャージよりもはるかに丈夫なのも利点である。
「へいっ。おれは陳平です、組長! お助けしに来ました! 生きててくだすって、うれしいッス!」
追いついた応太は陳平のリュックを床に置き、演技だとばれないようできるだけ感情を込めて言う。
「もう、陳平さん、ひとりで行っちゃだめだって言ったでしょ」
応太は男の顔を確かめた。猛馬本人にまちがいなく、一安心だ。
「久しぶりだね。陳平さんと一緒に、助けに来たよ。ぼくのこと、わかる?」
屋蓑と陳平には迷彩服を着せた一方、応太は普段着だ。応太は運動神経が鈍いので着慣れないものだと逆にケガをすると判断してのことである。ただし、猛馬と一緒に歩いていた時とはちがう服を着ている。猛馬の記憶にあるのとまったく同じ服装だと、それこそ初対面の時のように「通路の一部」と思われ攻撃されかねないからだ。ヤクザの場合「攻撃する」には「銃で撃つ」という選択肢が含まれているので命に関わる。絶対に撃たれたくないので服装には気を使った。
「おまえは・・・応太か?」
猛馬は攻撃してこなかったし、応太のことを思い出してくれた。完全に忘れられて初対面扱いされたら、それはそれで信用してもらえなかっただろう。
「うん。前にこの通路で一緒だったよね。記念品のトランプ、家に置いてあるよ」
あのトランプをこの場に持ってきたほうが猛馬の信用は得やすいが、あえて自分の部屋に置いてきた。万が一、応太がこの通路からの脱出に失敗した時のためだ。母が「息子が行方不明になった」と気づいたら、あのトランプを持って警察に行ってくれかもしれない。警察にさえ行ってくれれば、誰かがこの通路まで助けに来てくれるだろう。
「トランプと交換した物はわかるか?」
「携帯ゲーム機だね。水色で、オウタって彫ってあって、キーホルダーがついてるの」
「おまえが言ってるのは、こいつのことか?」
猛馬は懐から青い携帯ゲーム機を取り出した。そのゲーム機には確かに「オウタ」と彫られている。応太が小学生の時に釘でひっかいて彫った字にまちがいない。この世に同型がいくら流通していようと、応太が猛馬に渡したゲーム機はこれひとつだけだ。
「まさにそれ! 内蔵ソフトはリバーシだよ。クリアできた?」
「そうか。こいつ、リバーシだったのか」
「まだ持っててくれたことはうれしいけど。プレイしてないの?」
「誰がこんなところでゲームするんだよ」
猛馬は青いゲーム機を懐にしまった。応太と交換した大切な物だと覚えていたので今まで捨てずに持ち続けていただけだ。プレイしてみるという発想はまったくなかった。
「気分転換にはいいと思うんだけどなあ。それじゃあ組長さん、自分の名前はわかる?」
本人確認は済んだが、なぜか名前をきかなければいけない気がする。応太は自分の直感に従うことにしているので、念のため猛馬に名をたずねてみた。
「ああ。熊谷猛兎だ」
猛馬にそっくりな男は、熊倉組長とは別の名を答えた。実は別人なのかと思ったが、それなら応太のゲーム機は持っていないだろう。猛馬本人にはちがいないのに別の名を名乗ったということは、自分の名を忘れてかけているのかもしれない。名前を確かめたのは正解だった。
「クマガヤ・モウウさん? 前にきいた名前と微妙にちがうけど、それ、本名なの?」
「本名・・・?」
猛馬は眉間に皺をよせて考えて込んでいる。何かで使った偽名を本名だと思い込んでいるのだろうか。
「組長、『熊谷猛兎』は探偵事務所の責任者の名前ッス。組長が使われてるお名前ですが、ご本名じゃないッスよ」
考え込んでいる猛馬をみかねた陳平が助け船を出した。どうやら熊倉組は探偵事務所まで経営しているらしい。暴力団のわりには意外と多角経営だ。
「・・・ああ、そうだったな。思い出した。おれは熊倉組の、熊倉猛馬だ」
「よかった。完全に忘れてたらどうしようかと思った。驚かさないでよ」
「すまん。自分でも驚いた。きいてくれてよかったぜ。偽名なんざ持つもんじゃねえな」
「ほんとだよ。まったく・・・」
応太はため息をつき、陳平は安堵の息を吐いた。ご本人だと確認できたからにはお助けするのみだ。
「思い出してくれてよかった。ここからは一緒に行こう」
「応太。トランプのメッセージは読んだのか?」
「うん、読んだよ。あきらめろって書いてあった」
「そうだよなあ? じゃあ、どうしてここにいる? しかも、陳平と一緒に」
「あのトランプを持って事務所に行ったら陳平さんがいたから、ここで起きたこと、ぜんぶ話した。そしたら、協力するって言ってくれて。装備を整えてここまで来たってわけ。一応、救急セットも持ってきたけど。手当しようか?」
「他人の忠告をきかねえ奴だな。ここまで来ちまったもんはしょうがねえ…まともに歩けねえが、止血はしてある。手当はいらねえ。陳平、おれをおぶっていけ」
「へいっ」
「応太、そのリュック、陳平のか?」
「うん。食料とか武器とかが入ってる」
「そのリュックと、このケースはおまえが運べ。中に銃が入ってるから気をつけろよ」
猛馬は傍らに置いてあった革製のケースを応太に渡した。残念ながら中身の猟銃は弾が尽きているので、ここから先はケースに入れたままでいいだろう。弾切れしていれば暴発の心配もなく、素人に持たせても問題ない。
「わかった。重たいけどしょうがないね」
「それと、後ろに気をつけろ」
「え?」
「あの角から気配がする」
猛馬は先ほど応太と陳平が出てきた角を指さした。留まっている屋蓑の気配に気づいたらしい。
「おれとしたことが、気づくのが遅れたぜ。人間かどうかわからねえ。あの角から何か出てこないか注意しろ」
「わかった。後ろは任せて」
応太は緊張した。あの角に潜んでいるのは屋蓑で、自分たちふたりは屋蓑とグルで猛馬をだまし撃ちしようとしていることはけっして感づかれてはいけない。
「あそこにいる奴が出てくる前に行きましょう。組長、どうぞ」
陳平は猛馬の前に背をむけてしゃがんだ。
「言っとくがな、おれは見た目より重いぞ。覚悟しろよ」
「へいっ」
大柄な兄の狼範と比較されることが多かったせいもあるが、それを差し引いても猛馬は小柄である。成人男性の平均身長よりも少しばかり背が低いせいで、猛馬は性格も体重も軽いと思われがちだ。真面目に体を鍛えて筋肉質になってもタッパの高さを重視する暴力主義者どもが集う極道の世界ではなめられていたが、実際の猛馬は精神も体重もけっして軽くはない。
「立ちます、しっかりつかまってください」
陳平は猛馬を背負ったまま危なげなく立ち上がった。大人を背負っているとは思えない安定感だ。陳平は腕力だけでなく体幹も強いらしい。陳平は組長の猛馬を慕っていることからして、猛馬の役に立ちたくて体を鍛えてきたのかもしれない。
「それじゃ、行きます」
陳平は猛馬を背負ってゆっくり歩きだしたが、やはり抜群の安定感だ。応太は猛馬のケースを背負い、陳平のリュックを抱えてついていく。これで猛馬の背中が壁から離れたので麻酔銃が当たりやすくなった。あとは屋蓑に任せよう。
屋蓑はずっと手鏡越しに通路の様子を見ていた。手はず通り、陳平が組長を背負って歩きだした。猛馬の背中はがら空きだが、麻酔銃を撃てば気づかれる。撃ち返されることは覚悟しなければいけない。屋蓑は手鏡をしまい「外」から持ち込んだ麻酔銃をかまえた。あとは角から手と顔を出して撃つだけだ。今回はターゲットに致命傷を負わせる必要はなく、背中のどこかに当てればいいだけなので照準を定める難度は低いことがせめてもの救いである。
屋蓑はあえてしゃがんだまま角から顔を出した。幸いにしてまだ猛馬の視線は前方をむいている。その背中にケースはなく、がら空きだ。あのケースは応太が肩にかけている。あれを預けているということは、よほど応太のことを信用しているのだろう。この「作戦」のせいで応太まで信用をなくさないか心配だが今はそんなことを考えている場合ではなく、身内を撃つ抵抗感は殺さなければならない。
屋蓑はようやくにして腹をくくり、ついに麻酔銃の引き金を引いた。麻酔銃だからといって音をたてないわけではない。いくら火薬は使われていないといってもさすがに無音というわけにはいかず、ついに猛馬に気づかれた。猛馬は目にも留まらぬ早さで右手を懐につっこみ拳銃を取り出して後方に半身をひねったが、片手では安全装置をはずせないことは失念していたらしい。その隙が命取りになり、猛馬の背中に麻酔針が突き刺さった。
「猛馬さん!」
応太は持っていたリュックを放り出してなんとか猛馬の上半身を受け止めた。ここまで手はず通りではあるが自分の筋力で猛馬を受け止められるかが心配で、演技抜きで大声が出た。幸いにして猛馬の頭は床に打ちつけられることなく応太の腕に収まっている。
陳平は腰を下ろして猛馬を背中から降ろした。猛馬の背中に突き刺さった麻酔針を抜き、猛馬を床に寝かせる。最後に、猛馬が落とした拳銃を拾い上げて懐にしまった。
「猛馬さん?」
頭部は無事のはずなのに返事がない。応太は思わず猛馬の口元に手をあてて呼吸を確かめてしまったが、猛馬はちゃんと息をしている。
「生きてる、けど、もう意識がない。麻酔の効きが早すぎるんじゃ・・・屋蓑さん、これ大丈夫なの?」
応太は角から出てきた屋蓑にきいた。麻酔銃に人間用の麻酔液を入れて使うとはきいていたが、妙に効きが早い気がする。まちがって何か大型動物用の、たとえば熊用の麻酔液でも入れてしまったのではないか。
「大丈夫だ。それはおれが調合した麻酔液だからな。効きが早い分、覚めるのも早くなるように調節してある」
屋蓑は特別な麻酔液を調合してきた。事務所の近くをうろつく野良猫をせっせと捕獲して、去勢・避妊の手術をするついでに麻酔の濃度と量に関するデータを集め、慎重に調節を重ねて今日に臨んだ。濃度が高く一瞬で意識を奪うかわりに、量は少なく覚めるのが早くなるようにした。あと一時間もすれば組長は目を覚ますだろう。その間に足の治療と食事の準備を終えなければ。
「つうことで、まずは拘束だな。気がひけるがしかたねえ」
誰も攻撃させないため、自殺を防ぐためにも拘束は必要だ。もちろん銃はとりあげる。しかし、体格のわりに屈強な組長が相手では、銃をとりあげるだけでは不十分だ。屋蓑は懐から特殊な手錠を取り出した。この手錠は屋蓑が趣味で集めたSM用品で、内側にはふわふわのファーが貼りつけられている。これなら組長が手錠を抜こうと試みても手首を痛めることはないだろう。罪悪感を象徴したようなカシャンという音とともに手錠が閉じられ、猛馬の手首が拘束された。あとは指輪を抜き、手袋をはずしたら治療に移れる。
屋蓑は組長のそばに座り、背中からリュックをおろした。組長の両手から4つの指輪を抜き、黒い手袋をはずす。組長は夏場でも薄手の手袋をつけているので素手を見るのは久しぶりだ。
「なんだ。猛馬さんの手、普通じゃん。8月なのに手袋してたから、手の甲にタトゥーでもしてるのかと思ってた」
「うちの組長の趣味は温泉旅行だからな。大浴場にも入れるように、彫り物は一切入れてねえんだ。今時、極道でも彫り物してる奴は少ねえぞ」
「へえ、意外」
組長は彫り物ではなく拳だこを隠すために手袋をつけているようだが、拳だこを隠したがる理由はいまだにわからない。無事に救助できたらご本人に理由をきいてみよう。
「ねえ。なんで指輪と手袋をはずすの? 大事な物だったら怒られるよ」
「飲み込んで自殺されちゃ困るからだよ」
屋蓑にはハイムリック法の心得があるので、万が一本当に組長が指輪や手袋を飲み込んで自殺を試みても阻止することができるが、飲み込まれないに越したことはない。
「そっか。言われてみれば自殺に使えそうかも。確かに取っておいたほうがいいね」
「これはおれが預かっておくから心配するな。坊ちゃんはちゃんとそのケース持ってろ。中の銃にはさわるなよ」
「はーい」
指輪と手袋を懐にしまった屋蓑は自分のリュックから包帯を取り出し、さっそく治療に移る。見たところ、目立った外傷は右足のみ。止血してあると言っていたが、ハンカチできつめに縛ってあるだけだ。包帯さえ巻かれておらず、応急処置にもほどがある。熊倉組付の医者である屋蓑としては、組長に包帯を持たせておかなったことが悔やまれた。
「ケガにびびってるとか、痛みに弱いとか思われたくねえのはわかるが。今後はせめて絆創膏くらい持ってもらわねえとなあ」
屋蓑はハンカチをほどき、懐から出したメスで猛馬のスラックスに切れ込みを入れ、少しだけ裂いて傷口を確認した。
「こいつは銃創だな。撃ち合いにでもなったのか?」
こんな通路に武装した人間がそうそう迷い込むとは思えないが、目の前にあるのはまちがいなく射入創だ。疑問に思っていてもしかたないので反対側を確認すると、こちらには射出創があった。どうやら銃弾は貫通したようだ。下手に弾丸が体内に留まらなかったおかげで摘出の手間が省けたので医者としてはむしろ助かる。そのうえ出血は少ないので、今回の処置は難易度も緊急性も低い。だからといって油断は大敵だが。無菌室は用意できず手術道具も薬も限られている状態での処置になるので気は抜けない。
「猛馬さんの傷はどう?」
「銃創だが動脈ははずれてる。深いが出血は少ない。致命傷じゃねえが、放っておくと化膿しちまう。おれは処置に専念する。陳平、飯の支度しろ」
「へいっ。小僧、準備するぞ」
「うん。ええと、たしか陳平さんのリュックに入れたんだよね。2リットルの水は」
「ああ。うどんとコンロはおまえのほうだ」
陳平と応太は手分けして食事の準備にかかる。陳平は応太が放り出したリュックを拾い上げ、中から2リットルのペットボトルに入った水と紙コップを取り出した。応太は自分のリュックから鍋焼きうどん1個と携帯IHコンロとマジックペンを取り出し、コンロを床に置いた。コンロといっても一口なのでコンパクトだ。
「バッテリーはどこだっけ?」
「それもおれんとこだ」
陳平はリュックの底に入れてあったキャンプ用バッテリーも取り出した。これにコンロをつなげば電源が入り、鍋焼きうどんを調理できるようになる。応太はさっそくコンロをバッテリーにつないだ。
「あとはうどんをセットして、と」
応太は鍋焼きうどんを開封してからコンロの上に置き、コンロの電源を入れた。数分加熱すればできあがる。この間にゴミをまとめ、鍋つかみと割箸を取り出し、2リットルのペットボトルを開けた。水を注ぐ前に、紙コップにマジックで名前を書いておく。こうすれば紙コップを使い捨てにしないで済む。ドリンクはすべて2リットルのボトルに入っているので紙コップは必須なのだ。
「はじめは誰が食べる?」
「おまえが食え」
「え、いいの?」
「おまえのおかげでここまで来れたからな」
「ありがとう。それじゃ、できあがったら遠慮なく食べるね」
「ああ。そうしろ。アニキには話しかけるなよ」
「わかってるよ」
屋蓑は猛馬の治療に専念している。屋蓑は致命傷ではないと言ったが、猛馬が「歩けない」と言うほど深い傷だ。傷口は小さくても処置には時間がかかるだろう。痛むだけで命には関わらない傷らしいが、痛まないほうがいいに決まっている。応太としては、少しぐらい時間がかかっても丁寧に処置してほしい。屋蓑も同じ気持ちだろう。
「できた」
数分経って無事に最初の鍋焼きうどんができあがった。応太は割箸を割ってから右手に持ち、左手に鍋つかみを装着して鍋焼きうどんをコンロから持ち上げた。
「それでは。お先にいただきます」
「・・・いい匂いだなおい」
応太に背をむけて傷の処置を続けている屋蓑がつぶやく。顔を壁側にむけていても鰹出汁の香りが漂ってくる。無臭の通路で急に慣れ親しんだ香りをかいだ屋蓑は思わずコメントしてしまった。
応太は屋蓑に応えず黙ってうどんをすする。陳平から屋蓑に話しかけるなと言われている以上、なにかきかれるまで返事をするわけにはいかない。それになにより自分は床に座って熱い液体が入った容器を空中で保持して食べているので、非常な集中力を要しているのだ。はっきりいって返事をする余裕はない。再会の食事に鍋焼きうどんを選んだのは失敗だったかもしれない。
応太が黙々とうどんをすすっている間に陳平は自分の鍋焼きうどんを準備した。応太のリュックから鍋焼きうどんをひとつ取り出し、開封して一口IHコンロに乗せ加熱する。その間に、紙コップに全員の名前を書いて水を注いでおいた。
さらに数分経ってまたひとつ鍋焼きうどんができあがったが、屋蓑の作業はまだ終わっていないようだ。
「お先にいただきます」
独り言のようにつぶやいた陳平は割箸を割って右手に持つと、素の左手で無造作に鍋焼きうどんの容器をつかんだ。
「え、熱くないの!?」
「これっぽっち、熱くねえ。しょせん食いもんだろうが」
人間が口に入れられる程度の温度なら素手でさわっても火傷などしないというのが陳平の常識だ。
「つかんでるのはアルミ容器なんだけど。底面は熱源に接してたから特に熱くなってるはずだけど、まあいいや」
人生経験は少ない応太だが、人がちがえば常識もちがうことぐらいはわかっている。陳平にとって火傷しない温度ならさわっても問題ない。応太は火傷すると思ったから人数分の鍋つかみを用意しただけなのであって使わなければいけないわけではない。現に陳平は平気な顔をしてうどんをすすっている。ヤクザになると面の皮だけでなく手の皮まで厚くなるのかもしれないし、陳平は生まれつき皮膚が強いのかもしれない。
「よし、これで終わり、と」
