ロマンというほどでもない

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【TKC】二次創作 富入と産怪の子

目次

 

読者のみなさま、こんばんは。エッセイをお求めのご新規さんにもレビューをお求めの古株さんにも申し訳ないんですけど、またゲームの二次創作小説を投稿させてもらいます。今回は都市伝説解体センター×産怪です。地の文は三人称で書いていますが主役は私の推し、富入さんです。富入さんにも謝らないといけないな。いや、最初は富入さんのアクスタのポーズ(⇩)を見て「左肩を見ているように見える。ここにリスとか乗ってたらエモいかも」とか思っただけなんですけど。

ご自分の左肩の上を見ているように見えるポーズ。

どうしてこうなった。いや、それというのも富入さんがオネエ言葉と相まって母性があふれてるからなんですけど。コミカライズ版ではピアスと柄付きネクタイで指が細くて少し女性的な外見にされてますし(髪型は男性だけど)。極めつけはあれですね、ゲーム本編の「これでも愛情深いの」というセリフ。自分で言うなやというセリフですが、なんか母性があふれてて好きなんですよね。ノベライズではジャスミンの肌荒れを心配してたし。思うに富入さんが振り回してるのは父性的な権力じゃなくて母性的な愛情なのでは。日本国への愛があの人を警察官にならせたのではないかと…おっといかん。これ以上話が脱線する前に、そろそろ本編に入りましょう。私の癖で書かれた部分には興味ない人は目次から「5、彼女は話のわかるボスだそうです」までジャンプしてください。もしも如月歩が富入さんとジャスミンに対面していたらどうなっていたかを考えて書いてみました。

本編前にひとつお断りしておくと「産怪」は私の創作ではなく既存の妖怪です(⇩)

「13人目に産んだ子が悪魔だった?」人の胎内から生まれた怪異伝承 - 草の実堂

 

お待たせしました。それでは本編(約5万4千字)いってみよう!

 

富入と産怪の子

1、こうしてこの「子」はうちへ来ました

 未確認テロ対策ユニットの機動隊と局長の富入順蔵は、山間にある3階建ての廃病院前で突入の準備にかかっていた。時刻は真夜中近いが、あたりに民家はないので一騒動あっても善良な市民の睡眠を妨害することはないだろう。
「局長、総員配置につきました。突入準備完了」
「よろしい。では、突入。ジマーの残党を捕らえよ」
「はっ。前衛隊、突入!」
 テロリスト一派「ジマー」からの反撃に備えて完全武装した機動隊が隊長の号令でいっせいに動き、バリケードがつくられた廃病院のゲートに突撃した。「ジマー」を名乗る連中はテロリストといっても素人に毛が生えた程度の輩で、ゲートにつくられたバリケードも廃材の寄せ集めだ。防護服で身を固めた機動隊がそこを突破するのに大して時間はかからない。板切れがへし折られ、コンクリート片が砕かれ、古びた手術台やベンチが脇へ押しのけられる。機動隊はほんの3分ほどでその障壁を突破した。
「素人細工ね」
 前衛隊が建物のなかへ侵入したのを見届けた富入は、少数の後衛隊とともにゆっくりと廃病院へ足を踏み入れた。まったく通電していないらしくあたりは闇に包まれている。今回のジマー達には発電器を調達するルートも、通電させて照明を復旧させるだけの技術もないようだ。トラップは警戒するべきだが、火薬や電気を使う高度な罠はしかけられていないだろう。
『局長。奴らが立てこもっている部屋の前に到着しました。突入してよろしいでしょうか』
 早くも最上階へ到達した前衛隊長から通信が入った。いつも通りの淡々とした声音だ。容易にその部屋へ到達できたことから察するにこれといったトラップはなかったらしい。
「呼びかけは?」
『しました。しかし応答はありません』
「その部屋で間違いないか」
『サーモグラフィーでも確認しました。この部屋で間違いありません』
「呼びかけを無視されたなら仕方ない。突入後に交渉を提案されても無視しろ。半数は暗視ゴーグルをはずせ」
 素人がろくな準備もなしにできる抵抗などしれているが、だからこそ、手軽にできる暗視ゴーグル対策は警戒するべきだ。強烈な照明器具ならダークウェブなど使わずとも容易に入手できる。おそらく、隊員たちの突入と同時に最大光量の明かりをくらわせて目潰しを狙ってくるだろう。この程度のことは隊長もわかっているだろうが、念のため指示しておいた。
「奴らを確保したらまた連絡しろ。以上、準備ができ次第、突入」
『はっ』
 前衛隊長からの通信がいったん切られた。なかにいる連中はものの数分で確保されるだろう。
「これで何件目かしら。全く、嫌になるわね」
 前衛隊のあとを追って静かに歩みを進めながら、思わず独り言をこぼす。警視監という階級は本来、もっぱら机仕事に従事し、現場へ来ることはめったにない。しかし富入は未確認テロ対策ユニットの局長を務めているゆえに、対テロリスト戦では現場へ来て指揮をとらねばならない。同じ現場に立てば機動隊員たちからの信頼は篤くなるが、そのかわり自分の身も危険に晒される。富入が弱冠40歳で警視監に抜擢されてから2年と少ししか経っていない。成すべきことを成す前に命を落とすわけにはいかないので、現場では慎重に動かねばならない。
『局長。奴らを確保しました』
 予想通り数分後に入った通信に、富入は足を止めた。
「よろしい。では、全員連行。先ほど突破した正面ゲートから外へ」
『はっ』
「後衛隊、止まれ。ここで前衛隊を待つ」
「はっ。全体、止まれ!」
 後衛隊長の号令で全隊員が足を止め、富入のまわりを固めた。万が一、ジマー達が拘束をふりほどいて局長へ攻撃を試みた場合に備える。
「見えました。前衛隊です」
 10分ほどして、後衛隊長の暗視ゴーグルに前衛隊の姿が映った。先頭は前衛隊長で、そのすぐ後ろには、拘束されて隊員たちに引き立てられるジマー達が見える。ダークウェブに出入りしている輩ときいて身構えていたが、海外のテロリストが装備しているようなものは身につけておらず、ありふれたスポーツウェアしか着ていない。前衛隊に武器を取り上げられた今となってはまったく脅威ではないだろう。
「局長。前衛隊、戻りました。ジマーどもを全員捕らえました」
 前衛隊長が富入へ報告した。部屋にいたジマーの人数は事前にサーモグラフィーで確認した人数と一致しているので、取り逃がしはない。
「ご苦労。負傷者は?」
「いません。どちらにも」
 ジマーたちはこちらが警戒したような照明器具は持っていなかった。前衛隊員の目は焼かれず、ジマー達はおとなしく無抵抗で捕まってくれたので彼らも無傷だ。機動隊は警棒も銃も持ってはいるが使わないで済むならそれに越したことはない。
「そうか。では、このまま護送車へ」
「はっ。ジマーどもを護送車へ!」
『はっ』
 前衛隊がジマー達を連れて再び歩き出す。今回のジマー達は5名。これでもジマーのなかでは大きな集団だ。ジマー達は同じ「ジマー」を名乗りつつも結局は個人の集まりで、統一された組織ではない。連帯感が乏しいようで連携がとれておらず、小さなグループをつくっては離散することをくりかえしている。今回の5名も互いに長いつきあいではなく、作戦のため一時的に集まったのだろう。あっさり捕まったのはメンバー同士の愛着がないせいか。
「よかった。今回も無事に、うぐッ!?」
 ジマーの最後の一人が廃病院から出される直前、富入は強い吐き気に襲われ、とっさに手で口を覆った。腹のなかに強烈な違和感がある。どうやら自分の体は、急に体内へ出現した異物を吐き出そうとしているらしい。
「キサマ、何をした!?」
 後衛隊長がジマーの襟首をつかんで詰問した。このジマーはグループの指示役だった男だ。
「な、なにもしてませんっ」
 フィクションの悪役よろしく高笑いした後「ひっかかったな。それは我々が仕掛けたものだ。その正体は…」とでも言ってくれればまだ楽だったものを、このジマーは怯えるばかりでなんの情報も持っていない。
「くそっ。ガス漏れか!? 後衛隊、計器を確認しろ!!」
 ジマーの襟を放して突き飛ばした後衛隊長は隊員に指示した。
「ガス、放射線ともに反応なし。計器の数値に異常はありません」
 指示を受けて計器を確認した隊員は淡々と答えた。装備している計器を見る限り、成人が急激に体調を崩すほどの異常は見当たらない。
「なんだと!? だったらなぜ…」
「だい、じょうぶ、よ。早く、彼らを、護送車へ」
「局長。ご無理はなさらないでください。奴らは我々が連行しておきます。局長はすぐに病院へ。近場の警察病院へ連絡して、救急車を出してもらいましょう」
 局長を気遣った後衛隊長が声をかける。つい先ほどまでなんともなかった局長が、急に体調を崩されたのだ。ジマー達が仕込んだものではないのなら、なおさら病院で検査したほうがいい。計器でも検出できない新種の毒性物質の可能性がある。
「連行は任せるわ。病院はけっこう。悪いけど、自宅へ直帰させてもらいます」
 富入の吐き気はまだ収まっていないが、精神はなんとか持ち直した。それと同時に直感する。おそらくこの異物は物理的なものではない。毒性物質というよりは、何か霊的なもののような気がする。
「わかりました。わたしが、ご自宅前までお送りします」
 後衛隊長は運転手を務めることにした。局長は意志のお強い方だ。一度「病院へは行かない」と判断なさったら、部下が何度「病院へ行ってください」と言っても無駄だろう。医師の診察は受けずにご自宅へ直帰したいとおっしゃるのであれば、お送りするしかあるまい。
「後衛隊は前衛隊に合流させましょう。指揮権を統合しても?」
「許可します」
「ありがとうございます。前衛隊長!」
「聴いている。ジマーの連行と、後衛隊は引き受けた。局長をお送りしろ」
「はい。局長、動けますか」
「ええ。車までなら大丈夫」
 我らが局長である富入警視監は女性のような独特の口調で話すことで有名だが、現場で指揮をとられる時には男性的な話し方をする。それなのに今は平時の口調に戻ってしまっている。言葉のうえでは「大丈夫」とおっしゃっているが実際のところかなりご気分が悪いのだろう。早くご自宅にお届けしたいところだが、警察官がスピード違反するわけにはいかない。
 後衛隊長は局長に肩を貸し、慎重に覆面パトカーのそばへお連れした。警視監が助手席に乗り込まれたのを確認し、自分は運転席へ座ってシートベルトをしめる。
「悪いわね」
「いいえ。お気になさらないでください」
 長年、警察官を務めているとつい「優秀であること」と「頑強であること」を混同してしまい、無意識に階級と免疫力は比例すると思い込んでいる。警視監のなかでは歴代最年少の富入局長はまちがいなく優秀なお方だが、だからといって特別ご病気にお強いわけではないだろうに。
「なんというか、けがされた気分ね…」
 腹の異物は「そこにある」というより「ここにいる」感覚だ。誤って毒物を吸ってしまったのではなく、意志のあるものが、自分の腹に何かを植え付けたような気がしてならない。
「はい?」
「シートベルトはしめたわ。出してちょうだい」
 富入はこの感覚を説明しない。下手に説明を試みれば体調に重ねて精神面の不調まで疑われかねないからだ。
 後衛隊長は静かに覆面パトカーを発進させた。いっそパトランプとサイレンをつけて緊急車両として走行しようかと考えたが、局長に止められる気がしてやめた。