応太と陳平が鍋焼きうどんを食べ終えてゴミをまとめていると、屋蓑の声がした。どうやら猛馬が受けた傷の処置が終わったらしい。
「ごちそうさま。お先にいただいたよ」
「ああ。こっちの処置は終わった。陳平、寝袋を用意しろ」
「へいっ」
寝袋は屋蓑のリュックに縛り付けられているので、まずはコードをほどいて寝袋をはずす。次に屋蓑のリュックをどかして寝袋を広げ、組長のそばに置いた。
「準備できたッス」
「よし。その上に組長を寝かせるぞ。そっと運べ」
「へいっ」
屋蓑と陳平は組長を床から持ち上げ、そっと寝袋の上に寝かせた。陳平は着ていた上着を脱ぎ、横たわる組長の上へ毛布のかわりにかける。
「これでよし」
「おつかれさま。屋蓑さんも、うどん食べる?」
「いや、おれが食うのはもう少し後だ。組長の目の前で食わねえと、人間だって信じてもらえねえからな。麻酔が覚める時間を見計らって調理する」
屋蓑は余った包帯を自分のリュックにしまいながら応えた。通路に漂う鰹出汁の香りに食欲を刺激されて辛いがあと数十分のがまんだ。
「わかった。今のうちに片づけとくね」
応太と陳平はゴミを片づけ、ついでに荷物を整理する。陳平が組長を背負うことになるかもしれないし、応太が猛馬に肩をかすことになるかもしれない。どちらにせよリュックの数を減らしたほうがいいので今のうちに荷物をまとめておく。鍋焼きうどんはこの通路でなくなるし、コンロとバッテリーと寝袋はここに置いていく。猛馬に再会した時点で荷物を減らすのも計画のうちだ。応太は自分のリュックに入れていたお菓子と救急セットを陳平のリュックに移した。これで荷物の整理は完了だ。
「これでリュックがふたつになったけど。猛馬さんが起きるまでまだ時間あると思うから、他にすることは?」
「そうだな。ここで出た異変のリストアップぐらいか」
「それはもうした。一年前、熊倉組の事務所から帰ってすぐに」
応太は懐から小さなノートを取り出した。普段は小説のネタ帳にしているが、この通路に遭遇してからは『8番通路記録ノート』になっている。応太はこのノートを開いて屋蓑に異変リストを見せた。
この通路の異変は多様だが、固定されている物体の数は少ないので異変といってもささやかなものが多い。通路に現れる異変のなかで攻撃性のあるものはほんの一部で、死傷するリスクがあるものは少ないのがせめてもの救いである。ただし、攻撃性のある異変には殺意があるので要注意だ。いったん攻撃性のあるものに遭遇してしまうとケガでは済まない。前回の「9番通路」に現れた屋蓑のような異変には、戦わないで済む攻略法があったのでなんとか無傷で切り抜けられたものの、他の異変にも明確な攻略法が用意されているとは限らない。真正面から撃ち殺す他ない異変もあるだろう。そういうものを見分けるためにも、自分が見た異変は書き出しておこうと思った。
「忘れないうちに書き出しておいたんだ。去年のぼくは約2週で外に出られたから、見た異変の種類は少ないけど。前回見たのは、だいたい10種類ぐらいかな」
すべての通路に異変が起きるとは限らないので、合計20本の通路を通ったからといって20種類の異変が見られたわけではない。
「それに今回の3種類を加えて、合計13種類は見たけど」
このリストにない異変もまだまだあるにちがいない。もしかすると、捕らえられた人間が想像したものが加えられているかもしれない。この通路は新たな人間を捕らえれば捕らえるほど異変のバリエーションが増えていくのだとしたら、人間が絶滅するまで強化され続け、脱出難度は上がり続けていくことになる。その可能性は考えるだけで怖ろしいので、これ以上考えるのはやめておこう。
「リストアップって言ったって、3種類書き加えたらおしまいだから、そんなに時間は・・・あ」
「っ・・・」
寝袋のうえに横たえられた猛馬が身動きした。組長が目を覚まされたらしい。屋蓑の計算よりもはるかに早いが、これはおそらく麻酔の問題ではなく組長の体質によるものだろう。組長のお体は麻酔を分解するのが早いようだ。
「・・・てめえら、おれをはめやがったな」
猛馬は横目で応太たちを睨む。通路の角から不意打ちされたと思ったら意識を失い、目が覚めたら指輪も手袋もなく、さらには妙な手錠をかけられていた。おまけに、失ったはずの組員が目の前にいる。ふざけるのもたいがいにしてほしい。
「猛馬さん、起きたね。おはよう。だましてごめんね」
ノートを懐にしまった応太が猛馬に声をかけた。猛馬はこちらに顔をむけておらず、声は弱々しかった。まだ怒りは感じていないのかして、妙に静かな態度だ。知り合いにだまされて心が折れてしまったのかもしれないが、まだ麻酔が抜けきっていないだけだと思いたい。
「ごめんで済ませる気はねえが・・・誰か、状況を説明しろ」
「はい」
真っ先に応えたのは鍋焼きうどんの用意をしている屋蓑だった。猛馬の目の前でものを食べて見せ、生きた人間だと信じてもらう必要があるのだが、うどんができあがるまで時間はある。
「まず、自分らは『外』から組長をお助けしに来ました。自分は人間ですが、出会い頭に撃たれたくなかったんで、麻酔銃を使わせてもらいました。足のお怪我の治療は済んどります」
治療は済んでいると言われてはじめて猛馬は足の傷が痛まなくなっていることに気づいた。痛まないということは本当に治療されているのだろう。治療できたなら本人にちがいない。この通路に、人間の技量まで再現できるとは思えない。
猛馬は大切な組員が生きていてくれたことに安堵した。不意打ちされたことに腹は立たない。「屋蓑のようなもの」を撃ち続けているうちに、あの顔そのものを警戒するようになってしまった。今の屋蓑は迷彩服を着ているが、それでも顔を見た瞬間、反射的に撃ってしまっただろう。それを防ぐためにああするしかなかったのは理解できる。おかげで自分は身内を殺さずに済んだ。先ほどの作戦にはむしろ感謝するべきだ。
「そうか。おまえ、『外』で生きてたんだな。よかった」
「ありがたいお言葉ですが、面目ありやせん。あの日はご一緒してたのに、組長を見失っちまって。おまけに、通路の野郎に利用されてたとは・・・」
応太の話によるとこの通路は屋蓑の外見を複製して「歩く男」に使っていたらしい。おまけにそれを変形させて組長たちを襲わせたという。時には反撃しなければならなかった組長の心情を想うと屋蓑まで辛い。
「かまわねえ。こんな通路の存在なんざ、誰も想定しねえよ」
目の前にいる屋蓑を人間だと信じてくれたのかどうか言葉だけではいまひとつ判断できないが、あの日の屋蓑を許してくれたことは確かだ。
「それより、この手錠の鍵は? 誰が持ってんだ?」
「その手錠の鍵は、自分が持っとります」
「だったら、この手錠をはずせ」
「申し訳ねえが、すぐには無理です。自殺されちゃあ困るんで。誰も殺さねえって約束してもらわねえと手錠ははずせませんし、指輪もお返しできません」
「・・・おまえ、本気で言ってんのか? 自殺なんざするわけねえだろ」
「そうですか? 誇り高い組長のことですから、通路の野郎に生け捕られるくらいなら、自死を選ばれるかもしれないと思ったんですが」
「そりゃ、おれがおまえらを通路の手先だとみなした場合の話だろ。おまえらは人間だ。味方がいる場所で自殺はしねえよ」
「それじゃ、約束してもらえます? 約束してもらわねえと何もお返しできないんですが」
「わかった。約束だ。おれは誰も殺さねえ。おれ自身も含めて。だから、手錠をはずして指輪を返せ」
「猛馬さん、先にうどん食べたら? 素手のほうが食べやすいよ」
「やかましい。おれは指輪をつけたままでも箸が使えるんだよ。屋蓑、さっさとしろ」
「はい」
屋蓑は組長のそばにしゃがみ、懐から出した小さな鍵で手錠を開いてはずした。懐に鍵と手錠をしまって薄手の黒い手袋を取り出し、組長に手渡す。組長は自ら手袋をはめた。続いて4つの指輪をひとつずつ手渡すと、これもすべてご自分ではめられた。指先まで感覚が戻っているようだ。この様子だとそろそろ箸も使えるだろう。
「で、組長、この鍋焼きうどんに関するコメントは?」
そのまま猛馬のそばに腰を下ろした屋蓑が猛馬にコメントを求めた。無機質な通路で鍋焼きうどんを調理している様は実にシュールだ。おまけに今は8月。真夏の鍋焼きうどんは季節はずれなので、それを含めてなんらかの感想を期待したのだろう。
「自販機のものじゃなければなんでもいい。それはおまえらが持ち込んだんだろ?」
猛馬はよほど空腹なようで季節はずれの鍋焼きうどんに関するコメントは得られなかったが、自販機に対する警戒心はなくしていないようだ。
「はい。組長に食べていただこうと」
「それにしても、コンロと寝袋まで持ち込むなんざ、なかなか段取りがいいじゃねえか。誰の案だ?」
「ぼくだよ。準備する時間はたっぷりあったから、よく考えたんだ」
「時間か・・・そういや、あれから何日経ったんだ?」
猛馬の言う「あれ」というのは、8番通路で応太と別れた日のことだろう。あの日から今日で丸一年経ったが「何日」という表現からして猛馬の体感ではまだ数日しか経っていないらしい。「外」とこの通路では時間の流れる早さがちがうことを教えたらひどく驚かせてしまうだろう。弱った猛馬の精神によけいな負荷はかけたくないが、事実は事実なので、応太はそのまま伝えることにした。
「一年」
「は!?」
驚いた猛馬はようやくこちらに顔をむけた。まだ麻酔が抜けきっていないのかして寝返りをうつ様子はないが、ようやくこちらを見てくれた。屋蓑の存在よりも、予想外な時間経過のほうが猛馬をより驚かせたらしい。
「い・ち・ね・ん。ぼくがこの通路から脱出した日から、丸一年経ったの。今日は2020年8月8日」
「そんな、ばかな・・・屋蓑、おまえは外から来たんだろ。こいつの言ってることは」
「事実です、組長。組長のご不在が長期化して、組員どもも疲弊しとります。なにせ、一年ですから」
「なんてこった・・・捜索願は出してねえよな?」
「まさか。これはうちの組の問題です。サツの手は借りられねえ。サツに借りをつくろうもんなら業界の笑いもんです」
「さすが、冷静だな」
「幹部会議で、全会一致で決まったことです。さすがに組長の置き手紙を無視する馬鹿はいやしません」
「置き手紙だあ? おれはそんなもん・・・さてはおまえ、捏造したな?」
「はい。勝手ながら組長の筆跡を模写しまして、『一年後に戻る』という置き手紙を・・・」
「ははははっ。相変わらず気がききすぎだなおまえは」
猛馬がはじめて笑った。少しずつではあるが、確実に回復しているようだ。
「どうも。うどんができたみてえですが、召し上がります?」
「ああ。悪いが先に食うぞ。陳平、おれを起こせ」
「へいっ。お手伝いします!」
陳平はすばやく立ち上がって組長のそばへ行き、しゃがみこんだ。
「失礼します」
陳平は組長両脇から腕をまわして背中を支え、そのまま組長の上半身を寝袋の上から引き起こした。組長にかけていた上着を回収した陳平は脇へどき、屋蓑は組長に割箸を手渡す。
「割箸ですが、どうぞ」
「本当に準備がいいな」
三人が見守るなか、寝袋の上にあぐらをかいた猛馬は危なげなくぱきりと割箸を割ってみせる。横向きに割られた箸は美しいほどに均等だった。
「はい、うどん。熱いから気をつけてね」
「ああ」
すでに手袋をはめている猛馬に鍋つかみは不要だ。応太からうどんの入ったアルミ容器を受け取った猛馬は寝袋の上でうどんをすすった。
「いい香りだ。うめえな」
「でしょ。おなかへってる時はあったかいものがいいよね」
「飯を食うのは久しぶりだ。傷よりも空腹で死にそうだったぜ」
この通路に捕らわれてからあの干し肉しか食べていないのだとすれば、猛馬はほとんど飲まず食わずだったことになる。それでも生きていたということは、やはりこの通路の中ではほんの数日しか経っていないのだ。
「そういえば猛馬さん、自販機のものは食べてないんだよね?」
「もちろんおれは食ってねえが、他の奴には食わせた」
あれだけ「自販機」を警戒して応太には何も食べさせなかった猛馬だが、他の人間には自販機のものを食べさせたらしい。猛馬は同行する相手を選り好みしたようだ。応太は猛馬に気に入られたから同行を許されただけらしい。猛馬はヤクザにしては優しい人だと思っていたが、自分より弱そうな人間に出会っても、みんな助けるわけではないようだ。
「食べさせたって、どうやって?」
「『おれも食べたが無害だった』って言うとな、たいていの奴は信じて食っちまうんだよ」
応太と別れた猛馬は自販機をみつけるたびに利用して「自販機の食べ物」を常にひとつ持ち歩くよう心がけた。自販機のものを買ったあとに出会った人間には「これは外から持ち込んだ食品だから安全だ」と嘘をつく。自販機のものを買う前に出会った人間が同行していたら、目の前で自販機を利用してみせる。そして「おごってやる」「自分も食べたことがある」「無害だ」と言って手渡す。どちらにせよ、猛馬の言うことを信じた人間は自販機のものを食べる。
「食べさせた人はどうなったの?」
「詳細はわからねえが、通路に取り込まれたんじゃねえか? みんな、食ったとたんに気絶してな。気絶した奴を放置して次の通路に進んだら、『歩く者』になって現れたぜ」
「すごい! 猛馬さんの予想通りじゃん!」
猛馬の「通路が生成した物体を摂取すると取り込まれる」という予想は当たり、応太の「通路が趣向を変えて毎度ちがう者を歩かせることにした」という予想は外れた。いつもちがう者が歩いていたのはこの通路が趣向を変えたからではなく、猛馬が自販機を多用したのが原因だったのだ。
「おまえも見たんじゃねえか? 『歩く男』が最初の『おじさん』じゃなくなってるのを」
「うん。見たよ。でも、原因がわからなくてさ。さすが猛馬さん。自販機の食べ物を妨害アイテムとして使うなんて、発想がゲーマーだね!」
「おまえは本物のヤクザを引き連れて、この通路の獲物を横取りしに来たんだぞ。むしろ、おまえの発想がヤクザだろ」
「そうなのかな? 屋蓑さんには勇気があるって言われたけど」
応太は横目で屋蓑を見た。応太と猛馬が話している間に鍋焼きうどんを調理し終えた屋蓑が、うどんをすすりながら応える。
「それとこれとは別だぜ坊ちゃん。どんなに勇気があっても、この通路に適応できる人間はそういねえ。おまえはな、ヤクザっつうより、変な奴なんだよ。好奇心は猫を殺すっていうだろ。程々にしとけよ」
猫は九つの命を持つというが、その命を使い果たしてしまうほど、好奇心は危険なものである。ましてや、命がひとつしかない人間ならどうなることか。たった一度好奇心を働かせただけで死ぬかもしれない。この通路を再訪することはまさにその典型だろう。
「大丈夫。今が、人生で一番危ないから。ここより危険な場所なんかないよ」
「言われてみりゃ、人生最大の危機は今かもしれねえな。この通路のなかにいるほうが、銃撃戦よりも危ねえ」
歴戦の組長だからこそおひとりでも7番通路まで生き残れた。そして、このメンバーだからこそ、ここまで助けに来られたのだ。経験者でありながら危険な通路を再訪しようとするおかしな青年と、怖いもの知らずの極道がふたり。三人がかりで道具や武器をそろえて挑み、やっとここに着いた。この通路は、並の人間がろくなサバイバル用品も持たずに耐えられる場所ではない。通路に現れる動物は銃で殺せなかった。床から浮上してきたワニの頭に銃弾を何発か撃ち込んでもしとめられなかったのだ。銃を使っても、着弾の衝撃で足止めするのがやっとだった。丸腰なら、はじめの一周で脱出しなければ命を落とすだろう。
「逆に言えば、外に出られさえすれば大丈夫。まともな空間に出られれば怖いものなんかない。そうでしょ?」
「ああ。組長さえお戻りになれば、熊倉組の消滅は防げるからな。この通路の外に、怖いものはねえ」
警察も同業者も脅威ではあるが恐ろしくはない。ただ警戒し、攻撃の気配を察知したら反撃すればいいだけだ。己の死さえ怖れなくなれば、極道が他に怖れるものはない。
「要するに、おまえらがおれを助けに来たのは、熊倉組のためなんだな?」
猛馬は空になった鍋焼きうどんの器に割箸を入れ、陳平に渡しながら確かめる。義務感だけでここまで来られるわけはないのだが。
「それはもちろんですが。何より、心配でして。どっかの変態にでも捕まっちまったんじゃねえかと思ってやした」
「生きててくだすって、ほんとによかったッス!」
陳平は涙ぐんだが、それでもてきぱきと組長から渡された物を片づけた。
「まあ、相手が人間じゃなかったのは想定外でしたが。殺人鬼の隠れ家どころか、生きた通路だとは・・・早いところ脱出して、宇治崎を潰しやしょう。これを見てください」
屋蓑は懐からトランプのカードを一枚取り出し、組長に手渡した。渡したカードの絵柄はスペードの10。金色の文字で「ウジサキ」と書かれている。
「これは・・・」
「応太が持ってたトランプの一枚です。筆跡からして、組長が書かれたんでしょう」
「ああ。おれが、この通路で書いたんだ。応太が寝てた間に」
「そうですよね。それじゃあ、このウジサキってのは、宇治崎一家のことでしょう。スペードに書かれているのは、潰したいからですよね?」
「その時は、たしかにそう思ってたんだが。抗争はおれの性に合わねえ・・・かといって、あいつらのいる世界に帰るのも・・・」
やっと身内に再会したというのに、なぜか猛馬は外の世界へ帰ることに消極的だ。ここはひとつ、帰って確かめたくなるほどの朗報を伝えるべきだろう。
「猛馬さん。ぼく、お兄さんのステッキみつけたんだよ」
「なんだって?」
「ほら、これ、証拠の写真。骨董屋さんの前で撮ったんだよ」
応太は骨董屋の店先で撮った写真を猛馬に手渡した。店主と応太が並んで立っており、応太の手には鷲のステッキが握られている。いかんせんありふれたデザインのせいで兄のステッキだという確信は持てないが、応太の言葉を信じるのならこれは狼範のステッキなのだろう。
「そろそろお盆だし、これ持って、お兄さんのお墓参りに行こうよ。ぼくも一緒に行くからさ。ね?」
「屋蓑、このステッキは確かめたか?」
素早く鍋焼きうどんを食べ終えた屋蓑は割箸を入れた空き容器と紙コップを陳平に渡しながら応える。
「はい。鷲をはずしたら、合い言葉が彫ってありやした。先代がお持ちになってたステッキにまちがいありやせん」
「そうか。応太、よくやった」
「みつけたのはぼくじゃなくて、店長さんだけどね」
応太がちらりと陳平を見ると、早くも屋蓑から受け取った物を片づけ終えていた。
「屋蓑。このステッキは今、どこにある?」
猛馬は一応ほめてくれたがすぐに話を変えてしまった。応太としてはもっとこのステッキに興味を持ってほしい。せめて「この店はどこにあるのか」「この店主は知り合いなのか」「どうやってステッキをみつけたのか」くらいはきいてほしかったが、元々このステッキは熊倉組の物だ。依頼を受けただけの部外者が口を出すことはできない。
「事務所の金庫にしまってありやす」
「それじゃあ、後継者を決めねえとな。組ごと継がせる」
猛馬は応太から受け取った写真を懐にしまい、屋蓑に指示を出す。
「墓参りは幹部だけで行っておけ。次の組長は・・・」
「今ここで次の組長を決めるのは、時期尚早でしょう。ここでお伝えされても、他の幹部が納得しやせん。一度お戻りいただきませんと」
「確かに、指名した証拠が残らねえのはよくねえな。一筆書くか」
「いや、そういう問題じゃ・・・それに、結婚式にも来ていただきたいんで」
「結婚式? 誰のだ?」
「自分と花代のです」
「そういやおまえ、どこかのナースと婚約したって言ってたな。籍を入れたのか」
「はい。入籍だけして、披露宴は待ってもらってまして」
「屋蓑さん、新婚だったんだ!?」
「なのに、こんなところまで乗り込んで来やがったのか。ミイラ取りがミイラになるかもしれねえってのに。酔狂な野郎だな」
屋蓑は「組長に仲人をお願いしたい」と言おうとしていたのを飲み込んだ。いや、飲み込んでしまった。先ほどから、助けに来た身内に対して感謝も怒りも感じられない。元から少々のことでは動じないお方ではあったが、平常心を保つにも限度がある。これはご本人が平常心を働かせているのではない。この通路に感情を吸い取られているのか、あるいは抑え込まれているのか。いや、ここはもっと単純な理由を想定するべきだろう。我らが組長はあまりにもお疲れなのだ。「外」へ連れ出してお休みいただければ、自分たちが見知った組長に戻られるにちがいない。
我らが組長は兄貴の墓参りにも、幹部の結婚式にも気乗りしないらしい。そこで陳平は、初めて猛馬と狼範に会った時のことを話すことにした。熊倉兄弟への感謝を伝えて「恩返ししたいのでお戻りいただきたい」と言えば、組長の気が変わるかもしれない。
「組長、初めてお会いした日のこと、覚えてらっしゃいます?」
「どうした急に。6年前だろ?」
「それは、熊倉組に入れてもらった日ッス。実は、もっと前にお会いしてるんス」
「もっと前だと? それより前じゃ、おまえはまだガキだろ」
「はい。初めてお会いしたのは、おれが小学生の時でした。13年前のことッス」
昼休みに学校を抜け出して遊ぶのが習慣だった陳平が、いつも通り校門を乗り越えて外へ出た時に、不審な男をみつけた。その男はなぜか塀のふちに手をかけており、おまけに何か口にくわえていた。よく見るとそれは包丁だった。当時12歳だった陳平は直感的に悟った。この男は校庭へ侵入しようとしていて、外で遊んでいる下級生を狙っているのだと。この男の侵入を見過ごせば下級生たちがめった刺しにされてしまうだろう。この時、陳平は判断に迷った。もう一度校門を乗り越えて体育の先生を呼んでくるか、それとも、自分がこの男を取り押さえるか。陳平が迷っている間に男は右足を塀のふちに乗せてしまった。もう時間がない。この男に侵入されたらひどいことが起きる。6年生のなかでも体格に恵まれており筋力に自信があった陳平は、ひとりで男を取り押さえることにした。包丁で刺されることも覚悟して男に駆け寄る。そして男の左足をつかんで力いっぱい引っぱったが、問題はここからだった。大人にしてはやせっぽちで弱そうに見えた男は意外と力が強く、陳平に引っぱられていることに気づいても塀にしがみついていた。陳平の両腕と男の左足の力は拮抗し、両者とも塀から離れられなくなってしまった。持久力を考えると陳平のほうが不利だ。このままではいつか手を放してしまい、男に侵入されてしまう。ここは通行人に助けを求めるべきだが、陳平のいる歩道に歩行者の気配はない。誰かが通りかかるまで持ちこたえられるか不安になっていた時、車道に車の止まる気配がした。
止まった車の運転席から降りてきたのは現組長の猛馬で後部座席から降りてきたのが先代の狼範だったことは、陳平が熊倉組に入ってからわかったことだ。当時の陳平にはふたりとも見知らぬ男だったが、自分を助けようとしてくれていることはわかった。陳平が見たこともないほど巨体の狼範は無言で陳平を押しのけ、男の左足をつかんで難なく塀から引きずり降ろした。続いて地面に降ろした男の首を鷲づかみする。首を握られた男はあっさり気絶した。どうやら握力だけで窒息させたらしい。狼範は気絶した男を引きずっていき、車のトランクに押し込んだ。猛馬は気絶した男が落とした包丁を拾い、陳平に「ケガはねえか」と声をかけた。陳平にケガがないことがわかると猛馬は「ひとりでよくがんばったな」と陳平の頭をなでてくれたのだ。運転席に戻った猛馬はトランクに男を詰め込んだ車を発進させ、金色のマークをつけた黒塗りの車は、交差点を曲がって姿を消した。
「13年も前のことなんざ、すっかり忘れてたぜ。おまえ、あの時のガキだったのか」
「へいっ。あの野郎をとっちめてくだすったこと、今でも感謝してるッス! おふたりとも、おれの恩人ッス!」
「それでか。高校を出たばっかりのおまえが、いきなりうちの組に入りてえなんて言ってきたのは」
「そうッス。おふたりの車についてた印は覚えてたんで。あとで見たニュースで、熊倉組の印だってわかったんス」
あとで見たテレビのニュースによると、トランクに押し込まれた男は病院の前に転がっているのがみつかったらしい。生きてはいたが、包丁が腹に突き刺さっており失血死する寸前だったという。病院の監視カメラの映像には、熊倉組の車が止まり、運転席から包丁を持って降りてきた男がトランクを開け、男を引きずり出し、包丁を腹に突き刺してから置き去りにする様子が映っていた。このニュースのおかげで陳平はあのふたりの正体を知ることができたのだ。
あの日、陳平は決意した。今からしっかり体を鍛えて、高校を出たら熊倉組へ入れてもらおうと。
「おれは、宇治崎一家のことは何も知らねえで熊倉組に入れてもらったんス。おふたりに恩返ししたかったもんで。あんときゃあ、本当に、ありがとうございやした!」
あぐらをかいた陳平は両手の拳を床につけ、深々と頭を下げた。
「そうか…顔をあげろ。大きくなったな。えらいぞ」
「へいっ。ありがとうございます!」
「そんだけ大きくなりゃ、もうおれがいなくても…」
「組長! おれ、先代と約束したんスよ! 組長の付き人になるって! 組長が引退されても、御髪が真っ白になるまでお供します!」
応太は陳平が「御髪」などという品のある言葉を使ったことに驚いたが黙っていた。応太は小説家志望なのでつい言葉や表現に反応してしまうが、今は「そんな上品な言葉どこで覚えたの?」なんてきいている場合ではない。猛馬の心を動かせるかどうか、真剣な状況なのだから。
「おれに黙ってそんな約束してやがったのか。本当に、困った兄貴だな。思えば昔っから、何を考えてるのかよくわからねえ野郎だったぜ。おれの心配してるんだかしてねえんだか」
下っ端の陳平にまで猛馬のことを頼んでいたということは、狼範は密かに猛馬を心配していたのだろう。そのくせ熊倉組の2代目組長に弟を指名したのだから恐れ入る。猛馬を次の組長にするつもりだったからこそ、組員たちに猛馬を支えるように頼んだのだろうが。
「陳平。よく聞け」
「へいっ」
「誰かに憧れて『自分もあいつみたいになりたい』と思うのはいい。そういう気持ちは人を成長させる。だがな、『ずっと一緒にいたい』と思ってるだけじゃ成長しねえぞ。おれは、おまえの枷にはなりたくねえ」
今まで陳平に注意することといえば具体的な作業に関することばかりで、こんなに抽象的で説教臭いことは言ったことがない。しかしこれが最後になるかもしれない今、伝えないわけにはいかなかった。
「だからって、猛馬さんがここに残るのはちがうでしょ。陳平さんは他の目標を持つべきだって点には同意するけど」
「いっぺんお戻りいただけませんかね。野郎どもがさみしがっとりますんで。ご面倒でしたら、墓参りも結婚式も、組長ぬきで済まします。ですからどうか・・・」
「一年経ったって言ったな。去年の集会はどうした?」
「自分が代理で出席しやした」
「今年の祭の手伝いと、野良猫どもの捕獲は?」
「どっちも順調に進んどります。秋祭にむけて、テキ屋どもの配置を終えやした」
「あの地区の祭って、熊倉組が仕切ってるんだ。おまけに、野良猫の駆除までしてるの?」
「ああ。事務所がある地区の祭は、15年前からうちが仕切ってる」
「野良猫は駆除じゃねえ、捕獲だ。殖えないように手術してから、元の場所に戻してんだよ。目印に耳を切ってな」
捕まえた野良猫には麻酔のデータをとるための実験台になってもらった。屋蓑の実験台になり腹を開かれ繁殖できなくなっても、生きて元の場所に返されるほうがいいだろう。保健所で焼却炉に放り込まれて生きたまま焼かれるよりは。
「そういう猫、見たことある。たしか、桜猫っていうんだよね。暴力団なのに、意外と地域に貢献してるんだ」
実を言うと屋蓑は獣医師資格を持っていないうえに、捕まえた野良猫は実験中に何匹か死なせてしまったのだが、応太が猫派だと面倒なのでそこまでは説明しない。
「暴力団も地域の一員なのは変わりねえからな。近所づきあいは大切だ。野良猫のほうはボスを残すばかりでな。あいつさえ捕まえりゃあ・・・」
「なんだ。おれがいなくてもうまくやってるじゃねえか。べつにおれが戻らなくても・・・」
組長の態度は消極的を通り越して拒絶の域に入りつつある。下手にこのまま会話を続けると、組長は次々と「熊倉組に自分が不要な理由」をあげるだろう。屋蓑と陳平の手札は尽きた。不本意ながら、あとはもう応太に任せるしかない。
「応太、頼む」
「わかった。バトンタッチだね」
応太は思った。哀れなことに猛馬は自分を見失いつつあるのだと。これ以上この通路に放置しようものなら、所属どころか自分の名さえ忘れてしまうかもしれない。どう考えても「ここに残していく」などという選択肢はない。しかし本人には、本来の居場所へ帰る気がない。
ならば、この「通路」の外へ出る動機を与えればよい。そのためには、猛馬から今より信用される必要がある。まずは共感を示そう。
「まあ、外へ出たくない気持ちはわかるよ。ぼくだって、猛馬さんに助けられてなかったら、自分の家に帰る気にはならなかったかもね」
応太は外に出た瞬間に思った。世界とはなんと広く、現実とはなんとやかましいものかと。すぐにあの「通路」に戻りたくなってしまった。ほんの一瞬で世界の広さと雑音の多さにうんざりしたのだ。駅の構内はだだっ広く、歩く人間は多すぎて、テナントの店は各々が好き勝手に音楽をかけている。同じ駅の内だというのに統一感の欠片もない。あの白くて静かな通路が恋しくなってしまうほどに、世界は混沌として見えた。
「それでも家に帰ったよ。猛馬さんに助けられたし、母さんが心配してるだろうし」
応太の母は脳の機能障害を患っており、記憶が持続しないことがある。あまり長く家を空けていると現在の応太を認識しなくなってしまい、記憶のなかにある小学生の応太を探しに行ってしまうかもしれない。そのうえ自分の家まで忘れてしまったら大変なことになる。息子を探して行方不明になられたらたまらない。そもそも応太の外出に気づいていない可能性もあるが、意識がしっかりしているなら「息子の帰りが遅い」と心配しているだろう。今はとにかく家へ帰るべきだと思った。
「猛馬さんとぼくでは事情がちがうのはわかるよ。熊倉組には子供もお年寄りもいないだろうし」
「ああ。うちの組員には若い奴が多いからな。おれが最年長だ。だからこそ、そろそろ代替わりを・・・」
「まあまあ、最後まできいてよ」
幸いにして応太が出た場所は家の最寄り駅で、いつも利用しているところだった。勝手知ったる通路を歩き、地上へ出て家へむかう。地上にあるものの多さにうんざりして視線を上げると、夜空に星が瞬いているのが見えた。美しい星々を見てようやく「あの通路から出てよかった」と思えた。
「きれいだよ、夜空」
「そういや、久しく星なんぞ見てねえな」
「でしょ。ヤクザの人って夜に活動してることが多そうだから、星なんか見てないだろうなって。今は8月だから、夏の大三角と、獅子座と乙女座が見られるよ」
「星座にゃあ興味はねえな。あれは天体オタクの趣味だろ」
「もう。せっかくの風物詩なのに」
猛馬の興味を引くことはできなかったが、応太の話はきいてくれている。あともう一押しだ。ここに残されたら一生見られないものがあることを思い出させよう。「外」には夜空よりもはるかに魅力的なもの、見逃せば生涯後悔するものがある。
「猛馬さん、他人のために帰る気はないんだよね。だったら、自分のために外へ出るのはどう?」
「自分の、ために?」
応太の言葉に猛馬は心底ふしぎそうな顔をしている。組長という立場上、常に組員たちのことを第一に考えてきたのだろう。自分のことは後回しにするのがくせだったのかもしれない。ヤクザというとどうしても自己中心的な人物を思い浮かべるが、実際のところ本当に自分ひとりのことしか考えていないヤクザは少ない。これはここ一年のつきあいで学んだことだ。どこかの組に属している者はみな、自分の組を大切に思っている。もしかしたらその気持ちは、会社員の愛社精神を凌駕するものかもしれない。それを知っている応太からすると、猛馬の組長らしからぬ自暴自棄な態度は異常だ。
だからこそ応太は伝える。我らが永遠のアイドル、いや、生きた女神「あせとんちゃん」ことA-setのことを。そして、ネットアイドルの彼女が初めて現実の舞台に立てるかもしれないことを。応太は確信している。猛馬は、必ずこの話題に食いつく。
「そう。自分のために。たとえばあの、金庫のなかの女神に会うために」
「金庫の女神だと? おまえ、うちの金庫のなかを見たのか?」
「うん。あのステッキをしまう時にちょっと見えたんだよ。桃色の髪の女神像が」
あの「女神像」の正体は、ネットアイドル「A-set」を象ったフィギュアだ。それを猛馬が持っていたということは、以前の猛馬はあせとんちゃんのファンだったはずだ。
「おまえ、あの像のモデルを知ってるのか?」
猛馬はあせとんちゃんの存在そのものを思い出したわけではないようだが、少なくとも自分が金庫にしまったフィギュアのことは思い出してくれたらしい。あせとんちゃんの存在を忘れてしまったばかりにあのフィギュアの正体がわからなくなってしまい、なぜ自分があんな物をわざわざ金庫へしまったのか疑問に思ったようだ。その疑問を応太が解いてやればいい。
「うん。よく知ってるよ。ぼくもファンクラブに入ってるし」
「ファンクラブがあるのか。ってことは、あの女神は」
「実在してる。あの女神の正体は、人間の女の子だよ。名前はA-set」
「その名前、どこかで見たな・・・」
「ネットのどこかで見たんだと思うよ。彼女はネットアイドルなんだけど、正式名よりも通称のほうが有名なんだ。その通称は、あせとんちゃん」
「あせとん、ちゃん?」
猛馬が自らその名を口にした時、驚きに目を見開いた。その名は自分にとってとても大切な存在を表すものであったにも関わらず、今さっきまで完全に忘れていたことに気づいたからだ。
猛馬はさらに何度か小声で「あせとんちゃん」とつぶやいた。
「そうだ、あの像は・・・限定品のフィギュアじゃねえか!」
金庫にある女神像の正体は、猛馬が職業を偽ってまでファンクラブに入会して注文した、受注生産品のあせとんちゃんフィギュアだ。無事に現物が自宅に届いた日は、組員たちが初めて自分の誕生日を祝ってくれた日と同じぐらい嬉しかったのを思い出した。
「その通り! あのフィギュアはぼくも持ってるけど、一般には流通してない。なぜなら、ファンクラブのメンバーしか注文できないから」