 後衛隊長は局長のご自宅前に覆面パトカーを停車させた。
「局長。ご自宅に着きました。玄関前までお連れしましょうか」
 局長の体調がまだ優れないようなら、車を降りて肩をかしたほうがいいだろう。門扉から玄関までの間に倒れてしまわないか心配だ。
「ここで大丈夫よ。車を戻しておいてちょうだい」
「承りました。お大事に」
「ありがとう」
 富入は後衛隊長に礼を言ってから車を降りた。背後にいる部下に心配かけないよう背筋をのばし、何事もなかったかのように門から玄関前まで歩く。懐から鍵を取り出して開錠し、ドアを押し開く。まだ車を出さず見守っている部下に軽く手を振り、家へ入る。どれも慣れきった動作のはずなのに、いちいち重く感じた。まるで水のなかで動いているかのような、妙な抵抗感がある。富入は玄関の上り口に腰掛けた。普段なら靴べらを使って立ったまま靴を脱ぐのだが、今はもう立っているだけの気力がない。
 富入が家へ入るのを見届けた後衛隊長がようやく車を出したらしい。遠ざかるエンジン音が聞こえた。
 上り口に座ったまま靴を脱いでいた富入は部下が去ったことに安堵した。なんとか立ち上がって手袋をはずし、シューズボックスの上へ置いてから寝室へむかう。今夜はシャワーをあきらめ、着替だけして眠ることにした。吐き気は少し弱まったが、まだ収まっていない。一眠りしたら収まっていてほしいところだ。
 富入は片手を壁につきながら寝室まで歩き、寝間着への着替えを済ませ、寝台に横たわった。いつもなら脱いだ衣類を洗濯機に入れるところだが明日の朝でもかまわない。
 ありがたいことに、横になると吐き気はかなり減じた。これなら眠れそうだ。明日、朝日を浴びてなお吐き気が消えなかったら、近場の神社へ行って神主にでも相談しよう。今はとにかく体を休めることが優先だ。
 ようやく気をゆるめた富入は眠りに落ちたが、二時間ほどで目を覚ました。何かが腹から這いだしてくる気配を感じたからだ。「腹のなかに何かいる」という感覚は正しかった。
 明日になれば退治されることを察して急いで生まれたのかもしれない。ヒトでいう早産にあたるせいか、腹から出た「何か」の気配は弱々しい。それでも、仰向けのまま目を閉じてじっとしている富入の腹から胸へ、ゆっくりと這い進んでいる。
 これはおそらく人間に仇成すものだ。今のところ殺意は感じないが、たとえ生みの親には無害でも、他の人間には有害だろう。「これ」を今すぐ叩き殺すべきだという思考が去来するなか、まずは姿を確かめようと瞼を上げ、左胸にいる「何か」に目の焦点を合わせた。
 見えたのは異常に愛くるしいリスのような小動物。いや、正確には「リスのように見える何か」で、小動物ですらない。なぜなら「それ」の姿は少し透けていて、カーテンの隙間からさしている月光は反射せず、そのまま体を通り抜けているからだ。
 腹をかしてくれた「親」が目覚めたのを知った「それ」は富入と目を合わせた。温かな命の気配に惹かれて心臓のうえにうずくまっていたが、このまま朝日を浴びたらどうなるのか不安だった。だから目を覚まして自分を見てくれたことがうれしい。
 この愛くるしさは計算されたものだ。誰しも姿を見る前は気配から「これは有害なものだ」と察するも、ひとたびこの姿を見ればその愛くるしい外見に殺意を削がれ、殺すのをためらう。明日にも神職に会って退治を依頼しようとしていたことなど、すぐに忘れるだろう。
 気配の正体を見た富入は寝台から半身を起こした。富入の左胸にいたそれは左肩へよじ登る。富入は左肩にうずくまったそれに声をかけた。
「あなたは本来殺されるべきものなのよ、わかる?」
 酷薄ながらこれが、富入がそれへかけた最初の言葉になった。いくら愛らしい外見をしているとはいえ、人間に対して有害なものにはちがいないのだ。その事実を忘れてやるつもりはない。
「ぎぎゅっ」
 それはできるだけ愛らしく応えた。先ほどの言葉は意味に反して殺意が感じられない。どうやらこの親も自分の愛らしさに絆されてくれたらしい。
「まあ。お返事できるのね。お利口だこと。でも、だめよ。どんなに抵抗されても、絶対に洗います」
 殺すことはいつでもできる。なにも今すぐでなくてもいい。かりにも自分の腹から生まれた個体なのだ。わずかでも自分の性質を継いでいるのなら、少しは理性もあるだろう。ヒトの子のように教育できるかもしれない。そのためにもまずは洗い清めて浄化し、無害化をはかる。無害化できたら根気強く言葉を教え、人を襲わないよう育てる。ただし、けっして名は与えない。そして、育て損なったと判断したら殺す。富入はここまで決意してから、初めて「我が子」にふれた。
「あら。あなた、生まれたてなのに乾いているのね」
 言いながら指先でそっと頭をなでると、それはうれしげに鳴いた。親になでられるのは好きらしい。意外にも体毛の密度は高く手触りが良い。
「逃げずに留まっているのは、保護が必要だからね?」
「ぎゅっ」
 それは肯定の意を込めて鳴いた。実際「自分たち」は人の腹をかりなければ生まれることができず、急いだせいで弱く生まれた自分は親の手をかりなければ成体になることもできない。
「気の毒な生態ね。まるで託卵のよう…あなただって、好き好んでそう生まれたわけではないでしょう」
「ぎゅうう」
 まったくもってその通り。この生態は繁殖において不便極まりないし、親に愛されることはめったにない。自分だって、選べるものならありふれた動物に生まれたかった。
「生まれてくること自体は罪ではないわ。人を襲わないうちは存在を許します」
「ぎゅっ」
 それは再びうれしげに鳴いた。
「話しすぎたわね。とりあえず、夜が明ける前にあなたを洗いましょう。移動するから、しっかりつかまっていなさい」
 それが「生まれた」のと同時に吐き気は収まっていた。自分の体は体内の異物を排出しようとしていただけで体外に出たものへの拒否反応はないらしく、なでた指先にはなんの異変もない。体調が回復した今なら問題なくこの子を洗えるだろう。
 富入はそれと共に寝室を出て、まずキッチンへむかった。この手のものを浄化するには銀と塩を使うのが定石だ。
「塩…ピンクソルトか藻塩か。岩塩よりは、海塩のほうがよさそうね」
 山から削り出されたものよりも、海で採られたもののほうが洗浄力が強そうだ。富入は藻塩の袋を手に取る。続いて、引き出しから銀のナイフを取り出した。富入が持つカトラリーはどれも手入れが行き届いており、黒ずみやすい銀製品も輝きを保っている。
 塩とナイフを持った富入は洗面所へ行く。洗面台に栓をして蛇口をひねり、銀のナイフを傍らに置いた。このナイフは食事用なので切れ味はほどほどだが、手持ちのカトラリーのなかではもっとも鋭く尖っているものを選んだ。切ることはできなくても突き刺すことはできるだろう。
「はじめに言っておきます。ひとつ、私を噛んだらあなたを殺す。血の味を覚えたものを生かしておく理由はありません」
「ぎっ」
 洗面台にぬるま湯がたまっていくのを見ながら伝えると、左肩にいるそれは不満げに鳴いたが富入はとりあわない。
「ふたつ、暴れたら捨てる。寒空に放り出されたくなければ、じっとしていることね」
「ぎぎぃ」
 それはまた不満げに鳴いたが、富入の視線は冷たい。
「静かになさい。これでも情けをかけているの。市民の守護者のひとりとしては、あなたのようなものを見過ごすわけにはいかないのよ。それでも生かしてあげると言っているの。私の慈悲に感謝して、おとなしく洗われなさい」
「ぎぃ…」
 この外見だけで完全に懐柔できたわけではなかった。思い返せばまだ一度も「かわいい」と言われていない。生まれてすぐに殺されなかったことからして少しは効いているのだろうが、塩水で洗われる痛みに耐えて無害さを証明しなければ育ててもらえない。ここは耐えるしかない。
「とにかく、あなたが身にまとってきたものは、ここで洗い流します」
 宣言した富入は再び蛇口をひねって湯を止め、持っていた袋の中身を半分ほど入れ、手でかき混ぜた。投入した藻塩はすべて溶かせた。あとはこの子を左肩から引きはがして、このぬるま湯につっこむだけだ。
「覚悟はいい? 痛むかもしれないけど、耐えるのよ」
「ぎっ」
「大丈夫。あなたは私の子なんだから。きっと耐えられる」
 富入はそれをはげました。左肩にいるものは痛みを想像しているのかして早くも震えているが、善性が欠片もないとは思えない。塩水で洗ったら今より縮むかもしれないが、少しは残るだろう。もしも完全に消えたらそれはそれで世話が省けて良い。どちらにせよ洗わずに放置するという選択肢はない。
「それじゃあ、いくわよ」
 富入は右手で左肩のうえにいるものをつかみ、洗面台にためた湯につっこんだ。
「ぎぃぃぃぃッ」
 湯につけられたそれは全身に走った痛みに悲鳴をあげ、思わず冨入の手にしがみつく。しかし爪も歯も立てない。どれだけ暴れようと条件は変わらないのだから。
「本当に、お利口だこと」
 肩に爪を立てられるかと思ったが、それは無抵抗でつかまれた。今は歯を立てることもなく、おとなしく湯のなかにいる。噛むな、暴れるなという言いつけは理解しているようだ。言葉を教えるといっても、生まれつきヒアリングはできるらしい。
「だったら、教えるべきは発音ね」
 つぶやきながら我が子を洗う。やはり痛むようでそれはぎぃぎぃと鳴き続けているが、鳴き声に含まれている抗議や非難の意は無視してひたすらに手を動かす。
「少し縮んだかしら」
 見る間に、というほどでもないが洗っているうち徐々に縮んできた。よく見ると湯がうっすら灰色になっている。ここらでいったん湯を抜き、ゆすいでやったほうがいいだろう。
「一回目はおしまい」
 冨入は洗面台の栓をはずして灰色になった湯を抜きながら、我が子を冷水でゆすぐ。
「ぎぃ?」
「そう。まだ、一回目よ。二回目もあるから覚悟しなさい」
「ぎ…」
「嫌がってもやめません」
 この親にはとりつく島もない。「市民の守護者」とやらのなかでは比較的慈悲深い人間なのだろうが意志は堅く、人外に対しては容赦がない。下手に抵抗すればすぐ傍らに置いたナイフを手に取り、迷わず突き立てるだろう。そうされたら死ぬ他なく、死にたくなければじっとしているしかない。
 冨入はまた洗面台の栓をして湯をため、袋から藻塩を注ぎ入れて混ぜた。この作業には両手を要したが、己を押さえる手が離れてもそれは逃げることなく留まり、塩分濃度の高まりに耐えた。
 これでもうあの袋は空だ。さすがに三回目はない。この回で終いだ。終わりがわかっていれば耐えられる。この浄化にも、これからの長い命にも。もう悲鳴はあげない。
「えらく静かになったわね。慣れたの?」
「ぎぃ」
「そう。もう少しの辛抱よ」
「ぎゅっ」
 冨入はまたそれを洗った。それが洗われることに慣れたように、冨入はそれを洗うことに慣れた。我ながら先ほどより手際よい。
「茶色い毛皮。長いしっぽに長い耳。尖った口と、つぶらな瞳。前足には指が5本。後ろ足は…4本かしら」
 洗いながらそれの細部を確かめる。少し耳が長い他はこれといって異常は見当たらない。足の数は前足2本と後ろ足2本の合計4本で、数が多すぎるわけでも少なすぎるわけでもない。生物学者でもない限り、これを「ただの動物ではない」と見抜くことはできないだろう。
「そもそも、一般人の目に見えるのかしら。霊感がないと見えない? 聖職者なら気配でわかるのかしら。ああいう人たちでも、全員が霊感持ちではなさそうだけど」
 今夜の自分はいつになく独り言が多いが、山積した疑問は整理しておきたい。
「もしかすると、この手のものを育てようとすること自体、初めての試みかもしれないわね」
 成熟していれば母体の命を奪って生まれ、すぐに逃げる。弱って生まれれば異物として捕まり、即座に殺される。どちらの場合であれ「人間の手で育てられる」ことなど稀だろう。
「私の子に生まれるなんて、あなたは本当に運がいいわね…また少し縮んだかしら」
 はじめそれは右手で胴体をつかめるほどの大きさだったが、今では両手のなかに収まるほどに小さい。
「最後のすすぎね」
 冨入はまた洗面台の栓をはずしてぬるい塩水を抜きながら、再び我が子を冷水でゆすいだ。
「ぎぎぃ」
 冷水を浴びせられたそれは機嫌が良さそうだ。塩水には苦痛を感じてもただの水なら平気らしい。
「かなり縮んだけれど、消え去りはしなかったわね」
「ぎっ」
「悪しきものではないのか。あるいは、ただここにいたいのか」
 今ではその両方なのかもしれない。浄化を受けてなおこの世にいたいというそれ自身の願いが、それをここに留めたのだろう。
「洗いはお終い。次はタオルね」
 冨入はそれを洗面台で待たせ、備え付けの棚から柔らかな新品のタオルを取り出した。今日からはこれを我が子専用にしよう。
 それは濡れたままおとなしく洗面台で待っていたが震えていない。寒さは感じないようだ。頭からタオルをかぶせ、まずは全体をわしわしと拭く。
「ぎゅー」
「あら。拭かれるのは好きなのね」
 それは柔らかなタオルの感触が気に入ったらしく鳴き声はうれしげだ。頭が見えるようにタオルをずらして、次は足の先を拭く。
「指を広げなさい。指の間こそきちんと拭かないと」
「ぎゅ」
 それは前足と後ろ足の指を広げた。冨入は我が子の小さな指を折ってしまわぬよう力加減に注意しながら拭いていく。
「指示に従ってくれると助かるわ。最後に関節の裏ね。足をのばして」
「ぎゅっ」
 指示通り足を4本とものばして関節の部分を拭いてもらう。もちろん、しっぽの付け根も。
「次はドライヤーを使いたいところだけど。風は大丈夫かしら?」
「ぎゅ?」
 それには「どらいやー」という語の意味がわからない。抽象的なことならよくわかるが、逆に具象的なことはよくわからない、というか知らない。自分はこれからたくさん言葉を覚えないといけない。
「静音タイプなのだけど、風量は強めだから。気をつけないと」
 冨入は湿ったタオルを洗面台のふちにかけ、引き出しからドライヤーを取り出し、コードについているプラグを壁のコンセントに差し込んだ。ダイヤルを温風に合わせ、風量を最少に設定して電源を入れる。
「ぎっ」
 それは動きだしたどらいやーを警戒した。先ほどまでただの物体だったのに今やエネルギーを持ち、動物のように内部が動いている気配を感じたからだ。どらいやーというのはあの生き物のことらしい。
「なにも警戒することはないわ。これは機械だから」
「ぎ?」
「生き物ではない、ということよ。通電している時だけ動くの。普段はじっとしているわ。噛みついたりしないから大丈夫よ」
「ぎぃ?」
 やはりよくわからない。生き物でもないのにエネルギーを消費して動くものがあるとは思えない。けれど、親が嘘をついているようには見えない。ということは、どらいやーは生き物でないのか。
「今から風を当てます。じっとしているのよ」
 どらいやーの口がむけられたと思ったら、温かい風が顔に当たった。
「ぎゅい…」
 恐くも熱くもないが、なんとも不思議な感覚だ。今まで無数に生まれてきた「自分たち」のなかでどらいやーの風を感じたことがある個体はどれほどいるのだろう。もしかしたら自分が初めてなのではあるまいか。
 冨入は我が子の反応を見て思い至る。自分にも初めてドライヤーを認識した時があったはずだと。幼い頃、父や母が初めてドライヤーで自分の髪を乾かしてくれた時、自分はどんな反応をしたのだろう。
「あなたの毛は密度が高いから、乾かすのは大変そうね」
 つぶやきながらも手は止めず、それの全身にまんべんなく温風を当てていく。
「あら? 意外と乾きは早いわね」
 毛の感触はチンチラ並みなのに、意外にもすぐに乾いた。
「はい。これでお終い。よく耐えたわね。いい子」
 冨入はそっと我が子の頭をなでた。
「ぎゅぎゅっ」
 初めて「いい子」と言われてそれはとても機嫌がよくなった。ほめられたのは、受け入れられたからだろう。この親は自分のことを気に入ってくれたのだ。
「お互い疲れたわね。休みましょう。おいで」
 ドライヤーを片づけた冨入が手をさしのべると、それはうれしそうに飛び乗って、左肩へ駆け上った。体が小さくなった分、先ほどよりも俊敏だ。
「すばしこくなったわね」
「ぎゅっ」
 それは軽くなった体が気に入った。小さくなるのも良いことだ。「自分たち」はただの動物とちがって可変性があり身体の大きさに制限はないものの、大きければいいというものでもない。
「小さいほうがいいわね」
 今のほうがかわいいという言葉はとっさに飲み込んだ。「かわいい」と言ってしまったが最後、どうしても殺せなくなりそうだから。
 冨入はそれを連れて寝室に戻った。夜明けまではまだ時間がある。
 せめて仮眠をとろうと横になったら、いつも通りの時間に目が覚めた。こんな時でも目覚まし時計の世話にならないで済むとは、さすがは自分だ。幸いにして吐き気はすっかり収まっている。問題なく出勤できそうだ。
「よかった。体調は良くなったわね…あら? これは」
 寝台から半身を起こした冨入がふと枕の横を見ると、見慣れないものがあった。薄茶色で柔らかそうな毛に覆われていて、丸い。これはいったいなんだろうと思いながら指先でそっとふれると、それは身動きし、鳴いた。
「ぎゅ」
 それは丸まった小動物だ。いまさっきまで枕の横で眠っていて、親にさわられて目を覚ました。枕の真横にいれば潰されないからそこで眠りなさいと教わったから、ここいる。上目遣いで親と目を合わせ、引き続き保護を乞う。
「ああ。あれは、夢じゃなかったのね…どうしたものかしら」
 吐き気の原因はこの子だったことを思い出した。我が子には悪いが夢であってほしかった。この子を連れて出勤するわけにはいかない。
「留守番してもらうしかないわね。おいで。私の肩に乗りなさい」
「ぎゅっ」
 それはできるだけ愛らしく鳴いてから親の左肩へ駆け上った。
「たしか、どこかに蠅帳が…」
 また我が子を連れて寝室からキッチンへむかう。それは冨入の左肩を定位置にしたらしく、機嫌よく乗っている。小さくなったあとのほうがしがみつきやすく、姿勢が安定しておちつくようだ。
「あった。次はランチョンマット…」
 戸棚の奥から久しく使っていない蠅帳を、引き出しからランチョンマットを取り出してダイニングテーブルの中心に置く。
「あとは、食べ物と…トイレも必要かしら。しかたないわね」
 我が子の食べ物に冷蔵庫からマカロンを数個取り出して小皿に乗せ、ランチョンマットの上に置いた。続いて戸棚の下段から新品の灰皿を出す。大理石でできた立派な灰皿だが大きいうえに重く、今まで使い道がなかった。
「何度見ても、ペーパーウェイトには大きすぎるわね」
 こんな灰皿は安っぽいサスペンスドラマの凶器くらいにしか使えないだろう。犯人が発作的に被害者を殴り殺す鈍器にしか見えないし、冨入は煙草を吸わない。センスが合わないうえに実用性もないので、数年前のお歳暮で送られてきたきり、しまいっぱなしにしていた。贈り主には悪いがこれを使わせてもらおう。
 重い灰皿に数枚のティッシュを詰め込み、これもランチョンマットの中に置いた。
「最後は寝床ね」
 つぶやいた冨入は洗面所へ行き、洗面台のふちにかけていたタオルを回収した。これを持ってダイニングへ戻り、軽く丸めてランチョンマットの角に置く。あとはこの子を入れて蠅帳をかぶせるだけだ。
「できたわ。さあ、降りなさい」
「ぎゅ?」
 親にうながされたそれの鳴き声には疑問符がついている。なぜ降りないといけないのかも、どこへ降りるのかもわからない。
「降りなさい。あなたの居場所はこのマットの上よ」
「ぎゅ…」
 降りる場所はわかったし、降りないといけない理由もわかってきたが、だからといって降りたくはない。
「降りなさい。言うことをきかないと捨てるわよ」
「ぎっ」
 またしても親に脅かされ、育ててもらう条件が増えてしまった。
「あなたまさか、私に愛されてると思ってるの? 愚かね」
「ぎぃ!?」
 「愛している」どころか「かわいい」とさえ言われていないが「私の子」「いい子」とは言ってくれた。だからすでに愛されていると思っていたのに、まさか愚かと断じられるとは。
「よくききなさい。愛と慈悲は、別物よ。人間はね、欠片も愛していない相手でも情けはかけられるの。情けは、愛とちがって長続きしないわ。生きていたければ私の指示に従いなさい」
 我ながら薄情な言葉だが、相手は人間どころかまともな生物ですらないのだ。これくらい突き放したことを言わないとつけあがり、指示をきかなくなるかもしれない。人を襲いかねないものを心から愛するわけにはいかない。
「わかったら降りなさい」
「ぎゅい」
 それがしぶしぶ親の肩からマットへ降りると、上から蠅帳をかぶせられた。
「私が許可するまで、そこから出てはいけません。いいわね?」
「ぎゅ」
 重りが乗せられているのはマットだけだから蠅帳はどかして出ていけそうだが、ここはおとなしくしておいたほうがいいだろう。でも、ここにあるものだけだとさみしい。
 上目遣いに潤んだ瞳をみせつけると、親は少しだけ同情してくれた。
「さみしそうね。何か、私の匂いがついたものがあったほうがいいかしら?」
「ぎゅっ」
 自分の匂いがするタオルだけでも眠れるけれど、親の匂いがするものがあったほうが安心できる。
「そう。それじゃ、手袋でもあげましょう」
 冨入はマットの上に我が子を残して玄関へ行き、昨晩シューズボックスの上に置いた手袋を取って戻った。蠅帳を少しだけ持ち上げて隙間から手袋を入れる。
「はい、どうぞ」
「ぎゅうっ」
 それは親から差し出された手袋を抱きしめた。身につけるものには匂いがつきやすい。この手袋には親の匂いが染み着いていて、嗅いでいるととてもおちつく。
「おとなしくお留守番するのよ。夜になったら戻るから」
 冨入は蠅帳を下ろした。
「お腹が空いたらそれを食べなさい。マカロンよ。私のお気に入りだけど、分けてあげるわ」
「ぎゅっ」
「聞き分けのいい子ね…あら、もうこんな時間。急がないと」
 ようやく我が子の世話を終えた冨入は急いで寝室に戻り、昨日脱いだ衣類を洗濯機へ入れ、手早く身支度した。残念ながら朝食をとっている時間はないので冷蔵庫から総合栄養バーを1パック取り出して上着のポケットに入れ、玄関で靴を履く。
「それじゃ、いってきます」
 長年独り暮らしをしている冨入がこの家で初めての「いってきます」を言うと、我が子がダイニングテーブルの上から元気よくお返事してくれた。
「ぎゅううっ」
 親が玄関ドアから出るのを見送ったそれは親がつくってくれた囲いのなかで考えた。あちこち動き回る自由は与えられていない。しかし考える時間はたっぷりある。だから、よく考えよう。自分の本性に従うべきなのか、それとも親の意向に従うべきなのかを。