応太もまったく同じフィギュアを持っているからこそ、猛馬もあせとんちゃんファンだと予想したのである。あれだけ流通経路の限られた物を持っているのはファン以外にありえない。したがって、猛馬もあせとんちゃんのファンだろう。この予想は見事に的中し、猛馬はあせとんちゃんの存在と、彼女の熱烈なファンであることを思い出してくれた。
「そんなモンがなぜうちの金庫に?」
屋蓑がもっともな疑問を呈したが、猛馬はまったく動じない。
「大事なもんは金庫にしまうべきだが、おれの家には金庫がない。事務所には金庫がある。したがって、大事なもんは事務所の金庫にしまうことになる。当然だろ」
「さすがは猛馬さん。まったく破綻のない論理展開だね!」
屋蓑は「論理が破綻していないのはそもそも論理になっていないからではないか」という新たな疑問を持ったが、我に返りつつある組長に反論するわけにもいかない。ここはまず「あせとんちゃん」とやらのことをきくべきだろう。
「あれが組長の大事なモンなのはわかりやしたが。その、あせんとんちゃんとやらはいったい・・・」
「おまえに話すことじゃねえ」
「ぼくの説明、きいてなかったの? ネットアイドルだってば」
組長にはぴしゃりとはねのけられ、応太にはあきれられてしまった。屋蓑としてはそんなに非常識な質問をしたつもりはないのだが。
「やっぱり、猛馬さんもあせとんちゃんのファンだったんだね」
「ああ。完全に忘れてたがな。思い出させてくれて助かったぜ。ありがとな、応太」
「どういたしまして」
「さっそくだが応太、なにかあせとんちゃんのニュースは?」
「半年後にライブできるかもしれないって、事務所の人が言ってたよ」
「かもしれないってのは、どういう意味だ」
「今はまだ、ファンクラブの会員数が足りなくて。会場はおさえたけど、ファンの数が10000人を超えないとライブしないんだってさ」
「たしか、今の会員数は5000ちょっとだったな。ということは、半年で倍になればいいわけか」
「そういうこと。ファンが10000人になったら、あせとんちゃんのリアルライブが見られるよ!」
「そうか…そこまできいちまっちゃあ、帰らないわけにはいかねえな! こうなりゃ、うちの組と極道界にあせとんちゃんを布教してやる!」
「組長、布教といっても、うちには神棚が…氏神様がなんとおっしゃるか…」
「安心しろ。あせとんちゃんの存在は、まちがいなく善だ。よって、あせとんちゃんを応援することは、絶対に正しい。したがって、なにも問題はねえ!」
「確かに。あせとんちゃんは、そこらの神さまよりも尊いからね。ぜひ布教してほしいな」
あせとんちゃんとやらのことをまったく知らない屋蓑と陳平は完全に会話から置いてきぼりになっており、自分たちにはよくわからない理由で急激に組長が回復したように見える。応太に感謝するべきかどうか微妙なところだが、とりあえず組長が帰る気になってくれたことは喜ばしい。組長の気が変わらないうちに外へ連れ出そう。
「となると、ここでくたばるわけにゃいかねえ。応太、肩をかせ。ここからは自分で歩く」
「わかった。ちょっと待ってね」
応太が猛馬の隣にしゃがみ、猛馬に肩をかす。
「立つよ。しっかりつかまって」
ふたりが立ち上がる。屋蓑と陳平も立ち上がってそれぞれのリュックを背負った。
「屋蓑、おれのチャカを返せ」
「はい。陳平、お返ししろ」
「へい」
陳平は懐から猛馬の拳銃を取り出して組長に手渡した。それを受け取った猛馬は、両手を使って安全装置をはずす。
「このチャカの弾は?」
「装填してあります」
「気がきくじゃねえか。残弾は一発しかなかったんだ。助かったぜ」
「へいっ。多めに弾を持ってきてよかったッス」
「よし、行くぞ」
救助隊の三人がうなづく。屋蓑と陳平は拳銃をかまえた。応太は猟銃のケースを背負ったが、リュックはここに置いていく。ここは7番通路で、残る「まちがいさがし」はあと2回だ。今なら物資を減らしても問題ない。
四人は7番通路に入った。ポスターを3枚数えたところで奥から足音が聞こえてくる。5枚数えたところで「歩く者」が姿を現した。この通路の「歩く者」は屋蓑の姿をしているが、屋蓑自身がこの「歩く者」を見るのはこれが初めてだ。
「あれが、組長を襲った野郎ですか。確かに、自分に似とりますね」
「ああ。おれはもう慣れたが、おまえは初めてか」
「はい。ですが、自分が撃ちます。組長は弾を温存してください」
「わかった。ただし、まごついたらおれが撃つからな」
「はい」
ふたりが話している間に屋蓑の姿をした「歩く者」が近づいてきたが、すれちがわなかった。立ち止まったうえに、珍しいものを見るような目でこちらを見ている。歩く者が感情を見せるのは初めてだ。
「ひい、ふう、みい、よ。ずいぶん人が多いな。珍しい」
なんと「歩く者」が口をきいた。声も言葉遣いも屋蓑によく似ていて、動作は自然だ。はじめに同行していたのがこいつなら猛馬がだまされたのも無理はない。
この「歩く者」には話すだけでなく人数を数えられる程度の知能があるらしい。応太は、もしかしたら初めて歩く者と会話できるのではないか、この通路の由来や構造について「通路」自身からききだせるのではないかと期待した。しかしその期待は「歩く者」の言葉で霧消する。
「4人たあ、多すぎるな」
そうつぶやいた「歩く者」が懐に手をつっこむ。その瞬間に屋蓑が発砲し、見事「歩く者」の眉間を撃ち抜いた。
「判断はやすぎない!? よく自分そっくりの奴が撃てるね・・・屋蓑さん?」
「・・・っ」
屋蓑の肩が震えている。さすがに自分そっくりのものを撃つのは辛かったのだろうか。
「すみません、組長・・・まさか、こんなことになってるとはっ」
屋蓑が猛馬に謝っている。自分のようなものを撃つことが辛かったのではなく、自分そっくりなものが組長を傷つけていたことに罪悪感を持ったらしい。
「おれの足を撃ったのもそいつだ」
「歩く者」が懐に手をつっこんだ時点で予想できていたが、やはり猛馬の足を撃ったのは「屋蓑のようなもの」だった。先ほど「歩く者」が懐に手を入れたのは何か武器を取り出そうとしていたからだろう。
「申し訳ねえです…」
「おまえのせいじゃねえ。よくやった。戻るぞ」
四人は猛馬に合わせてゆっくりと向きを変え、入ってきた角に戻って左折した。番号表示板を確認すると「8」になっている。
「よし、あと1回だな」
「うん。猛馬さん、まだ歩ける?」
「ああ。前の通路で休んだからな。麻酔のおかげで眠気がなくなった」
「そうか。あそこで仮眠したの、ぼくだったから…猛馬さん、眠れてなかったんだね」
「ああ。おれも歳だな。腹が減るより眠れないほうがこたえる。ついでに寝られて助かった。悪くない作戦だったな」
「屋蓑さんの案だよ。自分は撃たれないし、傷の治療ができるから一石二鳥だって」
「そうか。さすが幹部だな。頭がまわる」
「ありがとうございます。足の具合はどうです? 歩いても痛みませんか」
「痛みはねえな。相変わらずおまえは腕がいい」
「恐縮です」
「次が最後だ。行くぞ」
「待って! 猛馬さん、あれ見て!」
応太が指さしたのは、通路の半ばに置かれたリュックだった。応太と猛馬には見覚えのあるリュックだ。おまけに、よく見れば近くに葉巻の吸い殻が落ちている。
「あれは、まさか。おれが捨てた吸い殻か?」
「それと、ぼくのリュックだよ! 前の周回で、ここに置いていったやつだ!」
「じゃあ、ここは」
「きっと、前と同じ通路なんだよ」
「ということは、この8番通路は・・・」
「あの氷柱が出る通路かもしれない」
「氷柱ってのはあの、異変リストにあったやつか? 坊ちゃんの話にも出てきたな」
「うん。屋蓑さんと陳平さんは見たことないよね」
応太は二人に「氷柱」の異変について説明した。尖った氷柱のようなものが床から天井にむけて急に生えてくること。生えてくる時は無音であること。連続で生えてくること。太さと高さは不定であること。
「おまけにすごい早さで生えてくるから、見てから避けるのは無理だと思うよ。逃げ遅れたら串刺しになる。猛馬さん、走れる?」
「痛みはないが、無駄にダメージは貯めたくねえな。陳平、おれをおぶえ。そのリュックは捨てろ」
「へい。中身の銃と弾はどうします?」
「持てるだけ持って、残りは置いていけ」
「わかりました」
陳平は急いでリュックを背中から降ろした。メインの荷室を開き、中に入れていた予備の銃弾をズボンのポケットへ、拳銃一丁は懐に移す。応太には悪いが救急セットと菓子はここに置いていく。傷の治療に必要なものは屋蓑のリュックに入っているので、このリュックを捨てても問題ないだろう。
「準備できました。組長、どうぞ」
陳平は猛馬の前でしゃがんだ。猛馬は右手に持っていた拳銃を懐にしまい、陳平は再び猛馬をおぶって立ち上がった。
「悪いな」
「いいえ。戻る時は走りますんで、気をつけてください」
「わかった。これで準備できたな」
「うん。みんな、分断されないように気をつけて。横一列で行こう。床の変化に注意してね」
屋蓑と陳平がうなづく。まちがいさがしはこれで最後だが、あらかじめ「異変」の内容がわかっていればクリアしやすい。通路の半ばまで進み、例の「氷柱」を認識したらすぐさま通路を戻ればいい。ただし、全速力で。
四人は気を引き締めて8番通路に入った。通路の「奥」に着くまで、床に注意しながらゆっくり歩く。ポスター5枚の前と通りすぎるとまた「屋蓑のようなもの」が現れたが今度は足を止めず何事もなくすれちがい、四人の警戒心が強まる。この通路の異変は歩く者に関するものではないことがわかり「氷柱」の可能性が高まったが、それでも、明確な異変が起きるまでは進み続ける。
「止まれ!」
直感に従って叫んだのは猛馬だった。救助隊の三人が7枚めのポスターの前で足を止めると、目の前に3本の「氷柱」が突き出した。やはり、以前見たあの「氷柱」だ。横一列で進む一行を分断するのはあきらめたのか、この「氷柱」は天井に達していない。分断ではなく不意打ちのために生えてきたようだが猛馬に感づかれ、誰にも刺さらなかった。
「戻れ!」
猛馬の号令で三人は全速力で通路を引き返す。一度走りだしたら、番号表示板の前に着くまでけっして立ち止まってはならない。逃げ遅れたが最後、背後に迫っている「氷柱」に追いつかれ串刺しにされてしまう。
走る三人はなんとか通路の「手前」まで来て、無理やりに角を曲がった。
「あぁ、もう! ここまできて走らせないでよ!」
無事に番号表示板の前に着いた応太はうつむき、肩で息をしながら文句を言った。幸いにして猟銃のケースは落とさなかったが全力で走らされると息があがってしまう。
「みんな、いる!?」
応太は顔をあげてまわりを見た。以前の周回では、ここで猛馬とはぐれてしまったのだ。
「ああ。全員いる」
陳平の背にいる猛馬が応えた。猛馬を背負った陳平も、リュックを背負った屋蓑も無事だ。
「うん。みんないるね。よかった・・・」
気が抜けた応太は通路の床にへたりこんだ。
「応太!」
隣にいた屋蓑がしゃがみこみ、うつむいた応太の顔をのぞきこむ。応太の体調が急変したのかもしれないし、先ほどの「氷柱」で足を負傷したのかもしれない。どちらにせよここは医者の出番だろう。
「だ、大丈夫。ちょっと、気が、抜けた、だけ。深呼吸、するから、待って」
「わかった。顔色には問題ねえな。足は痛まないか?」
「どこも、痛くないよ。息を整えたら、行こう。あとは、出口まで、行くだけ・・・」
「応太。残念だが、そうはいかなくなった」
『へ?』
猛馬が発した予想外の言葉に三人は間の抜けた応えを返してしまった。
「陳平、降ろせ」
「へ、へいっ」
陳平はとりあえずしゃがんで組長を背から降ろしたが、先ほどの言葉の意味はまだわからない。組長は何が言いたいのだろうか。
「応太、これ、読んでみろ」
「う、うん。ちょっと待って」
屋蓑の手をかりて立ち上がった応太は、猛馬が指さしているものを確認した。それは黄色い番号表示板ではなく、通路のルールが書かれた銀色の案内板だ。4行にわたって書かれていたはずのルールが、なぜかたった1行になっている。
「あれ、一行だけ?」
「ああ。読んでみろ」
「えーと。9番出口から外に出ること・・・9番出口!?」
「9番だと!? 話がちがうじゃねえか小僧! どうなってやがる!?」
「応太を責めるんじゃねえよバカ野郎。ルールを変えやがったのは応太じゃねえ。通路の野郎だ」
「組長。表示板の番号も、9番になっとります。この先に出口があるんですかね?」
「そのはずだが、確証はねえな。わかってるのは、9番通路には極端に危険な異変が出るってことだけだ。皆殺しを狙ってるのかもしれねえ」
「なんでだよ! ここまで来たのに! なんで、うまくいかないんだよ!」
叫んだ応太は拳を案内番に叩きつける。自分の半生でここまで他人に頼られたことはなかったし、自らの意志で「成功させたい」と心から願ったことは他にない。大学受験さえ、真剣に向き合わなかった。大学は「できるだけ勉強せずに入れるところ」を基準に選んだから愛着はなかった。愛着はなかったから、退学したって平気だった。高校を卒業してからこっち、応太がやり遂げたことなどひとつもない。それでも、いや、だからこそ、この救出は成功させたかったのに。
「こんなに頼られたことなかったのに。なんで、真剣にしたことなのに、うまくいかないんだよ・・・」
涙が応太の頬をつたう。怒りはすぐに収まったがこの悲しみはしばらく留まりそうだ。
「応太」
見かねた屋蓑が声をかける。屋蓑は応太の実年齢を知っているが、今、目の前で泣いている応太はせいぜい高校生にしか見えない。大人としては泣きじゃくる子供を慰めてやるべきだと思ったが、かける言葉はまだみつからない。
「さっきは悪かったな、応太」
陳平が初めて応太を名前で呼んだうえに、素直に謝った。猛馬も屋蓑も、陳平が一度怒鳴りつけた相手に謝っているのは初めて見る。陳平は応太のことを「不気味で妙に肝がすわっている奴」と思っていたが、この印象が実体とはかけ離れていることに気づいた。応太の心は実年齢よりも幼く、その実体は好奇心が旺盛なだけの少年にすぎない。
「もうやだぁ・・・」
応太は三人に背をむけたまま座り込んでしまった。臆せず暴力団の事務所へ乗り込んできて屋蓑たちの協力をとりつけ、経験者風を吹かせて意気揚々と二人を「通路」まで案内し、猛馬組長救助隊の隊長を気取って陳平たちを先導していたというのに。ここで応太に自暴自棄になられては脱出が危うい。
猛馬は、以前の周回で応太に「絶対に自分の組へ帰る」と言ったことを思い出した。組員たちが救出に来てくれた以上、組長の自分がここで脱出をあきらめるわけにはいかない。
「応太、もうひとがんばりだ」
「やだ! 外に出たって、母さんの世話に追われるだけだ! ぼくのことわかんない人のためにがんばるのは、もう嫌だ!」
猛馬の声と「がんばる」という言葉に応太は反応した。どうやら、応太の母は病状が悪化してしまったらしい。外へ出たら日常に戻らなければならないことを、母親の世話をしなければいけないことを思い出して嫌気がさしたようだ。この精神状態は、7番通路で座り込んでいた猛馬によく似ている。この状態から脱しない限り、応太はここから動かないだろう。
「さっき話してた、おふくろさんのことか?」
「そう…ここ一年で症状が悪化してるんだ。このまえなんか、家に帰ったら『いらっしゃい』って言われた」
「それはキツイな・・・」
「反応があるだけいいじゃねえか。うちの兄貴なんざ、見舞いに行っても完全に無反応だったぜ」
「ちょっ、組長! 先代のことはあんまり・・・」
「うるせえ。おれん家の事情だろうが。誰に教えるかはおれの自由だ。死人に口なしだからな。文句なら、あの世で本人からきく。おまえらは黙ってろ。わかったな」
「はい。すみません」
「わかりゃいいんだ。おまえらは見張りに専念しろ。陳平は後ろだ。誰か来ないか見張ってろ」
「へいっ」
「屋蓑は前だ。9番通路からなにか出てこないか見てろ」
「わかりました」
「よし。応太、これで話ができるぞ」
猛馬はいまだ背をむけている応太の隣に腰を下ろした。
「無事に通路を出られたらって約束だったが、気が変わった。今ここで、あの爆発事故の真相を教えてやる。かわりに、おまえの家の事情を教えろ」
応太は危険を冒してここまで来て、あせとんちゃんのことを思い出させてくれた。まだ脱出は成功していないが、猛馬を正気に返してくれた点では恩人と言える。このまま放って行くことはできない。7番通路で応太が自分にしてくれたように、今度は自分が応太の気持ちに寄り添う。そのために、応太が知りたがっていたことを話す。
「・・・あの事故についてはもういいよ。それより、お兄さんを殺したのは誰なのか教えて」
『!』
屋蓑と陳平が、あまりの驚きにふりかえる。なぜ応太は、先代が殺されたことを知っているのか。
「そうきたか・・・おまえに嫌われそうなことは言いたくなかったんだがな。しかたねえ。きいてから後悔するなよ」
「猛馬さん、やっぱり」
壁にむかってうつむいていた応太が顔をあげて猛馬を見た。
「ああ。おれが撃ち殺した」
「あれはご本人に頼まれたんでしょう! 組長のせいじゃ…」
「黙ってろっつっただろうがッ」
猛馬が目にも止まらぬ速さで懐に手をつっこみ、取り出したペンを屋蓑の顔にむかって投げつけた。屋蓑はとっさに腕で顔をかばったので幸いにして顔面には当たっていない。
「ちょっと! 危ないでしょ! 屋蓑さん、大丈夫!?」