「よし。逃げてないわね」
 帰宅した冨入はダイニングテーブルにつくった囲いのなかを確認した。我が子はおとなしく蠅帳の下にいてタオルにくるまり、手袋をだきしめて眠っていた。小皿に乗せたマカロンは完食されている。動物質でさえあれば加工食品でも食べられるだろうという予想が当たって一安心だ。マカロンを経由して焼き菓子に慣れてくれれば与えられるものが増える。一緒にお茶をして他の菓子も試そう。
「ぎゅ?」
 それは親の気配で目を覚ました。まかろんを食べながら考え続けていたら、疲れて眠ってしまったようだ。運動するより思考するほうが疲れることを知った。
「起きたのね。ただいま」
「ぎゅっ」
 親がちゃんと帰ってきてくれてうれしい。自分が一生懸命考えことを伝えたいけれど、まだ言葉を話せないのがもどかしい。
「あら。私としたことが、まだ手を洗ってなかったわ。洗面所へ行ってくるから、もう少し待っていなさい」
「ぎゅ」
 せんめんじょという言葉があの洗い場を指していることは覚えた。人間の住処はあちこちから水の気配がする。人間は頻繁に自分を洗うらしい。人間の体は汚れやすいのだろうか。
 少ししてせんめんじょから戻った親がやっと蠅帳をどけてくれた。
「狭かったでしょうに。おとなしく待っててくれたのね。いい子」
 親がまた頭をなでてくれた。ふれてくれるのは良いことだ。自分の存在に慣れてくれて、愛着を持たれているのだ。愛していないような口振りだったけれど、さわりかたは優しい。よく洗ってくれたし、乾かしてくれたし、生まれて初めての食べ物は甘くておいしかったし、よく「いい子」と言ってくれるから、少しは愛されているのだと思う。
「もう出ていいわ。夕食にしましょう」
 蠅帳をどかした冨入は我が子に手をさしのべた。実を言うともうすでに外で夕食を済ませている。今からするのはデザートを兼ねた茶会だ。この子の前では菓子か栄養バーしか口にしないと決めた。この子が血肉の味を知ることのないよう、食べ物=菓子だと覚えさせるために。