「ああ。大丈夫だ。組長、ペンを落とされましたよ」
ペンは屋蓑の腕に当たって床に落ちたので、屋蓑はペンを拾い上げた。よく見ると金色のマーカーペンだ。組長はこのペンでトランプのカードにメッセージを書いたのだろう。
「拾っておけ。おまえが持ってろ」
「はい」
「はい、じゃないでしょ! 抗議しなきゃ! そんなだから物みたいに扱われるんだよ!」
「いいんだよ。今のは、口を挟んだおれが悪い」
「まったくだ。おい、応太。部外者のくせに、うちの組のやり方に文句つけんな。こいつらの命はおれのもんだ」
「…ぼく、絶対にヤクザにはならない。ぼくの命はぼくのものだから」
つぶやいた応太は座るむきを変え、猛馬と同じむきに座り直した。
「ああ。おまえはそれでいい…で、おれはどこまで話した?」
「お兄さんはもう死んでるけど、それは猛馬さんが撃ち殺したから、ってところまでだよ。本当なんだね?」
「ああ。本当だ。おれが狙撃した。あの悪条件のなかでよく当てたもんだ。我ながら腕がいいぜ。」
風の強い真夜中のこと。ご丁寧に事前連絡をよこした狼範は約束通りの時刻にビルの屋上へ姿を見せた。最後の会話は電話だ。スマートフォン越しに「見えているか」「見えている」「当てられるか」「当ててみせる」と話した。まるで同じ的を見ているかのような会話だが、実際もその通りだ。狼範が通話状態で画面を光らせたまま頭上に掲げた端末を、猛馬は撃ち抜いてみせた。
狼範は自分の端末を的にすることで対話の手段を捨て、猛馬との関係修復を拒絶した。これでもう熊倉組へは帰れない。狼範は猛馬の腕を確かめると同時に退路を絶ったのだ。猛馬にはそれがわかった。狼範の「弟のそばには戻らない」という意志と、猛馬の「兄を追うのをやめたい」という意志が重なり、ひとつの的に集約された。熊倉狼範の命という的に。
「だから、撃ち殺した。頭を狙って即死させたんだ。無駄に苦しめなくてよかったぜ。あれが最後の情だ」
「なんで、そんなことになっちゃったの? 家族なんでしょ?」
「あの野郎はなあ…やっと退院したと思ったら、組の金を持ってとんずらしやがったんだよ!」
「それはまあ怒って当然だと思うけど、なにも殺すほどじゃ…」
「あいつはその金で何をしてたと思う?」
「うーん。ギャンブルとか?」
「どうせならそうしてほしかったぜ。博打で金を溶かしてるほうが、ずっとマシだった…あいつはな、その金であちこち泊まり歩いて、目についた女を殺してまわってたんだ」
「退院したら殺人鬼になってたってこと!?」
「バカ、病院のせいじゃねえよ。あれが、あいつの本当にしたいことだったっつうことだ。きっと兄貴は、ずっとああしたかったんだ。なのに組長になんかなっちまったから、したいことができなかったんだろ」
「そこまでわかってたのに、撃ち殺したの?」
「確信があったわけじゃねえ。だがな、最後の電話で『組には戻らない』って言われちまっちゃあ、撃つしかないだろ。野放しにしとくと、うちの評判に関わるんだからよ」
「猛馬さん、それは言い訳でしょ。本当は組のためじゃなくて、自分のために撃ったんでしょ?」
「へえ。わかるのか。ガキのくせに、なかなか鋭いじゃねえか。その通り。おれは、自分のために兄貴を消したんだ。うんざりしてたからな。あいつと比べられることに」
猛馬はかつて自分を「ポニー」などと呼んで嘲った連中がいたことを思い出した。小柄な猛馬は大柄でたくましい兄とよく比較され「兄は狼だが弟は子馬だ」と陰口を言われていた。狼も馬も自分の群を大切にする動物であり、名は体を表すのであれは長に適していることには変わりないのに、あの連中はいったいなにが不満だったのだろう。
「ぼく、兄弟がいるって、いいことなんだと思ってた」
「おまえ、兄弟はいないのか」
「うん。ぼくはひとりっこだよ。だから、兄弟がいる人がうらやましかったんだけど。あんまりいいものじゃなさそうだね」
「関係による、としか言えねえなあ。仲がいい兄弟は頼りになる。兄貴も、人が変わるまでは・・・くそっ、あの傷さえなけりゃ・・・」
猛馬が言う「あの傷」とは、7番通路で現れた大男の左側頭部にあった傷のことだろう。髪が少なくスキンヘッド同然の頭部ではあの傷が目立っていた。あの大男が猛馬の記憶にある兄の姿を再現したものだとしたら、現実の兄にも同じ傷があったのだろう。猛馬の兄はおそらく、頭部を負傷したせいで脳も損傷してしまったのだ。猛馬の顔の傷も左側なので、もしかすると兄にかばわれたのかもしれない。弟をかばって兄が頭部を負傷し、そのせいで脳の一部が欠けて性格が変わってしまったのだとしたら。猛馬にとっては辛いことだろう。
「ごめん。辛いこと思い出させちゃって」
「・・・いいんだ。過ぎたことだからな。次はおまえの番だ。おまえの家の事情を話せ」
「えー。もうだいたい知ってるじゃん。ぼくの家は元食堂で、あの事故がきっかけで廃業して、父さんはもう死んでて、母さんは脳の病気なの。ほら、ぜんぶ知ってるでしょ?」
「バカ、金のほうの事情だよ。おまえん家は自営業だったんだろ。借金はしてねえのか?」
「食堂を建てる時に、銀行から借りた分が残ってるみたいだけど・・・でも、他人に相談することじゃないよ。肩代わりしてくれるわけじゃないんでしょ?」
「ああ。肩代わりは絶対にしねえ。そのかわり、債権者になってやるよ」
「え、どういうこと?」
猛馬は応太に説明してくれた。銀行からの貸付金には必ず利子がつくこと、利子まで含めて借金であること、熊倉組が銀行から債権を譲り受けて債権者になれば貸付金の利子をなくせること、返すべき額が元金のみになればいつか必ず返済を終えられることを。
「要するにおまえん家は、銀行にカモられてんだよ。だから、おれが助けてやる。うちの組が貸主になりゃいいんだ。そうすりゃ、心配ごとが減るだろ」
「気持ちはうれしいけど、父さんから『銀行以外のところから金を借りるな』って言われてるから」
「そうか。残念だが、親父さんの遺言じゃしかたねえな」
「いよいよ困ったら、お願いするね」
「そうしろ。家を差し押さえられそうになったら、おれに知らせるんだぞ。銀行に殴り込んで、返済期限を延ばしてやるからな」
「ありがとう。ヤクザの人にそう言ってもらえると、心強いよ」
猛馬が本気なのは応太にもわかった。猛馬なりに応太を励まそうとしてくれているのだ。本音を言えば借金よりも母のことを解決してほしいが。銀行に殴り込む暇があるのなら母を入所させられる施設探しを手伝ってほしいというのが正直なところだが、借金のことを相談できる相手がみつかったのはありがたいし、自分の味方になってくれる人が増えたのだと思うとうれしい。
「励ましてくれてありがとう。ちょっと元気になった」
「よかった。走れるか?」
「え、また走らされるの!?」
「何が起こるかわからねえのが、この通路だろ。走るつもりでいたほうがいいぞ」
「そっか。そうだよね。あとひとつ、残ってるんだもんね・・・よし。猛馬さん、行こう」
「ああ。今度こそ、お終いだ」
応太は猛馬に肩をかし、ふたりで立ち上がった。
「よし。野郎ども、見張りは終わりだ。応太、新しいルールを読み上げろ。この間に変化してねえか?」
「『9番出口から外に出ること』。変化してないよ」
「野郎ども、聞いたか。新しいルールは単純だ。今までみてえに異変から逃げる必要はねえ。そのかわり、正面突破することになる。今までよりも危険だ。注意しろ」
『はい』
「よし、行くぞ」
4人はゆっくり歩いて9番通路に入った。
「止まれ。応太、曲がる前に奥を見ろ」
「わかった。ちょっと待ってね」
今まで以上の危険が予想されるので、角を曲がる前に立ち止まって「奥」の様子を確認する。
「ひっ」
9番通路の「奥」をのぞきこんだ応太は思わず小さな悲鳴をもらしてしまい、とっさに手で口をふさいだ。あまりに異様な光景だった。虚ろな目をした「人々」が通路の幅いっぱいに立ち並んでいる。7枚めのポスターから「奥」は「人々」に占められていて、あの「人々」にさわらずに通るのは難しそうだ。
「応太、何が見える?」
「えっと、通路に人型が、怖いぐらいきれいに並んでる」
「そいつらの位置と動きは?」
「位置は、7枚めのポスターよりも奥。動きはないよ。人が近づくまではじっとしてるんじゃないかな」
あの「人々」は変形した「屋蓑のようなもの」と同じく何か特定の刺激に反応すると思われる。初見だとかなり怖いが今のところ動きはないので、近づかないうちは安全だろう。
「そうか。よし、出るぞ」
4人は角から出て、正面から通路に並ぶ「人々」を眺めた。
「あいつら・・・ってことは、最前列が最新か」
物体のように規則正しく通路に並んでいる「人々」は怖いが、猛馬の言葉は不気味だ。ひとり合点されると同行者が困る。
「猛馬さん、どういうこと? ああいう人たち、前に見たことあるの?」
「最前列のやつらに見覚えねえか?」
「え? えーと・・・あ。あの女の人、1番通路で見たかも」
よく見れば、最前列に並んでいるのは応太がこの周回で見た人たちだ。先行する猛馬が次々と同行者を通路に取り込ませたせいで、この周回の「歩く者」は通路ごとに別人だった。救助隊の三人は「屋蓑のようなもの」を含めて今まで7人の「歩く者」を見ている。そのうち「屋蓑のようなもの」を除いた6人が最前列に並んでいた。
「ってことはあれ、通路に取り込まれた人たち!?」
「おれが自販機のものを食わせた奴らがいるってことは、そうなんだろうな。奥にいくほど古い連中が並んでるんだろ」
「取り込まれたらああなるんだ・・・嫌だなあ」
「あれに捕まると、おれたちもああなるぞ。応太、何か案はねえか?」
「あるよ。これ」
応太は恐怖心を抑えながら懐に手を入れ、スーパーボールを取り出した。子供の頃に夜店のスーパーボールすくいで取ったものなので、スーパーボールといっても野球ボールほどの大きさがある。直径に準じた重さがあるのであまり跳ねないが、そのかわり握りやすくて投げやすい。とりあえずこれをあの「人々」に投げつければ、どの刺激に反応するかわかるだろう。個体ごとの距離が近いことは利用できそうだ。ひとつの刺激で連鎖反応が起きてもおかしくない。
「あげるから、使って」
応太は猛馬にスーパーボールを手渡した。応太にとっては思い出の品だが、この通路を攻略するために持ってきた物なので手放すのは惜しくない。誰かの役に立てればこのスーパーボールも本望だろうし、あの「人々」がどの刺激に反応するのかわからないままでは近寄ることさえできない。まずはこれを投げつけて反応を確かめるべきだ。
「すまん。投げるぞ」
応太の意図を瞬時に読み取った猛馬は、受け取ったスーパーボールを通路の「奥」にいる人型の頭部を狙って投げつけた。猛馬の手から放たれたスーパーボールは美しい放物線を描き、一番奥にいた人型の頭部に命中する。
そのとたんに起きたことは応太の予想通りだった。規則正しく並んでいた「人々」が連鎖的に反応したのだ。まずスーパーボールが当たった個体が衝撃でふらつき、隣の個体に接触した。接触された個体はなんと、自分に当たった個体を殴った。その拍子に、さらに隣にいた個体が肘鉄をくらい、自分を攻撃した個体を殴りつける。この反応がドミノ倒しのように広がっていき、規則正しく静かに並んでいた「人々」は互いに殴り合う暴徒の群になった。
「やっぱり。たくさんいるから、ああなるんじゃないかと思った」
「同士討ちさせるとは。おまえ、天才だな」
「猛馬さんの腕がいいからだよ。投げられる物を持ってきてよかった」
どうやら、彼らが反応する刺激は「接触」らしい。「通路」はすべての個体に「自分にさわったものを攻撃する」という性質を持たせたようだが、通路に生成された「人々」は同士討ちで全滅した。この通路では時計が止まってしまうので正確な時間はわからないが、体感ではほんの数十秒で、すべての個体が不格好な粘土細工のような凹みまみれの塊と化した。彼らは恐ろしき馬鹿力の持ち主だったらしいが、それが仇になった。もはやどの個体も人型をしておらず、痙攣しながら床に転がっている。見たところ、すべての個体が無力化されたらしい。
「連鎖は止まったみたいだね。いくら通路の人型でも、さすがにああなったら動けないか」
連鎖という表現からして、応太はパズルゲームをプレイするノリであの「人々」を攻略したらしい。恐るべき洞察力である。
「で、どうやってあそこを通るんだ?」
「あ。考えてなかった。一応動かなくなったけど、さわらないほうがよさそうだね。またいで行くしかないかな」
「詰めが甘めえな」
「ごめん」
応太が連鎖後のことまで考えていなかったのは残念だが初見にしてはよく対応したほうだろう。応太は詰めが甘いのは事実だが、この洞察力は賞賛に値する。あの連中を無力化できただけでもほめてやるべきだ。
「いや、おまえはよくやった。行くぞ」
四人は猛馬に合わせてゆっくり歩き、床に散らばっている「人々」に近づいた。もはやどの個体も人型を保っていないので「人々」と呼ぶのは不適当だが他に表現のしようがない。
四人は「人々」のそばで足を止めた。
「うわ、近くで見るとグロいな…」
「おまえが同士討ちさせたからこうなったんだろ。こいつらに元気でいてほしかったのか?」
「そんなわけないじゃん・・・向こう側、出口みたいなのが見えるね」
「ああ。あとはあそこにたどり着くだけだ。準備するぞ。まず、応太。銃のケースを返せ。ここからはおれが背負う」
「わかった。意外と重かったよ」
応太は猟銃が入ったケースを背中から降ろして猛馬に手渡した。受け取った猛馬は慣れた動作でケースを背負う。背中に懐かしい重みが戻り、猛馬は少しだけ安心した。
「次、屋蓑。荷物を捨てろ」
「はい。全部ですか?」
「ああ。そのリュックごと捨てろ。重心がずれてこいつらの上に倒れたら、一巻の終わりだぞ」
「そうですね。わかりました」
屋蓑は背中からリュックを降ろして床に置いた。中身の包帯や手術道具が惜しいといえば惜しいが、危険を冒してまで持ち帰るべき物ではない。
「最後、陳平。もう一度おれをおぶえ。ここを通る足の数は、少ないほうがいい」
「へいっ」
猛馬は応太の肩にまわしていた腕を離し、陳平は組長のそばでしゃがんだ。
「どうぞ。つかまってください」
陳平はまた組長を背負った。組長は足を負傷している。治療こそ施されているが、いつ傷が痛むかわかったものではない。万が一、傷の痛みで姿勢を崩して転ばれたら取り返しのつかないことになるが、陳平の鍛え抜かれた体幹ならその心配はない。今こそ、筋トレの成果を見せる時だ。
「よし。準備は終わった。応太。縦一列で行くから、先導しろ」
「え、ぼくでいいの? 陳平さんか屋蓑さんのほうがいいんじゃ」
「おまえはチビだから、床がよく見える。こいつらの隙間を踏んで、慎重に進め。後続の奴はおまえが踏んだところを歩く。そうすれば安全だろ」
「なるほどね。チビはよけいだけど、理にかなってる。じゃあ、2番目は?」
「おれと陳平だ。後ろに屋蓑がいれば、万が一、転びそうになっても受け止められるだろ」
「確かに。それじゃ、その順番で行こう」
「時間はたっぷりある。後ろの奴を待たせることは気にするな。とにかく、進むことに集中しろ」
「うん。それじゃあ屋蓑さん、スタート位置を指示して」
「なんでおれが?」
「屋蓑さんは背が高いから。上から見て、床が見えてる部分が多いところを教えて」
「床が多いだけじゃだめだろ。最後のひとまたぎが届かなきゃ意味がねえ。ちっと待てよ・・・よし。左端がいい」
「わかった。じゃあ、左端から行こう」
応太は「人々」の左端まで歩いて気を引きしめ、慎重にはじめの一歩を踏み出した。今は何も背負っていないので重心が後ろにずれる心配はない。人型にさわってしまわないように注意しながら通路の床を踏みしめ、ゆっくりと確実に前進する。時間は気にしない。どうせ時計は止まっているし、猛馬から「気にするな」と言われている。今はここを通り抜けることだけを考える。一歩一歩に全神経を集中し、他のことは考えない。
応太はただひたすらに床を踏んで進み、最後の人型をまたぎ越した。人型を踏みつけてしまう心配のないところに着いたが、気をゆるめず「出口」の前まで進む。後続のために場所を空けなければいけないし「出口」に近づかないと観察できない。目の前にあるこれが正しい出口だと確信できるまでは入れない。もしかしたらこれも罠で、もう一度あの「人々」を通り抜けて通路を戻らないといけないかもしれない。
「応太。これは、出口か?」
陳平の背におぶわれている猛馬が応太に声をかけた。応太がふりかえると、三人とも無事に「人々」の間を通り抜けていた。
「ちょっと待って。確認するから。えーと、左手の番号表示、9。頭上の表示、なし。右手の表示、なし。階段のむき、下・・・よし。これは、出口の条件を満たしてるね」
「ということは、出口だな?」
「ぼくの知る限りでは。番号が9になってる以外は、ぼくが見た出口と同じだよ」
応太が見る限りでは、これは出口だ。あの「人々」をまたいで通路を戻る必要はない。
「新しいルールは、9番出口から出ること、だな。全員同時に入るぞ。横一列に並べ」
応太の右隣に猛馬を背負った陳平が並び、左隣に屋蓑が並んだ。
「よし、応太、合図しろ」
「うん。それじゃあ、3で入るよ。1、2、3!」