 

2、あの「センター」に相談しました

「なるほど。それで、純喫茶なんですね」
 富入の話を聞き終えた複来あざみは納得した。道理で、依頼人の冨入が店選びにこだわったわけだ。ナポリタンやオムライスなど食事系のメニューも出す店だと、ヒトが菓子以外のものを食べているところを見られて「あれも食べ物なのか」と学習されてしまう。だから、飲み物とお菓子しか出さない店を選ぶしかなかったのだ。
「でも、お菓子しか食べられないのは不便じゃないですか? 冨入さんの体調も心配です」
「不便ではあるのだけれど。意外と体調は良いの。もしかしたら、この子に守られているのかもしれないわね」
「どういうことですか?」
「この子の保護者でいる限り、私は不調にならない。そんな気がするの。それが、この種に元から備わっている能力なのかはわからないけれど」
「その子が守ってくれてるんだとしたら、すごいですね!」
「私の話、信じてくれるのね」
「もちろんです! まずは依頼人さんの言うことを信じないと、調査もできませんから」
 正直、センター長から「刑事の方から依頼がきました。まずは自分が幻覚を見ていないか確かめてほしいそうです」と言われた時は驚いた。依頼人はここ一月ほどリスのような姿の「我が子」と暮らしているが、ふと我に返り「この子は実在しているのか」と疑うようになったのだという。
「この子のこと、見える?」
「眼鏡をかければ見えると思います。ちょっと待ってくださいね」
 あざみがセンター長からもらった眼鏡をかけて冨入を見ると、左胸のポケットにリスのような小動物が見えた。頭と耳だけをポケットの外に出してきょろきょろとあたりを見回している様子がかわいらしい。
「わっ。かわいい」
「見えたのね?」
「はい。胸ポケットに、耳の長いリスみたいな子がいるのが見えます」
 あざみの力は「痕跡」つまり過去を見る力なので、この子の現在位置がそのまま見えているわけではない。痕跡で胸ポケットにいるのが見えているということは、今はそこにいないのだ。
「胸ポケット? 今、この子がいるのはここよ」
 富入は自分の左肩を指さした。今は肩の上にいるらしい。そのほうが視点が高くて視界が広いからだろうか。
「位置がちがって見えているのは不思議だけれど、姿は合っているわね。どういうことかしら」
「えっと。説明すると、私の力は、怪異を直接見ることはできなくて。センター長さんによると私の力は、怪異じゃなくて『痕跡』が見えるんだそうです」
「『痕跡』ね。つまり、過去を見る力なのね?」
「そうみたいです。だから、今そこにいるものが見えるわけじゃなくて…」
「なるほどね。クセのある力だけれど、使いようによっては…あなた、将来は刑事になったらどうかしら。それか、探偵にでも」
「刑事さんは無理だと思いますけど、探偵さんなら…ジャスミンさんのおかげで調査には慣れてきたので、私でもできるかも」
 あざみは富入に言われるまで自分の力を将来に役立てることを検討していなかった。今はこの力を消してほしくてセンターで働いているけれど、もしかしたら残したほうがいいのかもしれない。調査、特に人探しにおいてこれほど役立つ力はそうないだろう。
「失礼。話が逸れたわね。あなたにこの子が見えることは確認できました。間接的にでも、見える人がみつかってよかったわ」
「やっぱり。本当にいるんですね」
「いる、というよりも、存在している、と言うほうが正しいかしら。これは生き物ではないから」
「お菓子は食べられるのに、生き物じゃないんですか?」
「生き物とは言い難いわ。塩水で縮むのはともかく、排泄しないのはおかしいもの。この子は生まれてから一度も糞をしていないの。あれだけの質量が虚空に消えるわけがないのに」
「いっぱい食べるんですね」
「ええ。自分の体の何倍も食べるわ。貴方も見ていたでしょう」
「はい。とっても不思議な光景でした」
 あざみの前にはパフェのグラスが、冨入の前にはティーカップとパンケーキの皿が置かれているが、どれも空だ。あざみはひとりでスイートポテトパフェを完食し、冨入は温かい紅茶を飲み干してパンケーキを4枚食べ終えていた。
 しかし冨入は一人で4枚とも食べたのではない。3枚は肩の上に座らせた「我が子」に食べさせた。パンケーキのオプションでバターを増やしてよく染み込ませ、ナイフとフォークで切り分け、行儀が悪いことは承知のうえで持ち込んだ割箸で一片ずつ丁寧につまんで左肩にもっていく。我が子は小さな手でそれを受け取り、バターの染みた部分をほおばる。この子の姿が見えている者からすればほほえましい光景だが、姿の見えない者からすれば冨入の肩の上でパンケーキの破片が削れながら消えているようにしか見えないだろう。驚いて当然だ。
 我が子にパンケーキを食べさせていくうち、気づけば3枚がなくなっていた。念のため4枚オーダーしておいてよかった。危うく自分の食べる分がなくなるところだ。
「バターの増量はありがたかったけれど…この子、食べる量が徐々に増えている気がするの。このまま増え続けたらと思うと不安なのよ。養いきれなくなったら、殺すしかなくなるわ」
「え!?」
 仕立ての良いスーツを着こなしており見るからに上品な冨入の口から「殺す」などという物騒な語が発せられてあざみは驚いたが、この人は刑事であることを思い出した。はじめこそ上背と黒ずくめの服装で威圧感があって恐かったものの、話しているうちに冨入への恐怖心はなくなっていた。だからこそ、あざみは忘れていたのだ。この人は銃を持っていることを。日本の警察官が自宅にまで銃を隠しているのかどうか知らないが、いざとなれば自分の銃で「その子」を撃ち殺せるのだろう。この人にとって「殺す」というのは現実的な選択肢で、だからこそ本気なのだ。
「だから、調べてほしいの。この子のようなものについて。できるだけ穏便に別れたいのよ」
「お別れしちゃうんですか?」
「いつかはね。私が年老いたら面倒みきれないもの。長くてもあと30年ほどが限界でしょうね…」
 「穏便に別れたい」というのは、この子について調べてもらうための嘘だ。本来なら数百年は生きられるであろう子だが寿命まで生かしておくつもりは毛頭ない。この子が生きていて良いのは自分の心身が強いうちだけだ。遅くとも、自分が70歳になる頃には殺さなければならない。この子の生態が詳しくわかればおのずと殺し方もわかるだろう。
「あの、本職の人には相談しましたか?」
「本職というのは?」
「そうですね、たとえば神社の神主さんとか、お寺のお坊さんとか、教会の神父さんとか…」
「ああいう人たちに見せても、目を覚ませと言われるだけだもの。この子と引き離されてしまうわ」
 どうせ30年後に殺す気なら情が移る前に本職の手にゆだねるのもひとつの手ではある。しかし富入は他人に「我が子」をさわられたくない。生かすにしろ殺すにしろ「我が子」は手元に置いておきたい。これは自分たち「親子」の問題なのだから。
「だから、あなたたちに依頼したの。怪異の存在を肯定する、都市伝説解体センターに」
「うーん。センター長さんは、怪異を肯定しているわけじゃないと思いますけど」
「あら、そうなの?」
「はい。センター長さんは、まず疑ってかかりますから。本物だったらいいな、くらいの感じだと思います」
「そう。まず信じる貴方とは真逆ね。いいコンビだわ」
「冨入さんと、前のジャスミンさんみたいに?」
「あら。彼女の前職を知っているの?」
 冨入は事前に止木警視正から説明されているが、あえて尋ねた。
 止木警視正から「あざみに、依頼人の冨入は元上司だと伝えていいか」と確認され、冨入はこれを許可した。冨入は廻屋に「依頼人の自分は現職の刑事」だと伝えている。このふたつの情報から「ジャスミンは元警察官」と推測できるので廻屋に警戒されるかもしれないが、止木警視正はあざみに対してできるだけ嘘はつきたくないようだ。さすがに現職であることと潜入捜査員であることまでは伝えられないが、だからこそ、他のことは隠したくないらしい。
「前は冨入さんの部下だったって…ジャスミンさん、警察官だったんですね」
「ええ。止木さんは、強くて頼りになるでしょう?」
「はい。とっても。私が変装したきのこさんに襲われた時も、やっつけてくれました」
「貴方が助かったのはよかったけれど。市民には手を出さないように言っておいたのに…」
「今日はちょっと用事があるみたいで、この喫茶店の駐車場で別れちゃいました」
「そう。止木さん、忙しいのね」
 実は冨入は止木警視正から「私は同席しません」と連絡を受けている。あざみには冨入を「元上司」と説明しているが、いざ同席するとどうしても現職としてふるまってしまいボロが出そうなので同席は避けたいという。冨入はこれを認め、あえて止木警視正を同席させなかった。
「会えなくて残念だわ。改めて感謝を伝えたかったのに」
 半分は演技で、半分は本心だ。ここに同席してくれたなら、日頃の感謝を伝えていたのに。
「感謝?」
「ええ。彼女には助けられてきたから。私は考えすぎて行動が遅くなってしまうことがあって。彼女は逆に、考える前に動いてしまうタイプで。お互いに補いあって、うまくやってきたの」
「ジャスミンさんがいなくなって、大変ですか?」
「そうね。今ここにいてくれればいいのに、と思うことはあるわ。私ったら、彼女のこと、ずいぶん頼りにしていたみたい」
「私、ジャスミンさんみたいには強くないですけど。でも、不思議なものを見る力はあるので。冨入さんの力になれると思います」
「頼もしいわね。それじゃあ、調査をお願いできる?」
「はい!」
 あざみは元気よく返事をした。あざみは怪異や都市伝説に詳しくないのでこれといってアテがあるわけではないが、とりあえずセンター長に報告すれば調査の糸口はつかめるだろう。
「ありがとう。ここの勘定は私が持つわ」
「え、いいんですか」
「いいのよ。私は依頼人だもの。必要経費は払うべきでしょう。ここには顔合わせで来てもらったんだから。まとめて払っておくわ」
「ありがとうございます。それじゃあ、私はさっそく調査に」
 行きます、と言おうとしたところであざみのスマートフォンが震え、同時に着信音が鳴った。画面を確認してみると、センター長からの電話だ。
「あ、センター長さんから電話です」
「電話? その音が?」
 奇しくも冨入とあざみのスマートフォンは同機種なので、冨入は各種の音を覚えている。これは目覚まし機能のアラーム音だ。これがいま鳴っているということは、事前にこの時間にアラームをセットしておいたことになる。しかし複来あざみにはその記憶がないらしく、その音を「電話の着信音」だと認識しているようだ。
「はい。電話です。出てもいいですか?」
 あざみは電話の着信音がアラーム音と同じであることにまったく疑問を持っていないようで「電話」に出ようとしている。
「ちょっと待って。その画面、見せてもらえる?」
「は、はい」
 あざみは富入の意図がわからなかったが、とりあえずスマホの画面を見せた。ただの着信画面で珍しいものは映っていないはずだ。
 冨入はあざみが持つスマホの画面を確認した。そこに表示されていたのは明らかに目覚まし画面で、どう見ても着信を知らせる画面ではない。午後2時にセットされたアラームが鳴っているだけだが、あざみはなぜかこの画面を「センター長からの着信を知らせる画面」だと思い込んでいるようだ。
「ありがとう。どうぞ、電話に出てあげて」
 富入はあえて疑問点を指摘せず、あざみを「電話」に出させることにした。「電話」の主である「センター長」こと廻屋渉はいったい何者なのか。
「センター長さん、お待たせしました。どうしたんですか?」
『Wonderful! あざみさん、あなたの前にいるのは新種の怪異の確率が高いです!』
 センター長はいつになく興奮している。あざみが調査に出る前に電話してきたのは、怪異が本当に新種だった場合、どこにも情報がないからだろう。あざみがあちこちまわって無駄に疲労しないよう電話してきたようだが、調査の難しさを憂う気持ちよりも、新種かもしれない可能性への期待のほうが強いらしい。
「え、この子は新種なんですか?」
『あくまでも可能性ですが。女性から産まれる、人間でないものをまとめて産怪と呼びます。今回も、産怪の一種ではあるのでしょう。ですから、まったくの新系統ではありません。しかし、男性の腹をかりた事例は初めて聴きました。新系統ではないものの、新種ではあるかもしれません。非常に興味深い』
「えーと、センター長さんによると、その子は新種の可能性があって。非常に興味深い、だそうです」
「新種ね…学術的には興味深いんでしょうけど。調査は難しそうね」
「一応、系統はわかるので調べてみますけど…」
「そうね。この際、具体的な名称はわからなくてもいいわ。先行事例があるかどうかを調べてちょうだい。私は、先人がどうしたのか知りたいの」
「わかりました。センター長さん。冨入さんは先行事例が知りたいそうです。何かアドバイスはありますか? どういうところを調べれば?」
『まずは図書館ですね。あざみさんには関連書を読んで基礎知識をつけてもらいます。ついでに、先行事例がないか確かめましょう』
「図書館ですね。わかりました。行ってみます」
『頼みましたよ。それでは失礼』
 センター長が電話を切り、あざみはスマートフォンを鞄にしまった。
「センター長さんはちょっと変な人ですけど、頼りになります。いつも、私が困っている時に電話してくれるんです」
「今みたいに?」
「はい」
「いつも、着信音は同じなの?」
「そういえば。センター長さんからの電話だけ、音がちがいますね。他の人からの電話は、みんな同じ音なんですけど。なんでかな…」
「私にはその理由がわかるけれど。いま伝えるべきではないわね。悪いけど調査を優先してちょうだい。情報が集まったらお互いに伝えましょう」
「はい。それじゃあ、お会計はお願いしますね。いってきます」
「ええ。また次回ね」
 冨入はあざみが店を出るのを見送り、ひとつの仮説を立てた。都市伝説解体センター長こと廻屋渉は、もしかしたら福来あざみの頭のなかにいるのかもしれない。いわゆる多重人格だ。多重人格者の多くは主人格がスケープゴートとして副人格を生み出すが、その行動は認識できず、記憶は共有されないらしい。廻屋がしかけたアラームに気づいていないということは、おそらく複来あざみが主人格で、廻屋渉が副人格なのだろう。
 この仮説の問題点は潜入捜査官の「ジャスミン」こと止木警視正が、これに気づいているのか否か。廻屋とあざみの両方に会っている止木が、両者が同じ身体を使っていることに気づかぬことがあるだろうか。
「もしかして、顔まで変えられるのかしら。だとしたら、あの仮面はなんのために?」
 冨入がつぶやくと、通りかかったウェイトレスが立ち止まった。
「なにかご用ですか」
 ウェイトレスは冨入の独り言の内容をわかっておらず、声をかけられたと思って立ち止まっただけのようだ。
「ちょうどよかった。紅茶をくださいな。茶葉は、これと同じものを」
 冨入はウェイトレスに伝票を見せた。
「かしこまりました。空いた食器はお下げしてよろしいでしょうか」
「ええ。お願いします」
「それではお下げします」
 伝票を受け取って追加注文を書き足したウェイトレスは、ついでに空いた食器をさげてくれた。
「悪いけど、もう少し静かにしていてちょうだい」
 空いた食器を乗せた盆を持ったウェイトレスが厨房へ去ったのを見送った冨入が左肩にいる我が子へささやくと、我が子は小さくうなづいた。無言で応えてくれるのは助かる。もう少しここで考えをまとめたい。幸いにして非番の今日は考える時間がたっぷりある。
 あざみがあの画面を「センター長からの着信画面」だと思い込んでいるのはなぜなのか。もしかしたら彼女の目には本当に着信画面が見えているのかもしれない。だとしたら、彼女にその画面を見せているのは廻屋だ。それでは、廻屋はどうやって彼女にその画面を見せているのだろう。
「スマホに何かしかけたのかしら。あるいは…幻覚?」

 喫茶店を出たあざみは、近隣で最も大きな図書館へむかった。来館者が自ら本を手に取れる開架式図書館のなかではここが最大なので、妖怪や怪異に関する書籍もふんだんにあるだろう。
「蔵書検索端末は…あった」
 正面入口から入ってすぐのところに端末が設置されていて助かった。これを使えば司書の手をかりなくても適当な本を探せるだろう。
「検索ワードは『怪異』かな?」
 図書館に入る前にスマホの電源を切ったのでセンター長の知恵を借りることはできない。漠然とした検索ワードだが、ひとまずこれで検索してみよう。
「うわ、けっこうヒットしたなあ」
 大きな図書館だけあって蔵書数が多く「怪異」のみだと100件ほどヒットした。センター長なら喜々としてぜんぶ読みそうだが、あざみは100冊も読めないのでさらに絞り込まないといけない。
「そうだ、詳細検索」
 あざみは端末を操作して詳細検索のページを開き、タイトルに「怪異」目次に「産怪」と入力してもう一度検索してみた。これで確実に産怪について書かれている本が絞り込まれるはずだ。
「うん。これだけなら私でも読めそう」
 100件ほどあったヒット件数が一気に5件まで減って助かった。数ある怪異のなかでも産怪はあまりメジャーではないらしい。今回は概要を知りたいだけだから5冊で充分だ。
「5冊だけなら印刷してもいいかな」
 あざみが5冊の詳細ページから「印刷」ボタンを押すと、レシートのような印紙に書誌情報が印刷されて端末から吐き出されてきた。この端末はちょっとしたプリンターを内蔵しており印刷コーナーまで移動しなくていいので便利だ。
 あざみは小さなプリントを持ち、それを見ながら通路を歩いた。膨大な蔵書は日本十進分類法に従って分類され、書架はその分類に従って番号をふられている。あざみが目指すエリアは「3、社会科学」だ。
「エリア3、ここだ。次は38を探そう」
 社会科学のエリアにたどり着いたあざみは「38、民俗学」のプレートがついた一角を探す。書架は分類番号の若い順に並んでいるので「38」は奥まったところにあった。
「ここまで来たらあと少し。最後は、388」
 あざみは立ち並ぶ書架の前を歩いて「388、伝説・民話」の棚をみつけた。
「この棚だ。あとは本を集めるだけ。この本は…あった」
 あざみは5冊の本を集め、閲覧用のテーブルに持って行った。
「よく考えたら、こういう本をちゃんと読むのって初めてかも」
 都市伝説開発センターで働きだしてから怪異のような現象によく出会うようになった。それなのに、なぜかこういう内容の本をきちんと読む機会はなかった。センター長が何冊かおすすめしてくれたものの、どれも分厚くて読む気になれなかったのだ。その点いまここに運んできた5冊は適度な厚みで、一番薄いものは2時間もあれば読み終えられそうだ。見たところ知識のない人むけの入門書らしい。あざみは怖い話が苦手だが、伝承をまとめただけの内容ならホラー小説のような演出や迫力はないはずだから、一人でも読み切れるだろう。
「よし。読んでみよう」
 あざみはイスに座り、人気のない閲覧コーナーではじめの一冊を読み始めた。
「要するに産怪って、女の人から生まれたけど赤ちゃんじゃなかったもののことなんだ」
 予想通り2時間後に入門書を読み終えたあざみはつぶやいた。事前にセンター長からきいた通りで新たな発見はない。それに、この本で産怪についてふれられていたのは1章だけだったので詳しいことはわからなかった。それでも、落ち着いて読めたので自分の知識になったと思う。
「センター長さん、いつも早口なんだよね。ちょっと聞いただけじゃ覚えきれない」
 都市伝説関連と思われる依頼が来るたびにセンター長は興奮して怪異について勢いよく解説してくれるものの、いつも早口なのであざみの理解が追いつかないのだ。同じくらい知識がある人が聞けばすらすら理解できるのかもしれないが、あざみの知識量ではセンター長の話についていけない。
「今みたいにお休みの日に勉強すればいいんだろうけど、大学の課題もあるし」
 公立図書館にせっせと通って関連書を読みあされば知識を増やせるのでいずれはセンター長の話についていけるようになるだろうが、そうすると大学の課題をこなす時間が減るので下手をすると学業に支障が出てしまう。バイトのために単位を落としたら本末転倒だ。
「難しいなあ…そういえば、センター長さんはどうやって都市伝説について勉強したんだろう」
 センター長は年齢不詳だが見た感じまだ20代だろう。大学へ行っていたのなら専攻は民俗学だったのだろうか。おそらく学生時代から都市伝説を研究していたにちがいない。人生の大半を都市伝説研究に費やしてきたのだろう。
「昔からいる妖怪じゃなくて、現代の都市伝説を選んでるあたりがセンター長さんらしいけど」
 専門分野が妖怪でも民話でもなく都市伝説だなんて、思えばひねくれ者だ。歴史は短そうな分野だし、人によっては噂話とひとくくりにしてしまうだろう。学術的に重視される分野とは思えないが、そんな分野でも愛してやまない人たちがいる。都市伝説解体センターで働きだすまでは思い至らなかったことだ。
「もしかしたら都市伝説って、怖いだけじゃないのかも」
 あざみは怖い話も不気味な物も苦手なので都市伝説の魅力はいまひとつわからなくて、ただ「実在しませんように」と願うばかりだった。そんな自分では、センター長のように「実在してほしい」と願う人たちの気持ちはわからなくて当然だ。
「本当にいるって思い込んでるわけじゃない。でも、どこかにいてくれたらいいな、くらいの気持ちなんだよね。きっと」
 センター長は科学的なものの見方を否定しているわけではないだろう。おそらく、都市伝説のほとんどは誰かの創作か、噂話に尾鰭がついたものだと思っている。しかし、火のないところに煙は立たない。仮に誰かの創作だったとしても、それの元になった「何か」はどこかに必ずある。それこそが都市伝説の正体である。センター長はきっと、それを解き明かしたいのだ。
「要するに、不思議なものが好きなのかな」
 ゆっくり考えたおかげで、センター長の価値観が少しだけわかった気がする。センター長が自分を雇ってくれたのは、あざみの力に興味を持ってくれたからだ。なんの力もないただの女の子だったら雇ってもらえなかったかもしれない。センター長にとってあざみは便利な調査員であると同時に観察対象なのだろう。
「そういえば、センター長さんはどうしてわかったのかな」
 センター長はあざみの力について教えてくれた。あざみが見ているものは幽霊ではなく、人の痕跡なのだと。空間は人の行動を記憶しており、あざみはそれを「赤い人型」として見ることができる。ただしその力は不完全なので時には赤い人型が変形して見えることもある。だから手がたくさんあるように見えたり芋虫のような胴長に見えてしまうのだ、と。
「教わる前は怖かったけど、わかってからは怖さが減ったかも。ちょっとだけだけど」
 1000万円もの借金を課された時はどうなるかと思ったけれど、無給なだけでなんとかなっている。いつも怖い思いをするのにタダ働きなのはどうかと思うけれど、ジャスミンに会えるのはうれしいし、一緒にでかけるのは楽しい。調査は、怖いだけではない。
「今日みたいに何事もない調査ばっかりだったらいいのに」
 あとの4冊は家でゆっくり読もうと、5冊の本を抱えて席を立った。1冊だけ書架に戻すのは面倒なので5冊まとめて借りることにする。貸出カウンターへ移動し、利用者カードを専用端末に読みとらせて貸出の手続きをした。
「利用者登録しといてよかった」
 あざみはこの市の住民ではないが犬神大学の学生だ。犬神大学はこの市内にあるので教職員と在学生はこの図書館の利用者になれる。それがわかってすぐに利用者登録をしておいた。あざみは理系なのであまり図書館を利用する機会はないものの学生時代にだけ使える権利はできるだけ使うことにしている。あざみにとって公立図書館の利用権は映画館の学割と同じようなもの、期間限定のお得な権利だ。使わないのはもったいない。
 5冊の本をリュックにしまったあざみは図書館を出てスマホの電源を入れてから家へ帰った。