応太の合図に合わせて屋蓑と陳平も出口に足を踏み入れ、1段ずつ階段を降りていく。3段降りて4段めに足をかけたとたん壁と天井の色が白くなくなり、ざわざわと人の気配がした。
「あの通路から出た、んだよな?」
屋蓑は思わず4段めで足を止めてつぶやく。
「屋蓑、立ち止まるな」
「はっ、すみません」
組長の声で我に返った屋蓑はまた階段を降りはじめる。階段から階段へ出たせいで、いまひとつ「脱出した」という実感がわかない。階段を降りきって何の変哲もない茶色い床に降り立って、ようやく「外」へ出たという実感がわいてきた。忙しげな人間たちが足早にそれぞれ目指す出口へ歩いているが、なかには連れとなにやら楽しげに話しながらのんびりと歩いている者も、大きなスーツケースを持ってスマホの画面を見ている旅行者もいる。都市部の駅では見慣れた光景のはずだが、あの「通路」から出たばかりだと妙に新鮮に感じられた。
「なあ応太、まだ見られてる気がしねえか?」
屋蓑と陳平はあの「通路」を出て階段を降りきったところで気を緩めていたが、猛馬は警戒心を働かせていた。同じくあたりを警戒し続けていた応太が猛馬に応える。
「やっぱり。まだ気を抜かないほうがいいね。念のために9番出口から出よう」
今回の脱出劇を「通路」の視点で見るとこうなる。いつも通り一人だけ捕まえたはずなのに実は三人組で、おまけに妙に装備を整えた一行だった。照明を消しても捕まえられず、動物を怖れず反撃してくる。妙に警戒心が強いこの一行の目的は、先に捕らえた人間の救出らしい。ならば三人が目的とする人間に攻撃させようと猛馬に合流させたが、救助隊の三人は麻酔銃で猛馬を無力化し、救助隊への攻撃も、猛馬の自殺も同時に防がれた。7番通路からあとの応太たちは四人組になって捕まえにくくなったので渾身の9番通路を出現させた。しかし応太と猛馬に攻略されてしまい、まんまと脱出されてしまった。
今回の脱出劇はあの「通路」にとって失敗例である。これを敗北と捉えていれば、さぞかし屈辱だろう。あの通路に感情があるのなら悔しさのあまり監視を続けているかもしれず、ここも地下通路にはちがいない。あの「通路」の影響下にあってもおかしくはない。まだ「9番出口から外に出ること」というルールが有効なら、他の出口から出るとまた捕らわれてしまうかもしれない。
「賛成だ。応太、案内しろ」
「うん。スマホ、つながるかな・・・うわ。時間、ギリギリだったんだ」
「時間? なんのことだ」
「日付が変わるまでの時間だよ」
応太のスマホの画面に表示されている時刻は「23:30」だ。日付が変わるまであと30分しかなった。あの通路にいる間に8月9日になっていたら、脱出に成功しても、来年の8月8日に降ろされていただろう。日付が変わる前に脱出できてよかった。
「もしそうなってたらおれは、2年も行方不明になるじゃねえか」
「そうなったらさすがに、組長は代替わりですね」
「洒落にならねえな。間に合ってよかった・・・応太、ネットにはつながったか?」
「うん。この駅の構内図、出すね」
応太のスマートフォンは無事にインターネットにつながった。自分の端末が携帯電話会社の提供している回線につながっているのを見ると、まともな空間に出られたのを実感する。あの通路の影響力がまだ残っているとしても、かなり弱そうなので一安心だ。
「えーと、この駅は、樺下駅か」
応太がスマホのGPSをオンにして地図を確認したところ、この駅は猛馬がいた樺下駅だ。あの「通路」は、捕らえた人間が元いたところに降ろすらしい。
「9番出口は、こっちだね」
応太の先導で屋蓑と陳平が歩き出す。猛馬はまだ陳平に背負われたままだ。猛馬は長く閉鎖空間にいたせいで、狭いところにうんざりしている。今さらエレベーターには乗りたくはないので、階段を上がって地上に出るまではおとなしく陳平におぶわれていることにした。大人が背負われているのは異様な状態ではあるが、人目を気にしている時ではない。
「よし、9番出口だ。陳平さん、階段だから気をつけてね」
「言われなくても気をつけるっつうの。おれが、組長を落とすような間抜けに見えんのか?」
「陳平、言い方を直せ。むやみとケンカごしなのはよくねえ」
「へい。すみません」
「バカ野郎。謝る相手はおれじゃねえだろうが」
「ぼくは気にしてないから大丈夫だよ、猛馬さん。陳平さんとは一年つきあって慣れたから、もう平気。それにしても久しぶりだね、上り階段は」
「事務所に出勤する時は、いつも外階段を上ってたんだが・・・確かに、妙に久しぶりに感じるな。よし、陳平、上れ」
「へいっ」
陳平が猛馬を背負ったまま階段を上りだし、屋蓑と応太もそれに続いた。階段ですれちがう人間たちが、何事かと背負われた猛馬を横目で見てくる。陳平の背にいる猛馬は猟銃のケースを背負っているので孫亀のように見えて面白いのかもしれないが、四人は猛馬にむけられる視線を無視した。
「組長、出ました。地上ッス」
階段を上りきった陳平の足が歩道の石畳を踏みしめる。真夏なので屋外に出ると夜でも蒸し暑いが、幸いにして雨は降っていないので駐車場まで走らなくていい。走る必要がないのなら組長自身に歩いてもらってもいいだろう。自分の足で踏みしめられたほうが、地上に出られた実感があって良いかもしれない。
「ああ。空気が変わったな。これが娑婆の空気か」
あの「通路」の空気には妙な清潔感があった。実際に無菌だったのかもしれないが、もう二度と吸いたくない。いま吸っている空気はあの「通路」の無味無臭な空気とは明らかにちがう。普段は意識に上らない排ガスの匂いと、慣れ親しんだ生暖かい湿気が入り交じっている。あの「通路」のなかで応太からきいた通り、今は8月らしい。
猛馬は深く息を吸って真夏の空気を味わってから、陳平に指示する。
「よし、降ろせ」
「へい」
陳平は組長を背から降ろした。
「石畳と、星・・・本当に、帰ってきたんだな」
自分の足で歩道に立ち、夜空を見上げた猛馬がつぶやいた。
事務所と神棚
このあと四人はコインパーキングに駐車しておいた代紋入りの車に乗り、熊倉組の事務所へ戻った。運転手の屋蓑は事務所の下にある駐車場へ車を駐める。猛馬とともに後部座席に乗った陳平は先に降り、負傷している組長に手をかした。
「この事務所を見るのも久しぶりだな」
猛馬は駐車場から事務所を見上げた。見たところ明かりはついていない。さすがに24時近くになると誰も残っていないらしい。今は他の組員たちに事情を説明する気力がないので無人のほうが好都合だ。
「お戻りになられてよかったッス。階段ですけど、どうします?」
「おまえは先に上れ。ドアを開けて電気をつけろ。ついでに、この銃をしまっておけ」
猛馬は陳平に猟銃入りのケースを渡した。この銃を置くところぐらいなら下っ端の陳平でも知っている。組長机の下だ。いつも、机の下に隠れればすぐに手に取れる位置に置いてある。
「おれは応太と上る」
「へい。それじゃあ、お先に」
猟銃入りのケースを持った陳平は見かけによらず軽やかな足取りでかんかんと足音をたてながら金属製の外階段を駆け上っていく。
「応太、降りてこい。肩をかせ」
「はーい」
応太は助手席から降りて猛馬の隣に立った。屋蓑は応太の子供じみた返事に文句を言いながら運転席から降りる。
「おまえの返事はいつも間延びしてんなあ。も少ししゃっきりした返事はできねえのか坊ちゃん」
「屋蓑さん、自分ちに着いたからっていきなり態度変えないでよ」
「態度は変えてねえよ。おまえにへそを曲げられちゃ、組長を助けられねえ。だから、ツッコミ入れないようにしてただけだ。思ってても言わないのが大人ってもんよ」
「応太、おまえは屋蓑の優しさに感謝しろ。そして、さっさと肩をかせ」
「わかった。屋蓑さん、がまんしてくれてありがと」
応太はまた猛馬に肩をかす。あの「通路」のおかげで猛馬と肩を組んで歩くのはすっかり慣れた。
「屋蓑は後ろだ。万が一おれが足を踏み外したら受け止めろよ」
「はい。坊ちゃんは自力で踏ん張れよ。若けえんだから」
「えー。ぼくも受け止めてよ」
「一度にふたりは無理だっつうの。おれにゃ組長のほうが大事なんだよ」
「いいなあ猛馬さん。大事って言ってもらえて」
「当然だろ。今の熊倉組にゃ、おれの支持者しか残ってねえんだからな」
応太からすると心底うらやましいのに、猛馬にとって大切にされるのはあたりまえのことのようだ。これはこれで感謝を知らない不遜な態度のような気もするが、組長らしいといえば組長らしい。
「ぼくも誰かに、大事って言われたいなあ」
昔は、両親がよく「おまえは大事な一人息子だ」と言ってくれたのに。父は亡く母は脳を患っている今となっては、応太は誰からも「大事だ」と言ってもらえない。だから猛馬がうらやましい。
「泣き言いうんじゃねえよ。組長をお待たせしやがって。さっさと歩け」
「はーい。それじゃ、猛馬さん、行こう」
猛馬と応太が歩き出し、ゆっくりと階段を上っていく。時間はかかりそうだが足取りはしっかりしているので転げ落ちる心配はなさそうだ。屋蓑もふたりの後から階段を上る。
ふたりは最後の段を上り、無事に階段を上り終えた。ドアの前で待機していた陳平がふたりを迎える。
「お待ちしてました。鍵は開けてあります」
「よし。ドアを開けろ。開けたら押さえてろよ」
「へい」
陳平が外開きのドアを開けて押さえている間に猛馬と応太が事務所へ入る。続いて屋蓑、最後に陳平がドアをくぐって入った。
「応太、ソファーの前まで頼む」
「うん。二人掛けのほうで休む?」
「ああ」
応太は猛馬を二人掛けのソファーまで連れて行き、猛馬がソファーに横たわるのを見守った。ソファーの下には虎革の敷物が敷かれている。この敷物は虎の頭が残されていて、応太から見ると悪趣味かつ古風だ。猛馬の洗練された服装からは想像できない趣味なので、きっとこれも先代の遺品なのだろう。
この敷物は悪趣味だがそこそこ暖かそうなので、寝るのはこの上がいい。応太は事務所に泊まる許可をもらおうと猛馬に声をかけた。
「猛馬さん、ぼくも泊めてくれない? 寝るのはこの敷物のうえでいいからさ・・・猛馬さん?」
ソファーに身を横たえた猛馬からの返事はない。
「応太、どけ」
念のため屋蓑は猛馬の顔色を確認し、手首をにぎって脈を計ったが異常はない。よく聞くと規則正しい寝息が聞こえるので体調には問題なく、ただ眠っているだけだ。次の指示を出す間もなく寝落ちたということは、無意識のうちに気がゆるんだのだろう。
「組長は眠ってるだけだ。大事ねえよ」
「よかった。ここまで来て死んじゃったかと思った」
「縁起でもねえこと抜かすな。そうなったら救出失敗じゃボケ」
「屋蓑さん、急に口調が荒いじゃん。どうしたの?」
「これが素のしゃべり方じゃ。おまえをびびらせねえようにすんのに気を使ってたんだっつうの」
「アニキ。素っつうより、身内むけのしゃべり方になってるッス。この小僧はうちの組員じゃねえッスよ。こいつ、ヤクザには絶対ならねえって大口たたいてたッス」
「そういや、そうだったか」
「屋蓑さん、大丈夫? あの通路に記憶ちょっと吸われてない?」
「洒落にならねえこと抜かすな。一年つきあったせいだ・・・今日はここに泊まっていけ」
「いいの?」
「おまえをどうするかは組長が決める。組長が目を覚ますまで帰るなよ」
「あ、そういうことか。わかった。じゃあ、トイレもかして」
「ああ。入口に向かって右の奥だ」
応太が用を足して手を洗ってから戻ると、猛馬は靴を脱がされて毛布をかけられていた。あの毛布は事務所に置いてあった物らしい。明明と照明がついていて他人がうろついている空間でも猛馬は眠り続けている。見た目以上に弱っていたらしい。
「坊ちゃん、ここに座れ」
屋蓑は応太を一人掛けのソファーに座らせてくれた。
「ありがと。実はあの通路、トイレがなくてさ」
「そういや、ひとつも見なかったな」
あの「通路」の経験者である応太は知っていた。あの通路では恐ろしいことが多々あったが、何を見て「恐い」と思うかは人による。しかし、どんな人間にとっても平等に恐ろしいこともある。あの通路のもっとも恐ろしい点は攻撃的で殺意のある「異変」が現れることではなく、食品の自販機はいくつも現れるのに肝心のトイレはひとつもないことだ。
「実は、うどんを食べたあとずっとはらはらしてたんだよ。誰かが便意に襲われないかってさ」
「それは、異変に襲われるよりも怖えな」
「でしょ。尿意は立ちションで解消できるけど、便意はそうはいかないじゃん。どうせならトイレもサンプリングしてほしかったよ。水は流れなくていいから、せめて便器はほしかったね」
「まったくだ。あの人型どもの凹み方もおかしかったしな。あの通路の野郎には人体への理解が足りねえ」
思えば屋蓑が自分にそっくりな「歩く者」の眉間を撃ち抜いた時も演出が足りなかった。血のような赤い血液は飛び散ったが、脳や脳漿のようなものはまったく見られなかったのだ。あの通路は人間の外見を写し取ることはできても臓器は再現できないらしい。人間の頭部は主に頭蓋骨と脳で構成されていることすら知らないようだ。
「小学生でも知ってることさえ知らねえとはな。あの通路、無知にもほどがあるぜ。出血させるなら臓器もぶちまけろよな」
「さすが医師。着眼点がちがうね。グロいから見たくないけど」
「おれだって、あの通路には二度と入りたくねえ。空間そのものに生殺与奪の権を握られることが、あんなにムカつくとは知らなかったぜ」
「屋蓑さん、ムカついてたんだ」
「あたりまえだろ。親分をさらわれたうえに傷つけられて、怒らねえ極道がいるかよ」
「そうだよね。世間的には行方不明事件だけど、実質的には誘拐と傷害だもんね」
応太はソファーに横たわり静かな寝息をたてている猛馬を見た。
「・・・猛馬さんだね」
「ああ。おれたちの大事な組長だ。ご無事でよかった」
「ここにいるんだね」
「ああ。ここにいらっしゃる」
「本当に、助けられたんだね。よかった」
「その点は、坊ちゃんに感謝してる。ありがとな、応太」
「こちらこそ。ぼくの言ったこと、信じてくれてありがとう。猛馬さんを助けられたのは、ふたりのおかげだよ」
応太がほほえんだ。つられて屋蓑も気をゆるめる。ようやく、安全で安心できる場所に帰ってきた。
あとは夜が明けるのを待つばかりだった。組長机の上に据えられた神棚が光を放つまでは。
「アニキ! 神棚が光ってるッス! 組長を起こし・・・」
「ダメだ! ふたりともじっとしてろ!」
「なにが起きてるの!? 屋蓑さん!」
「氏神様がいらっしゃる! 静かにしろ!」
「うじがみさま!? あれの中身なんか、ただのお札でしょ!? あんな紙切れが光るわけない!」
応太はずっと文系ではあったが、かりにも現代っこだ。いくら文系といってもさすがにここまで非科学的なことには黙っていられない。神棚の中身はお札だから、結局のところはただの紙切れだ。文字が書かれているだけの紙切れがあんな光を放つわけがない。考えられる可能性は、何かの拍子に出火して、あの紙切れが燃えていることぐらいだろう。それを黙って見ていたら火事になってしまうのに、屋蓑は「黙ってじっとしていろ」と言う。かりにも西洋医学を収めた者が言うこととは信じられない。理髪師が医者を兼ねていた中世ヨーロッパならともかく、現代日本における医者は科学に従う者のはずだ。
「黙れ! いらっしゃるぞ!」
応太と陳平は屋蓑の正気を疑うも、これだけの騒ぎでいまだに猛馬が目を覚まさないのは「氏神様」とやらのしわざなのかもしれないと思い直す。そうでなければ、あれだけ警戒心の強い猛馬が目覚めない理由がみつからない。
「猛馬さん、眠らされてる?」
応太はつぶやいたが誰も応えない。なぜなら、もう屋蓑は口を開ける状況ではなく、陳平はあまりの事態に口を閉ざしているからだ。神棚の光が消えたと思ったら、見知らぬ女が組長のそばにしゃがみこんでいる。髪も肌も着物もこの世離れした白さの女だ。音もなく姿を現したところを見ると、どうやらこの女が屋蓑の言う「氏神様」らしい。氏神は猛馬の右足を検分しているようで、姿を現しておきながら無言である。
「我が氏子に傷をつけるとは、不届きなり」
女の姿をした氏神がはじめて口を開いた。氏子というのは猛馬のことらしい。猛馬は一年に渡って行方不明だったので氏神なりに気にかけていたようだが、ようやく帰ってきた猛馬は負傷していた。氏神はそれが許せないらしい。
「生き物の仕業ではないな。まずはこの傷を癒そう」
先ほどから氏神は猛馬だけを見ており、他の人間には目もくれず独り言しか言っていない。氏神はすぐそばにいる医者の屋蓑を無視して猛馬の傷を治そうとしているので応太は不安になった。このような人外に猛馬の治療を任せていいものだろうか。いくら知能が高くても、身体構造が異なる相手は治しにくいだろう。下手をするとそこらにある物質で適当に傷口を埋めて「治す」つもりではないか。だとしたら黙って見ていることはできない。応太は屋蓑の言いつけを無視して氏神に意見することにした。
「ちょっとあんた、ほんとに人間なんか治せるの?」
おそらく神々の前では許可もなく口をきくこと自体が無礼極まりないことだろう。それでもあえて口を開くのであれば、かしこまった口調で無礼さを相殺しようとしても無駄だ。そこで応太はあえて無礼な口をきいた。相手を怒らせてでも気を引くために。
「おまえは、猛馬を連れ帰った童だな。よくやった。ほめてつかわす。褒美は、この傷を癒してからくれてやる」