「というわけで家で残りの本も読んで、民俗学者の方に会ってお話をきいてみたんですけど…」
「けど?」
「すみません冨入さん。あんまり詳しいことはわからなくて」
「そう。残念だけれど、予想できていたことだから。そう気落ちしなくてもいいわ」
 あざみと冨入はまた例の純喫茶で落ち合っていた。あざみの前にパフェの、冨入の前にパンケーキの空き皿があるところまで同じだ。まるで時間が戻ってしまったかのような状況だった。ジャスミンが同席してくれればまだよかったが、あいにくと今日も「用事がある」とかで駐車場で別れてしまった。
「一応、わかったことをまとめてきました」
 あざみはリュックから手帳を取り出してメモをまとめたページを読み、内容を冨入に伝えた。冨入の「子」はおそらく「産怪」に属すること。「産怪」と呼ばれる怪異の特徴は次の通り。
・女性の腹から生まれる
・ヒトの赤ん坊の姿はしていない
・生まれてすぐに逃げようとする
・逃げきられると母体が死ぬ
「まとめるとこんな感じでした。地方によっては、出産の時に刃物を用意しておいて、赤ちゃん以外のものが生まれたら、逃げる前に殺してしまうんだそうです。それって、なんか…」
「どうしたの?」
「いえ、ただ、ちょっと…かわいそうだなって」
「まあ、残酷な話ではあるわね。けれど、それも先人の知恵よ。そういうものがよく生まれる地域では、そうするしかなかったんだと思うわ」
「それで本当に、女の人が助かったんでしょうか。おかしなものが生まれてくるのが事実なんだとしても、殺したら助かるっていうのは、さすがに迷信なんじゃ…」
「正確には『そうすれば助かる』のではなくて『そうしないと死ぬ』んでしょう。生まれた怪異を殺しても母体が生き延びるとは限らないけれど、逃がしたら死んでしまうことが確かなら。残酷な慣習が定着するのは必然ね」
「そう…ですよね」
 あざみは納得いかないが、人命が優先されるべきなのはわかる。昔は資源も限られていたから赤ん坊でないものを育てる余裕はなかっただろう。本物の赤ん坊さえ口減らしに殺されていた時代ならなおさらだ。
「大まかなことがわかっただけでも助かったわ」
「私、冨入さんの力になれましたか?」
「ええ。ありがとう」
 冨入がほほえんでくれて、あざみはやっと安心した。図書館で借りた本には伝承しか書かれていなくて、民俗学者にきいてみても現代の事例は知らないと言われた。伝承のなかで「先行事例」と呼べそうなものは先ほどの「生まれたら逃げる前に殺す」という記述だけ。生まれたものが保護された事例はみつからず、冨入を傷つけそうで不安だった。
「先人の対処法が血なまぐさいのは哀しいけれど。私の試みが、この国で初めての事例なら。これは、挑戦に値することね」
「冨入さんとその子なら、きっと大丈夫ですよ。いつか独り立ちしても、人を襲ったりなんてしないと思います」
「そうだといいのだけれど…あなた、私よりも楽観的ね」
「え、そうですか?」
「ええ。とても。前向きなのはいいことね」
「な、なんか含みがあるような気もしますけど…とりあえず、冨入さんの力になれたんだったら、よかったです」
 あざみが笑顔をみせた。

 

3、それは電話ではありません

 あざみはおとなしい性格のようで動作もひかえめだ。笑う時には今のように無邪気な笑顔をみせるのだろうが、そのかわりめったに笑わないのではないか。誰にでも愛想笑いができるような器用さは持っておらず、ある程度気をゆるした相手にしか笑顔を見せないと思われる。
 つまり、彼女は冨入を信用しているのだ。今ならば自分の立てた仮説に耳をかしてくれるだろう。
「福来さんは私の力になってくれました。だから、今度は私があなたの力になる番です」
「え?」
 真顔でこちらをみつめる冨入の真剣さにあざみはたじろぐ。そういえば前回「お互いに情報を伝える」と約束して別れたが、それと関係があるのだろうか。
 改まった口調にあざみが怯えていることを察した冨入は、いつも通りの言葉遣いであざみに尋ねる。
「そう構えなくてもいいわ。前に会った時、私が、着信画面を見せてほしいとお願いしたのを覚えてる?」
「はい。センター長さんから電話があった時ですね」
「そう。着信音に違和感があったから、画面を確かめさせてもらったの。あの着信音、他の時に聞いたことはない?」
「センター長さんの電話以外で、ですか? ないと思いますけど…」
「スマホの目覚まし機能を使ったことは?」
「ないです。うちには目覚まし時計があるので、スマホのアラームは使ったことありません」
「そう。それじゃあ試しに、アラームを1分後に設定して、鳴らしてみてちょうだい」
「は、はい」
 あざみは冨入の目的がわからないまま、とりあえずポケットからスマホを取り出して言われた通りにアラームをセットしようとして、固まった。
「え?」
 セットした覚えのないアラームがセットされていた。次のアラームは今から15分後だ。
「え、どうして」
「もしかして、覚えのないアラームがセットされてた?」
「はい。なんでわかったんですか?」
「前にかかってきた、センター長さんからの電話。その着信音が、アラーム音と同じだったからよ。彼はスマホの目覚まし機能を使って、あなたに『センター長から電話がかかってきた』と思い込ませていたのね。あなたに偽物の着信画面を見せてまで」
「そんな…それじゃ、センター長さんは、スマホのなかにいるってことですか!?」
「彼がスマホに棲む人工知能である可能性も、なくはないけれど。私の仮説とはちがうわね」
「冨入さんの仮説って…」
「彼は、スマホじゃなくて、あなたの頭のなかにいるんじゃないかしら」
「センター長さんが、あのビルから私を遠隔操作したってことですか? 千里眼が使える人ですから、ありえないことじゃないですけど…」
「そうでもなくて。あなたにはショッキングなことだから、心してきいてちょうだい」
「は、はい」
 あざみはごくりと唾を飲み込み、冨入の言葉に備えた。
「私は、あなたが多重人格ではないかと疑っています。廻屋渉は、あなたが生み出した別の人格なんじゃないかしら」
「な、なんでセンター長さんの名前を知ってるんですか!?」
 突拍子のないことを言われたあざみは無意識に枝葉の部分にとびついた。この先を聞いてしまったら、自分の根幹が揺らいでしまう気がして怖い。
「都市伝説界隈では有名人だからよ。彼、いつも名乗っているでしょう。自分のチャンネルで」
「冨入さん、センターのチャンネル見てるんですか? 調査員の私が言うのもなんですけど、けっこう怪しげなチャンネルですよね」
「昔は都市伝説に興味はなかったわ。今はわけあって彼のチャンネルを見ているの」
「そ、そうなんですか。じゃあ、そのわけを教えてもらってもいいですか?」
「悪いけどそれは教えられないわ。私は警察官だから、守秘義務があるの」
「まさかセンター長さん、何かの犯人だと思われてるんですか? 確かに怪しげな人ではありますけど、悪い人じゃない、はずです」
 あざみは思い出した。初対面でだまされて古いイスに座らされ、修理費用として1000万円もの借金を負わされたことを。よく考えればあれはかなりひどい。あざみが訴えていないから大事になっていないだけで、人によっては「それは詐欺だ」と言うかもしれない。初対面の人間にあんなことができる人なら、なんらかの犯罪に手を染めている可能性はなくもないが、センター長は悪人でないと信じたい。
「福来さん。話を逸らそうとしているわね?」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃ…」
「この先を聞きたくないのはわかるわ。それでも。お願いだから、最後まで聞いてちょうだい」
「わ、わかりました。どうぞ」
「ありがとう。それでは、続きを話します」
 冨入が立てた仮説はこうだ。廻屋渉は福来あざみが生み出した副人格であり、あざみの体と脳を共有している。したがって、廻屋はあざみの脳のなかにいる。しかし、あざみは廻屋に「切り替わった」ことが自覚できず、記憶は共有されない。なので、廻屋はあざみに気づかれることなくあざみの身体を使ってスマホを操作し、アラームをセットすることができた。
 では、なぜ廻屋はわざわざアラームをセットしているのか。あざみに違和感を持たせず会話するためだ。「テレパシーで頭のなかに直接話しかけています」と言うよりも電話をかけたふりをしたほうが受け入れられやすいと判断した廻屋は、あざみに「電話がかかってきた」と思わせるため、アラームをセットしている。依頼を受けたら調査にかかる時間を計算し、事前にアラームをセットしておく。アラームが鳴ったら着信画面の幻覚を見せて「調査に行き詰まったタイミングでセンター長から電話がかかってきた」と認識させている。
「どう? これが私の仮説よ」
「そんなの、おかしいですよ!」
「どの点が?」
「アラームを使っているところです! ほんとに同じ体を使ってるんだとしても、違うスマホから電話をかければいいんじゃ…」
「確かに、そのほうがリアルな演出になるわね。けれど、電話番号がふたつ必要になる。スマホの維持費は払えるとしても、契約の名義はどうするの? おそらく廻屋は、身分証を持っていないわ」
「言われてみれば…でも…」
 冨入の仮説は憶測の域を出ておらず穴があるが、あざみはそれに気づかず動揺している。
 廻屋が本当に半身不随で一人では外出できないのだとしても、あざみの身分証を使い、ネット上で契約が完結する格安キャリアで「福来あざみ」として2台めのスマホを契約すればいい。そうすれば外出する必要はなく、あざみに知られることなく新たな電話番号を得られる。しかしあざみはこの可能性に気づいていないようだ。今どきは領収書も電子化されているので契約者の家に封書が届くことはめったになく、あざみに領収書がみつかってばれる心配はないだろうに、廻屋はなぜそうしていないのか。実在人物を演じるために無駄な金を使いたくなかったのかもしれない。
「次のアラームは、いつ鳴るの?」
「えっと、さっき見た時は15分後でした。だから、あと3分たったら鳴るはずです」
「そう。それじゃあ、第三者に確認してもらいましょう。3分後に給仕さんを呼んで、あなたのスマホの画面を見てもらいます。そこに表示されているのはなんの画面なのか、教えてもらうの。そうすればはっきりするでしょう?」
「冨入さん、給仕さんを買収なんてしてないですよね?」
「誓って買収はしていないわ。お気に入りのカフェには手出ししないことにしているの」
「わかりました」
 あざみはスマホをテーブルの上に置き、待った。
 あざみの半生でもっとも長い3分間が過ぎ、あざみのスマホ画面に午後2時が表示された瞬間、いつもの「着信音」が鳴った。
 冨入は即座に呼び鈴を押し、あざみはゆっくりとスマホを手に取った。冨入はこれを「アラーム音」だと言ったが、ここに表示されている、いや、あざみに見えている画面は電話の着信を知らせるものだ。名前は「センター長さん」と表示されている。この画面が偽物だとは思えない。
「や、やっぱり電話ですよ、センター長さんからの」
「給仕さんがいらしたわ。操作しないで、そのままの画面を見せて」
 厨房から早足でふたりのテーブルへ来たウェイトレスは立ち止まり、軽くお辞儀をした。
 顔をあげたウェイトレスは席にいる客を分析したが、ふたりの関係はわからなかった。この席にいるのはスーツを着た大柄な男性と、やたらフリルがついたシャツを着ている女の子だ。この二人は親子くらい歳が離れているように見える。親戚なのか親子なのか、あるいはパパ活中なのか。
「お待たせいたしました。なにをいたしましょう?」
 ふたりをざっと観察したウェイトレスが用件を尋ねると、女の子が必死な様子でスマホの画面を突き出してきた。
「あの、この画面を! 見てほしいんです!」
「はい?」
 ウェイトレスは意味がわからず首をかしげた。たいていの客は「食器をさげて」か「追加注文します」か「お会計お願いします」と言う。悪質な客に「君かわいいね。連絡先教えて」と言われたこともあるが、どれでもない要望は初めてだ。
「この画面を! 見てください!」
 女の子のスマホは鳴っている。女の子は妙に必死だが、音の止め方がわからないのだろうか。スマホがウィルスに感染しているのだとしたらウェイトレスの手には負えないので同席している男性にでも相談してほしいのだが。
「ちゃんと追加注文はしますから。その子の画面に何が表示されているか教えてください」
 ウェイトレスが女の子の要求に戸惑っていると、向かいの席にいるスーツを着た男性が指示をくれた。おかげで何をしてほしいのかはわかったが、意図はさっぱりわからない。この席にいるのはふたりともおかしな客だとウェイトレスは思ったが、ベテランなので客あしらいには自信がある。この程度の要望なら応えてもいいだろう。
「かしこまりました。それでは拝見します」
 ウェイトレスは女の子が持つスマホの画面を確認した。表示されているのは目覚まし画面だ。なぜかアラームが午後2時に設定されている。先ほどから鳴り続けているのはこのアラーム音らしい。
「目覚まし画面のようですね。午後2時のアラームが鳴っているようです。鳴り続けると他のお客様のご迷惑になりますので、お早めにお切りください」
 なぜか女の子は驚き、スマホを取り落とした。