応太は罰されなかったが、目的は果たせなかった。応太が口を開いても氏神は怒らなかったが猛馬の傷を治すことに固執している点は変わりなく、治療をやめさせることはできていない。こうなればさらに言葉を連ねるしかない。
「ご褒美なんかいらないよ。子供じゃないんだから。それより、その傷どうやって治す気なの? まさか、そのへんにある物でふさぐつもり?」
「案ずるな。我は過ちをくりかえさない。以前と同じことはせん」
この氏神は過去にも現れ、人間の傷をなおしたことがある。その時は周辺の物質を傷の中に埋め込んで傷口をふさぎ、治したつもりになっていた。しかしその処置では氏子の命を救えず、反省した氏神はまわりの神々に傷の治し方を聞き回った。人間の癒し方をよく調べた今ならば、同じ過ちをくりかえすことはない。
「当人の血肉を増やして傷をふさぐ。異物は使わん」
「人間の治し方がわかってるんならいいけど。顔の傷は治さないでよ」
顔の傷は猛馬のトレードマークだろう。この傷を消してしまったら「顔の傷を気にする女々しい男」と思われるか、最悪、別人ではないかと疑われるかもしれない。もはや猛馬の一部である傷を本人に無断で消すわけにはいかない。
「言われるまでもない。この傷はけっして癒さぬ。我が氏子を殺めたことへの罰なのだから」
「え、その傷、あんたがつけたの?」
てっきり抗争中に敵の攻撃を受けてできた傷だと思っていた。兄にかばわれた時の傷なら、亡き兄の思い出の一部として大切に思っているのかもしれないと。しかし、この傷は氏神が与えたものらしい。
「そうだ。猛馬が、我に黙って狼範を殺めたことへの罰だ。猛馬も我が氏子でなければ、この程度ではゆるしておらぬ」
「人の顔に無断で傷つけるとか、どういう神経してんの? あれは兄弟のもめごとなんだから、あんたには関係ないでしょ」
先ほどから応太の口のきき方はあまりにも無礼なので屋蓑は生きた心地がしない。応太につられて陳平まで無礼な口をきいて殺されないか、屋蓑は気が気でない。組長の救出は終わっているうえに応太は部外者なので最悪死んでもいいが、組員の陳平まで失うわけにはいかない。氏神は自らを祀る一族を守護するが、そのかわり、その一族と血縁関係のない人間には不寛容だときいている。応太がまだ生きているのは、ひとえに猛馬を連れ帰った者だからだろう。その功績もなくこんな口をきいていれば、今頃はもう息絶えていたにちがいない。
「いいや、大いに関わりがある。なぜなら我は、熊倉一族の氏神なのだから」
「あ、そうなんだ。てっきり、この組を守ってるんだと思ってた・・・で、ほんとにその足、治してくれるの?」
「当然だ。氏子の傷を見過ごす氏神などおらぬ」
言いながら氏神は猛馬の足にふれた。手元が光っていることからして、どうやら猛馬の傷を治しているらしい。異物を使っている様子はないので一安心だ。
「意外と優しいなあ。じゃあ、ついでにあいつ、やっつけてくれない?」
「あいつというのはなんじゃ。猛馬を傷つけたもののことか?」
「その通り。ぼくは、猛馬さんを閉じこめてケガさせた奴を知ってる」
「そうか。では、言うてみよ」
「無限に続く通路、名付けて『8番通路』。古い言い方だと、無限回廊ってところかな」
「無限回廊とな。それは、その戸口に据わっておるものか?」
猛馬の傷を癒し終えて立ち上がった氏神は出入口のドアを指さした。まるであの「通路」がドアのむこうで待ち構えているかのように。
「え、あいつ、今あのドアのむこうにいるの!?」
「童、動くことをゆるす。己の目で確かめよ」
「うん。ちょっと見てくるね」
応太はソファーから立ち上がり、出入口にむかった。緊張しながらドアの前に立ち、汗ばんだ手でドアノブを握る。そのままゆっくりとドアノブをひねり、奥にむかって少しずつ押し開けていく。
「なんか、妙に明るいな・・・今って、夜じゃなかったっけ?」
ドアを半分ほど開いたところで、応太は確信した。このドアのむこうは階段ではない。ここにあるのは、妙に白くて不可思議な例の「通路」だ。
「大変だ。みんな、きいて! あいつ、ついて来てる!」
『!!』
屋蓑と陳平は驚いているが氏神は真顔だ。内心で怒っているのか、見た目通りまったく動じていないのかはうかがい知れない。
「このドアのむこう、あの通路になっちゃってるよ! どうしよう」
明日の朝どうやって帰宅しようか考えている応太の隣に氏神が歩み寄り、半ば開かれたドアのむこうをのぞき込んだ。
「ふむ。確かに回廊のようじゃ。人のつくったものではないが。童よ、猛馬を襲ったのはこの回廊か?」
「そうだよ。こいつが、人型を使って猛馬さんの足を撃ったんだ。でも、どうしてついてきたのかな?」
「大方、猛馬を気に入って、あきらめられなかったのだろう。しかし猛馬は我が氏子。このような、現象とも存在ともつかぬ半端者にくれてやるわけにはいかぬ」
「こいつ、やっつけてくれる?」
「もちろんだ。我が力をもって、こやつを退治してみせよう。手柄を立てれば、出雲の神々も我が神格を認めざるをえまい」
「なるほど、出世がかかってるんだね。それじゃあ、気合いを入れて退治しなくちゃ」
「うむ。では、行くぞ」
氏神はドアを完全に開け放ち、片足を通路の空間に入れた。氏神を制止する応太の声が耳に届いたのは、爪先が床につく寸前。
「待って! 先に猛馬さんを起こして! あんたが眠らせたんでしょ!?」
「そうだ。傷を癒すため、眠りを深くした。おまえが望むなら、すぐにも目覚めさせよう」
氏神は床につく寸前だった足を引き、事務所のなかへ戻ってくれた。そのままきびすを返して猛馬が身を横たえているソファーのそばへ歩いていく。その歩みはまったく体重を感じさせない優美なものだが、今の応太たちはその足取りに見惚れる余裕がない。
応太は氏神の後をついていきながら考える。先ほどの言い方からすると猛馬がソファーに横たわった瞬間に寝落ちたのは自然なことだが、あまりにも深く眠り続けているのはやはり氏神のせいだった。人為ならぬ神為的に眠りを深くしたのなら、せめて自然な睡眠状態に戻してから出発してほしい。猛馬をあのまま放っていかれたら、命がありながら目覚めない状態に、植物状態になってしまうかもしれない。氏神はあの「通路」とちがって一片の悪意もない存在なのだろうが、守護者というにはどうにも、人間、いや、生物への理解が足りない気がする。やはり、治療において人外の連中は信用ならない。
氏神は応太たちの非難がましい視線を浴びながら猛馬のそばにしゃがみこみ、猛馬の耳元でささやいた。
「氏子よ、目覚めよ」
「っ。うじがみさま・・・?」
猛馬がゆっくりと目を開けた。まだ意識が明瞭でないのか、半身を起こす様子はない。深い眠りから急に目覚めさせた影響かもしれないが、意識を取り戻して声を聞かせてくれただけでもありがたい。
「目覚めたな、氏子よ。我はこれより、無限回廊の退治に赴く」
氏神は再び立ち上がり、まだ意識に霞がかかっている氏子を見下ろした。
「退治・・・まさか、あの通路を?」
「案ずるな。我は熊倉の氏神。必ずおまえの敵をとる。少しばかり留守にするが、けして死んではならぬぞ」
「・・・はい。御武運を」
氏神は氏子の正しい態度と言葉に満足し、ほほえんだ。
「氏子の祈りは我の力になるだろう。必ず戻る。童らよ、朗報を待て」
氏神は勇んで戸口の前に戻った。己の「場」と無限回廊の境界を踏み越えて乗り込むと、氏神の背後で戸が閉められた。この通路は戸を閉めて氏神の退路を絶ち、捕らえた気になっている。現象同然の儚きものの分際で、あまりにも不届きな行いである。ここまで不届きだと怒りを通り越して笑ってしまう。
氏神は笑顔を浮かべながら床を踏みしめ、意気揚々と0番通路へ歩きだした。愛しい氏子を拐かし傷つけた、憎き回廊を腹のなかから引き裂くために。
氏神があの「通路」へ出撃するのを見送った応太たちは熊倉組の事務所で夜を明かした。
「ふわー・・・みんな、おはよう」
応太はあくびをして、床に敷かれた虎革の上で身を起こした。屋蓑の許可と陳平の協力を得てローテーブルをどかし、あの虎の敷物をマットのかわりにして眠ったのだ。
「おう。起きたか小僧」
「おはよう、坊ちゃん」
自分の席に座っている陳平と一人掛けのソファーに座っている屋蓑の目は少しばかり血走っており、徹夜したことがうかがえた。
「あれ、もしかしてふたりとも、寝てない?」
「ああ。陳平もおれも、徹夜で見張ってたからな。おまえと、組長を」
「そういえば猛馬さん、まだ寝てるね」
応太はいまだソファーに横たわっている猛馬を見た。毛布をかけられた猛馬は静かな寝息をたてていて、人の話し声がしているのに目を覚ます様子はない。氏神に操作された影響だろうか。
「あのあとまた眠っちまって、そのままだが。寝返りはうってたから大丈夫だろ」
「なるほど。じゃあ、これは自然な睡眠なんだね」
「ああ。無理に起こすなよ」
「はーい。それじゃ、なにか食べさせてくれる?」
「ああ。おまえがしこたま買い込んできた煎餅がまだ残ってるからな。責任もって食え」
「え。まだ残ってるの? ぜんぶは無理だよ」
「それが残ってんだよ。おかげでここ一年、うちの茶菓子はずっと煎餅になっちまった。ぜんぶは食わなくていいから、少しでも減らしていけ」
「わかった。どんなやつ買ったっけ・・・」
応太はつぶやきながら立ち上がり、給湯室にむかう。ここ一年、組員たちが出払っている時間帯を狙ってちょくちょく事務所を訪れていたのでこの給湯室にも詳しくなった。今では家の台所も同然なので、もちろん菓子がしまわれているところも知っている。流し台のむかいにある備え付け収納の中だ。応太は収納の扉を開けて中を確認した。屋蓑の言う通りまだ煎餅が残っているどころか、すべての棚が煎餅に占められている。
「うわ。マジでいっぱいあるな。よりどりみどりじゃん」
しかし個々の煎餅をよく見ると厚みや直径にちがいがあるだけで、味は醤油・塩・海老・胡麻に大別されることがわかった。通路で猛馬に食べてもらうために選んだのでありふれた味のものばかりだ。
「定番といえば聞こえはいいけど、もう少し斬新な味のものがあってもよかったかも」
猛馬が通路の外での生活を思い出してくれるように、懐かしさを喚起しそうな味のものを集めたらこうなった。どれも応太が選んだものだが定番の味ばかりなので日常的に食べるのは少々退屈だ。
「陳平さんは胡麻、屋蓑さんは海老だったっけ。ぼくは塩でいいや」
ここ一年のつきあいであのふたりの煎餅の好みは把握したし、朝食のかわりに食べるのなら軽い塩味で充分だ。問題は猛馬の分である。ソファーの前に戻ったら猛馬が目を覚ましているような気がするので、無難に醤油味のものを持っていくことにした。
「猛馬さん、起き抜けで食欲あるかな」
応太は独り言を言いながら四人分の煎餅を選んで給湯室を出る。ソファーの前に戻ると、やはかり猛馬が目を覚ましていた。身を起こして座り、陳平に毛布を手渡し、屋蓑から上着を受け取って羽織ったところだ。まだ手袋も指輪もネクタイもつけておらず、きれいに撫でつけられていた髪は少し乱れているものの、体調には問題なさそうに見える。
「猛馬さん、おはよう。気分はどう? 右足、感覚ある?」
「・・・おまえ、応太か?」
応太は猛馬の体調を気遣ったが、猛馬はいぶかしげだ。
「うん。ぼくは応太だよ」
応太はなぜか給湯室から出てきたうえに、よく見ると数枚の煎餅を持っている。猛馬にはわけがわからなかった。問題は煎餅よりも、応太が事務所をうろついていることだ。自分は暴力団の組長だと言ったことは覚えているが、応太を熊倉組の事務所へ招いた覚えはない。
「なんでここにいる? うちの事務所だぞ」
「覚えてないの? 昨日、四人で帰ってきたじゃん。もう夜遅かったから、そのまま泊めてもらったんだよ」
応太に言われて猛馬はようやく思い出した。自分が応太の肩をかりて階段を上ったことを。時刻は24時を過ぎていただろう。終電を逃した応太がここへ泊まってもおかしくはないが、問題なのは、そんな時間に応太が自分と一緒にいた理由だ。
「まさか・・・」
「うん。悪いけど、ゆうべ起きたことはぜんぶ現実だよ。残念ながら、あの『通路』は実在してるの。今のところは」
氏神様とやらがあの「通路」を退治してくれない限り、あの「通路」はこれからも人間を食い続けるだろう。応太の本音を言えば、氏神と通路には相打ちになって対消滅してほしい。しかしこんなことを言うと屋蓑には「罰当たり」と言われて叱られそうだし、氏子の猛馬は激怒して応太を殺そうとするかもしれないので言葉にはしない。
「でも、脱出は成功したよ。みんな無事だから、安心して」
「そうは言うがな、どうやったら安心できるんだ? あの通路の野郎が、事務所の外で待ち構えてるってのに」
「その点は大丈夫。ゆうべ、猛馬さんが寝たあとで確認したから。もうあのドアのむこうにはいないよ」
氏神が「通路」へ入った直後にドアを開けてみると、そこには夜空と階段があった。これは事務所に入った時と同じ状態なので、通常の空間に戻ったようだ。
「氏神さまを飲み込んで納得したみたい」
応太と猛馬が話している間に陳平はローテーブルを元の位置に戻し、屋蓑は四人分の茶を淹れた。応太は陳平が戻したローテーブルに給湯室から持ってきた煎餅を並べ、屋蓑はお盆から四つの湯飲みを移す。どの湯飲みも湯気をたてている。淹れたての茶を見ると、いかにも平和を象徴しているような気がした。
「猛馬さん、食欲ある? 煎餅でよければすぐに食べられるよ。何味がいい?」
「・・・おまえ、改めて見ると不気味なやつだな」
「それ、朝一で言うこと?」
「おまえはマイペースすぎんだよ。ゆうべのこと、ちっとも引きずってねえだろ」
「まあね。ぼく、喉元すぎたら熱さを忘れるタイプだから。切り替えが早いのがとりえだよ」
「自覚があるならいい。醤油を一枚よこせ」
「はい。これ、醤油味だよ」
猛馬が予想通りのものを選んでくれたので、応太は気分よく塩煎餅をかじった。
「うん、おいしい。さすが、ぼくが選んだ煎餅だね。我ながら審美眼があるなあ」
「ああ。この醤油煎餅もなかなかのもんだ。おまえ、菓子を選ぶのは上手いな」
「組長、起き抜けで申し訳ねえんですが、この坊ちゃんの処遇を決めてもらえますか。バラしていいですよね?」
屋蓑が海老煎餅をかじりながら何気なく言った。あまりにも自然なのでなんということのない日常会話かと思ったが、物騒な言葉が含まれていた気がする。まさか屋蓑は応太を殺す気でいるのだろうか。
「え、ちょ、屋蓑さん、なんで!?」
「どうした急に」
「はじめから考えてたことです。組長を助けたら消すつもりでした。こいつは、うちの組のことを知りすぎとります。早いとこ、処分する許可をいただきたい」
「どうして!? 猛馬さん、生きてるじゃん! ちゃんと助けたよ!」
「それはそれで問題なんだよ坊ちゃん。組長が生きてるからこそ、おまえは言いふらすんだ。自分は熊倉猛馬の恩人だってな」
「そんなことないよ!」
「いいや。おまえは言いふらす。自分は組長の恩人だから、熊倉組は自分に頭が上がらないんだ、ってな。おまえみてえな若造は、何かひとつうまくいくと、それを言いふらすもんなんだよ」
「な、なんでそんなことわかるんだよ!」
「おまえみてえに居場所のない目をした奴は、承認欲求の塊だってことぐらいわかってんだ。そういう奴は自分が賞賛される機会に飢えてるから、手柄は必ず言いふらす」
「そ、そんなこと、ないよ・・・」
「自信ないんじゃねえか・・・おふくろさんのことは心配すんな。おまえのかわりに恩返しする。おまえの話が本当なら、症状を和らげる薬を届ける。たしか、この前読んだ医学誌に、新薬の情報が…」
「届けるって、どうやって? ぼくん家の住所なんか知らないでしょ」
「知ってる。この一年で、おまえの身辺調査したからな」
「え、なんでそんなこと…」
「おまえが信用できねえからに決まってんだろ。おれは最初からおまえを消すつもりだったんだ。そのかわり、おふくろさんの老後の面倒は見てやるよ。だから、安心して死ね」
応太は思い出した。組長の猛馬は実の兄を撃ち殺してまで熊倉組を守ったのだ。組長に肉親を殺させてしまったからには、組員たちも万難を排して熊倉組を守るだろう。屋蓑と陳平からすれば、たった一年しかつきあっていない人間を消すことなど朝飯前にちがいない。つまり、屋蓑は本気なのだ。
「やだ! 言いふらさないって約束するから!」
「だめだ。おまえは信用ならねえ。陳平、応太を押さえろ」
「へいっ」
床に座って分厚い胡麻煎餅をかじっていた陳平はすばやく立ち上がり、応太の背後にまわった。応太は一人掛けのソファーから立ち上がりかけていたが、陳平に両腕を封じられてしまった。
「ちょっと、放してよ!」
「よし。陳平、そのまま押さえてろ。組長、もうこいつバラしていいですよね?」
屋蓑は懐から一本のメスを取り出した。あれで応太の首を掻き切るつもりらしい。まだ生きているうちに頸動脈を切ろうものならあたりに血が飛び散って派手に汚れるし、応太は死んでしまう。どう考えても悪手のはずなのに、なぜか猛馬は傍観している。応太は懸命に、猛馬に呼びかけた。
「猛馬さん!! たすけて!!」
「屋蓑、とりあえずそのメスをしまえ。応太がうるせえ」
「はい。それじゃあ静かな方法にしやしょう。準備しますんで、少々お待ちを」
屋蓑はメスを懐にしまってくれたが、デスクの引き出しから荒縄を引っ張り出してきた。今度はあれで応太の首を絞める気らしい。まだ応太の危機は去っていない。
「誰か、応太に礼は言ったか?」
「はい。坊ちゃんには、自分が礼を言っておきました。ちゃんと感謝しとりますよ。おかげで組長を、あの通路の野郎から奪い返せた」
「感謝してるんだったら、やめてよ!!」
「悪いがな、それとこれとは別なのが極道の世界なんだよ坊ちゃん。どれだけ感謝してても、組長が殺すと決めた相手は殺す」
「そんなっ」
「礼を言い忘れてなきゃいい。屋蓑はそれ持って待機してろ。おれはまだ応太をどうするか決めてねえ。この一枚食べ終わるまで待ってろ。陳平はしっかり押さえてろよ」
『はい』
「助けてくれるんだよね!?」
「静かにしねえと撃つぞ」
応太は醤油煎餅をかじる猛馬に確かめたが、猛馬の応えはつれなかった。
「ひどいよ。ぼくら、あせとんちゃん仲間なのにっ」
「それも、言いふらされると困るんだよ。屋蓑と陳平がおまえを殺そうとしてるのは、ひとえにおれの名誉のためだ。黙ってられるか?」
「もちろん黙ってるよ。だって、プライバシーだからね」
「そうか。それさえ黙っててくれりゃ、あとは相殺できるな。よし」
猛馬はかじりかけだった煎餅を食べ終え、ついに決断した。応太を生かして帰すかわりに、自分の手下にすることを。
「応太。おれだって鬼じゃねえ。おまえに助けられた自覚はあるし、生かして帰してやりたいとは思ってる。だがな、無条件ってわけにゃいかねえ。条件をのんでくれねえと、帰してやることはできない。ここまではわかったか?」
「う、うん。条件をのんだら、帰してくれるんだね」
「そうだ。今からその条件を言う。よく聞けよ」
ひとつ、熊倉家の氏神を秘匿すること。ふたつ、熊倉組および熊倉猛馬に対して恩人面しないこと。みっつ、熊倉組の抗争には関わらないこと。よっつ、熊谷探偵事務所の一員になること。いつつ、熊倉組からの依頼はすべて受けること。
「条件は以上だ。わかったか?」
「多いなあ。五つもあるじゃん」
「この期に及んで文句言うんじゃねえよ。おまえの命がかかってんだぞ」
「極道からすりゃ、かなりの譲歩ですね。さすがは組長、慈悲深い」
「小僧! 組長のお気持ちに感謝しろ! できねえんだったら、ここでくたばれ!」
「ちょっと、頭の上で怒鳴らないでっ。もう。陳平さん、すぐに怒鳴るんだから・・・わかった、条件はのむから。詳しく説明して」
「よし。陳平、放せ。応太はメモの準備しろ」
「へいっ」
陳平は応太の両腕を解放した。応太は腕をさすりながら懐に手を入れ、メモ帳とボールペンを取り出す。
「屋蓑、その縄をしまえ」
「まさか、本当に生かしとくんですか!?」
「条件をのんだら生かして帰すっつう約束だろうが。聞いてなかったのか?」
「聞いてはいましたけども。てっきり冗談かと・・・」
「応太をどうするか決めろっつったのはおまえだろうが。おれの決定に従う気がねえのか?」
「い、いいえっ。組長が生かしとくとお決めになったんなら、もちろん従いますよ。組長のご判断にまちがいはありやせん」
「そうだ。おれの判断にまちがいはねえ。したがって、応太には生かしておく価値がある。こいつはあのステッキを取り戻した。きっと、探偵にむいてる」
「確かに、実績はありやすね。わかりました」
屋蓑は自分のデスクにある引出に荒縄をしまった。首吊り用の輪は結んでいないかったのでしまうのは簡単だ。
「熊倉組って、探偵事務所もしてるんだっけ?」
「ああ。だが、その説明は最後にする。まずは、熊倉家の氏神様についてだ」
猛馬によるとヤクザ(当人たちは「極道」を自称している)は意外と信心深いらしい。事務所に神棚を設けてなんらかの神を祀っている組は少なくない。しかし、そこに祀られている「神」は事務所を構えた地域の氏神であることが多く、熊倉組のように組長の血族を守護する氏神を祀っていることはめったにないのだという。
「ここまではいいか?」
「うん。わかった。熊倉組は例外なんだね」
「ああ。うちの氏神様はかなりの例外だ。ふたつの意味で」
熊倉組の氏神が例外とされる点はふたつ。ひとつは前述の通り。極道が拠点とする場に祀られていながら地域の守護者ではなく特定の一族に加護を与える神であること。もうひとつは、意識を持ち姿を現し傷を癒すほどの実在性を獲得していること。
「へえ。つまり、ほとんどの神様には意識がないわけだ」
「ああ。神社に祀られてる御神体ならともかく、神棚の札に意志が宿ることはめったにない」
「じゃあ、どうしてここの氏神さまは、しゃべったり歩いたりできるようになったの?」
「苦節200年、7代がかりで宿らせた。顕現なさるようになったのはここ数年のことだ」
「200年も同じ神さまを祀ってるんだ。でも、それだけでしゃべるようになるもんかな・・・もしかして神棚のお札、お焚き上げしてないとか?」
「察しがいいな。その通り。我が家のご先祖様は、お焚き上げをやめたんだ」
「あれってたしか、年一でするもんでしょ。200年も放置しといたら危なくない?」
「そりゃあおめえ、危ないに決まってんだろ。だからこの事務所に神棚を据えたんだ。今となっちゃ危なすぎて、一般家庭にゃ置いとけねえんだよ」
熊倉家のご先祖様は200年ほど前を境になぜかお焚き上げをやめてしまい、家の者たちに「神棚のお札はけっして燃やすな」と言いつけた。律儀なことに熊倉家の子孫はこの言いつけを守り、ここ7代は札の焚き上げをしていない。おそらくご先祖様はどこかで「焚き上げられず拝まれ続けた札には神が宿る」と聞いたのだろう。子孫が加護を受けられるよう、良かれと思って焚き上げをやめたのだろうが、その道程はけっして平穏ではなかった。顕現する力を得る以前に意識を持った氏神は姿を見せず声だけで氏子に供物を求め、気に入らぬことがあれば氏子を傷つけることさえあったという。猛馬の顔につけられた傷も、その一例だ。
「その傷が氏神さまの仕業なのはきいたよ。やっぱり危ないじゃん。今からでもどっかの神社に助けてもらったほうが・・・」
「死にてえんだったら、しゃべっていいぞ」
「わかったよ、黙ってる。要するに、実在する時点で例外だってことだね。だから秘密にしなくちゃいけない、と」
「ああ。おれが氏神様の加護を受けてることも秘密だ。いいな?」
「わかった。猛馬さんのことは心配だけどね」
「その心配は胸の内にしまっておけ。怒らせたら殺されるぞ」
「なんか、ヤクザみたいな神さまだなあ」
「だからこそ、おれの敵を消してくださるんだ。加護を受けるのも悪くないぜ。おかげでおれは、ヤクザにしちゃあ長生きしてる」
「そういうもんかな・・・で、次の条件は」
「恩人面するなってのは、おまえでも理解できるよな。屋蓑がおまえを殺そうとした理由だ」
「まあ、わからなくはないけどさ。体面って、そんなに大事? 人殺してまで守るもんなの?」
「極道にとっちゃ、仁義と体面は命よりも大切なもんだ。映画なんかでもよくあるだろ。面子を潰されたからって、殴り込んだりするやつ」
「ヤクザの世界って、現実でもあんな感じなんだ・・・」
「とにかく、おれに関することをしゃべらなけりゃいいんだ」
「わかった。で、次は」
「抗争に関わるな、ってのは説明するまでもねえよな。万が一うちがどこかの組と殺し合うことになっても、加勢しようとするなよ。おまえは関わるな。いいな?」
考えなしに加勢されても、むしろ迷惑だ。連携が崩れて作戦が頓挫しようものなら返り討ちにあいかねない。何より、極道でも警察官でもない一般人の案が抗争の役に立つとは思えない。応太は異常な事態に対して適性があるようだが、さすがに抗争に巻き込むわけにはいかない。妙な落ち着きがあって不気味に見えることもある応太だが一般人には変わりなく、未来ある若者にはちがいないのだから。
「ぼく、危ないことは嫌いだから大丈夫。自分がケガしそうなことはしないよ」
「よし。次が最後だな。おまえを、うちの探偵事務所の一員に・・・」
「やだ」
『は?』
熊倉組の三人が思わず声をもらす。ここまでおとなしく「条件」の内容をきいていた応太が、急に態度を翻した。我らの組長が親切にも働き口を世話してやろうというのに。組長のお気持ちを無下にする気なら、やはり殺すしかあるまい。
屋蓑は二人掛けのソファーから立ち上がろうとした。もう一度、机の引出から荒縄を持ってこようと。しかし、組長に止められた。
「屋蓑、座れ」
「いや、しかし・・・」
「しかしもカカシもねえ。黙って座れ」
組長のご命令ではしかたない。屋蓑は言葉を飲み込み、おとなしく座りなおす。どうやら組長は応太の言い分をきいてやるおつもりらしい。組長はよほど応太がお気に召したようだ。
「応太、言っただろ。条件をのまねえと帰せないってな。おまえ、死ぬ気か?」
「死ぬ気はないよ。条件を変更してほしいだけ」
「てめえ、ふざけんなよ! 組長、もうこいつバラしましょう!」
「陳平、静かにしろ。応太、おれの出した条件が気に入らねえのか?」
「うん。どんな形でも、猛馬さんの手下になったら、氏神さまの手下にもなっちゃうでしょ」
「間接的には、そうなるな」
「だったら、絶対やだ。ぼく、あいつの手下にはなりたくない」
応太は氏神をあいつ呼ばわりしたので猛馬は激怒するだろうが、本心なのでしかたない。猛馬を傷つけた人外の手下になるぐらいなら一生無職でいたほうがましだ。
「そうきたか。なるほどな」
応太の予想に反して猛馬は怒らなかった。少しは応太の気持ちをわかってくれたのかもしれない。
「坊ちゃん、おまえ、今は骨董屋のバイト店員だろ。も少しましな働き口がほしいと思わねえのか?」
屋蓑の言葉から殺意が消えた。応太のマイペースは天性のものであり、どんなに危機的な状況でも揺らぐことはないと察したからだ。この感性は常人離れしているのでまともな場所では働きにくそうだが、ある意味貴重な人材ではある。応太を処分するべきだと思っていた屋蓑は考えを改めた。組長のお考え通り、生かして雇えば役に立つかもしれない。
「思わないね。今は骨董品の勉強してて、ちょっと面白いし。なんで骨董屋はフィクションの題材になりがちなのか、その理由がわかったよ」
「そりゃよかったが・・・条件の変更か。そうだな、それじゃあ」
『五つの指輪を探せ』
なぜか、組長と応太の声が重なった。熊倉組の三人は驚いたが応太はうれしそうだ。
「やった、当たった!」
「屋蓑、指輪のことまで教えたのか?」
「いいえっ。先代のステッキのことは話しましたが、指輪については教えてません。ステッキの他にも探してほしいもんがある、とは言いましたけども」
「たったそれだけの情報で・・・」
「それだけじゃないよ。あの通路で、猛馬さんの手元をよく見たから。なんで指輪が4つしかないのか、考えたんだよ。で、思いついたの。もしかしたら元は9本セットで、残り5本はなくしちゃったのかも、って」
「意外に推理力あるじゃねえか。かなりいい線いってるぜ。正確には、まだこのセットは未完成だ。全部そろえば、9本組になるはずだった」
「なのに、5本も行方不明になっちゃったんだ」
「ああ。兄貴との約束じゃ、5年ごとにひとつ、受け取るはずだった」
猛馬が初めて狼範から指輪を受け取ったのは、30歳の誕生日。それから5年ごとにひとつ指輪を受け取ってきた。現在、猛馬の両手にはめられている指輪は30歳から45歳までの間に受け取った四つだ。
「9つ受け取るのに45年もかかることはおいといて・・・はじめの4つは行方不明にならなかったんだよね。どうやって受け取ってたの?」
「手渡しだ。兄貴は毎回、裸の指輪を金庫から出して渡してくれた」
毎回、むき出しの指輪を渡されることになっていた。指輪をしまうケースは猛馬が用意した。45年かけて9本セットが完成することを前提に、なじみの骨董屋から指輪のケースを買って備えた。しかし兄の狼範は亡くなり、残り5本のありかはわからなくなってしまったのだ。
「猛馬さんが45歳の時って、お兄さんはまだ入院してたんじゃないの。4本めの指輪は、どうやってもらったの?」
「入院してても、症状の程度によっちゃ、外出は認められる。兄貴のやつ、弟の誕生祝いするっつって、院長を脅して外出許可をもぎとったらしい。それで事務所へ来て、金庫から出してくれた」
「へえ。その頃は、優しいお兄さんだったんだね」
院長を脅したのが事実ならあとで脅迫罪に問われたのかもしれないが、その動機が「弟の誕生祝いをするため」というのは、なんともほほえましい。院長を殴りつけていたら病院にはいられなくなっているはずだから、退院するまで病院にいたということは、さすがに殴ってはいないのだろう。
「ああ。おれの兄貴は優しい。あと25年は、おれを見守るつもりでいたんだ。なのに、ああなっちまって・・・本当に、残念だ」
「お兄さんがそうなったのは、頭の傷が原因でしょ。だったら、氏神さまの仕業じゃない?」
「は? そんなわけ・・・」
「あの氏神さまが、あんなに目立つ傷を放っておくと思う? お兄さんの傷が治されなかったのは、氏神さまにつけられた傷だからじゃない? そう考えたほうが自然だと思・・・猛馬さん?」
わずかの間に猛馬の顔から血の気がひき、脂汗をかいていた。
「組長!」
屋蓑が猛馬の肩に手をのばした。
「さわるな」
屋蓑の手には目もくれず、猛馬はうつむいたまま言う。いまだ脂汗をかいてはいるが、早くも顔色は元通りだ。しかし体調が良くなったようには見えない。視線を床にむけたまま、誰とも目を合わせてくれなくなった。
「あのアマ、まさか・・・」
「組長、どうか、お気を確かに。応太の思いつきです、それが真実とは限らねえでしょう」
「あのアマ、なにが氏神様だ。本当だったら、ゆるさねえ」
「帰ってきたら、本人にきいてみたら? 案外、ただのわがままな邪神かもよ」
「バカ言うな! うちの氏神様が、そんな野郎なわけが」
「うちのじゃねえ。熊倉家のだ。あのアマが護ってるのはこの組じゃねえ。あいつは、おれの一族しか護らねえんだ。だが、それも・・・」
「組長。とにかく、氏神様のお帰りを待ちやしょう」
組長の気分が落ち着いたのを見計らい、屋蓑は自分のハンカチを組長へさしだした。ハンカチを受け取った組長は顔の汗をぬぐってハンカチを屋蓑へ返す。それから深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「そうだな。今は待とう。あの『通路』の野郎がどうなったのかも知りてえからな」
結論から言えば、応太と氏神は生きて帰った。応太は条件をのんだとみなされ、家へ帰ることを許可されたのだ。一方の氏神はなんと『8番通路』こと無限回廊に勝利し、ほんの数日で熊倉組事務所へ凱旋した。『8番通路』の中心にあたる「4番通路」の半ばから真っ二つに引き裂いて無へ環したのだという。意外にもあの通路の弱点は中心点だったらしい。氏神いわく「あの回廊には意識があったようじゃが、存在率に偏りがあるとは未熟なものじゃ。我の敵ではなかったわ」とのこと。
応太はあの骨董屋で働き続けている。この一件で亡き狼範のステッキを捜し当てた店主の評判が広がり、暴力団や警察から協力要請がくるようになり忙しくなってしまったが、そのおかげで以前より儲かるようになったらしい。気のいい店主は応太の時給を上げてくれた。
屋蓑と陳平はいつもの生活に戻った。屋蓑が組長の置き手紙を捏造しておいたおかげで、猛馬に連絡できなかった理由が深く問われることはなかったという。屋蓑は置き手紙を書いた報酬として「組長に質問する権利」を与えられた。そこで屋蓑は「手袋で拳タコを隠しているのはなぜか」と尋ねた。猛馬は「手袋は、拳タコを隠すためではなく指輪が抜けないようにつけている」と答えたらしい。どうやら狼範は猛馬の指のサイズまでは注意していなかったようだ。猛馬が持つ指輪はどれも素手だと大きすぎてすぐに抜けてしまうらしい。それを防ぐために猛馬は年中手袋をつけることになったとのこと。これは幹部の屋蓑でも知らないことだった。
狼範が遺した五つの指輪は、金庫の奥にある隠し扉のなかにあった宝石箱からみつかった。金庫にある隠し扉の存在は狼範の遺書にさえ書かれておらず、組員一同は非常に驚いたという。妙に推理力のある応太の提案に従い、金庫の「奥」を調べてみたのは正解だった。
猛馬はまだ氏神に「兄を傷つけたのはあなたなのか」とは問うていない。猛馬と応太は話し合い、この問いを氏神にぶつける時には応太も同席すると決めた。応太は、いざとなれば神棚に火炎瓶を投げつけてでも氏神を滅するつもりでいる。猛馬も腹をくくった。氏神が兄を傷つけたのなら、事務所を焼き払ってても縁を切ると。加護を受けられなくなるのは覚悟のうえだ。
こう考えるとまだまだ問題は山積みだ。しかし、人間対「8番通路」の戦いは人間側の勝利に終わったので、一件落着と言えるだろう。
猛馬と応太の人生はこれからも続いていく。ふたりが心底から怖れるものはA-setの死より他にないが、今をときめくあせとんちゃんが死ぬことはありえない。応太たちが通路を脱出して半年後には、初の単独ライブを開催したのだから。
猛馬と応太は確信している。彼女が命を落とさない限り、どんなことでも乗り越えられると。 END.
更新履歴:2025/11/22 「事務所と氏神様」をアップして完結。