 

4、センター長さんはどこにいるのでしょう

 女の子の手から落ちたスマホを、ウェイトレスはすんでのところで受け止める。危うく床に激突するところだ。修理費を請求されたら面倒なことになる。
「落とされましたよ。スマートフォンのお取り扱いにはご注意ください。当店では、貴重品の紛失に関して責任はとれません。貴重品の管理はご自身でお願いいたします」
 ウェイトレスはマニュアルに則って女の子に注意事項を伝えた。見た感じ、いかにも持ち物をなくしそうな、頼りなさそうなお嬢さんだ。先ほどスマホを落としたのはわざとではないだろう。悪意はないかわりに素で忘れ物をしそうだ。このふたりが退店したらこの席をよく確認しなければ。
「あ、ありがとうございます…」
 あざみは気力をふりしぼって礼を言い、いまだ鳴り続けているスマホを受け取った。
「福来さん。彼を待たせるのも悪いから、そろそろ『電話』に出てあげて」
「でもこれ、電話じゃ…」
「あなたにとっては彼からの電話でしょう。それに、鳴り続けるのはまずいわ」
「それはそうですけど、でも」
「給仕さん、ご協力ありがとう。先ほどのと同じ紅茶のおかわりをいただける? 私にはホットで、彼女にはアイスで」
「かしこまりました」
 ウェイトレスは伝票に追加注文を書き足してからエプロンのポケットにしまい、空いた食器をさげて厨房へ歩き去った。
「ほら。早く、それに出て」
「…はい」
 あざみは震える手で画面にある「通話」ボタンを押した。これが電話ではないのなら、この操作は実際には何をしているのだろう。本当はアラーム画面なのだとしたら、ただアラームを止めているだけなのだろうか。
 あざみが深呼吸してスマホを耳に当てると、センター長は開口一番「Marvelous!」と叫んだ。いつもより興奮しているようでうるさい。これは本当に頭のなかの声なのだろうか。
「ここまで私の正体に肉薄した人物は今までいませんでした。依頼とは別件ですが、すばらしい。都市伝説とは無関係ですが賞賛に値します。さすがは警視監殿。その推理力、まさにMarvelous!」
「なんだかセンター長さんがすごく冨入さんのことほめてますけど、けいしかんってなんですか?」
「私の階級よ。偽名は使わない主義なの。それにしてもよく警察のデータベースにアクセスできたわね、廻屋さん」
「ダークウェブの住民に何をおっしゃいますか。この私にアクセスできない場所などありません、だそうです」
 あざみはいつも通りスピーカーは使わず、自分の口でセンター長の言葉を伝える。
「よく言うわ。いつも福来さんの体を借りているのに。物理的には制約があるでしょう。その体でチャンネル運営もしているなら、福来さんの脳はいったいいつ休んでいるの?」
「その点に関しては問題ありません。あざみさんは8時間寝ていると思っていますが実際の睡眠は5時間。残りの3時間で作業しているのです。我々の脳はショートスリーパーなんですよ」
「5時間は寝ているので問題ないそうです」
「それにしたって活動量は二人分でしょう。今までよくもっていたわね」
「筋力が弱いかわりに疲れにくい体質なのです、だそうですけど…」
 あざみは肝心の質問をする前に一呼吸置いた。息を吸い、意を決して核心を突く。
「センター長さん、私の頭のなかにいるんですか? そこにしか、いないんですか?」
「はい。私はあざみさんのなかにしかいません。その点は警視監殿の推理通りです」
 あざみにとっては悲しいことに「廻屋渉」という人物は実在しなかった。センター長はあざみの脳のなかにいて、他のどこにもいないのだ。握手することも抱きしめることもできない。来年の春にはジャスミンと三人でお花見にだって行きたかったのに、お酌してあげることもできない。
「しかし、私を生み出したのはあざみさんではありません」
 あざみの悲しみを感じながらも廻屋は淡々と言葉を紡ぐ。多重人格症で生まれる副人格のほとんどは、主人格が何らかの社会的困難を抱えているがゆえに生み出したスケープゴートであるケースが多い。このケースにあざみ自身を当てはめて「妙なものが見えるのが怖すぎて都市伝説好きの別人格をつくって盾にした」とは思ってほしくない。廻屋が生み出されたのはそんなたわいない理由ではないからだ。
「待って。それじゃあ、あなたを生み出したのはいったい誰なの? あなたたちは、福来あざみとして出生したんじゃ…」
「申し訳ありませんが、それを口外すると削除されてしまいますのでお答えできません」
「削除される? まるで管理者がいるみたいね。それは誰?」
「すみませんが、その質問にも答えられません」
「そう。残念ね。答えてくれたら捜査の手間が省けたのに」
「警視監殿は電話に注意してください。そろそろジャスミンから報告が来るでしょう」
「どうして、そう思うの?」
「ジャスミンはあなたの部下でもあるからですよ、警視監殿」
「え? ジャスミンさん、今でも冨入さんの部下なんですか? それじゃあ、今ジャスミンさんがいないのは…」
「ばれてるならしかたないわね。正直に答えましょう。止木さんには、廻屋さんがどこにいるのか確認しに行ってもらったわ」
 半身不随の廻屋があのビルにいないなら、可能性は三つ。1、本当は歩ける。2、協力者がいる。3、最初からそこにいなかった。この三つはすべて正解と言える。廻屋からあざみに人格を切り替えれば同じ体でも歩ける。あざみは廻屋のかわりに調査をしている。
「そして、彼は実在しない」
「実在しない…」
 改めて言葉にするとショックだ。あざみにとっては大切な人でも社会的には「いない」人なのだ。生き別れになることはありえないけれど、かわりに何もしてあげられない。
「彼は、あなたのなかにいることがわかった。会話もできているわ。彼には、あなたとは別の意思がある。実在しないとはいえ、完全に架空の人物でもないでしょう。そう気を落とさないで」
「お待たせいたしました。ご注文のお紅茶です」
 足早にテーブルへ近づいたウェイトレスは紅茶を乗せた盆を持って立っていた。客のふたりはなにやら真剣な話をしているらしく割り込むのは悪いが追加注文を受けた以上はテーブルまで運ぶのが仕事だ。
「ありがとう。私にはホットをくださいな」
「かしこまりました」
 ウェイトレスはスーツを着た男性の前にホットティーを、フリルシャツを着た女の子の前にアイスティーを置き、伝票差しに伝票を立てた。
 ウェイトレスが厨房へ去った直後、冨入が着ているジャケットの内ポケットからスマホの着信音が聞こえた。冨入は懐からスマホを取り出して画面を確認する。予想通り止木警視正からの電話だ。
「止木さんからの電話ね。悪いけど、私も通話させてもらうわ」
「どうぞ」
 冨入が通話ボタンを押すと止木警視正は珍しく焦った声で報告した。
『警視監! 廻屋がどこにもいません! まだ通話中ですか!?』
「ええ。彼なら今、福来さんと通話中よ」
『ということは、別の場所から電話しているんですね。探します』
「その必要はないわ。彼は、実在しないもの」
『はい? どういう意味ですか?』
「彼はね、福来さんの頭のなかにいるの。福来さんは多重人格者で、廻屋さんは彼女の副人格というわけ」
『そんな、そんな馬鹿な! 私は、ふたりとも会いました! 廻屋とあざみは明らかに顔立ちがちがいます! 骨格だって! ふたりが同じ体を使っているわけがありません!』
「なぜ彼は動画で仮面をつけていたのか。答えは簡単、素顔は福来さんだから。福来さんの顔をネットにさらすわけにはいかない。けれどあなたは、対面した人間にしか幻覚を見せられない。だから、カメラの前では仮面をつけていた。ちがうかしら? 廻屋さん」
「Excellent! その通りです、警視監殿。さすがにカメラに幻覚は見せられないので仮面を使用していました。あれは小面のように見えますが、古い面をかち割ったわけではありませんのでご心配なく。あの仮面は私の手作りです」
「だそうよ」
『本当に、廻屋はそこにいるんですね?』
「正確には、ここにいる福来さんの中に、ね。なんなら、福来さんごと確保しましょうか」
「え?」
『お、お待ちください! せめて私が合流するまでは、どうか!』
「わかっているわ。福来さんが逃げようとしない限り、私は何もしません。急いでここへ来なさい」
『わかりました。急行します!』
 止木警視正からの通話が切れた。血相を変えてあのビルから駆け出し、この店へむかっている様が目に浮かんだ。今頃は制限速度ぎりぎりのスピードで覆面パトカーをとばしているだろう。
 スマホを操作して録音モードにしてから懐に戻した冨入はティーポットからカップへ紅茶を注ぎ、改めて福来あざみを見た。先ほど冨入が「確保する」と言った時に首をかしげていたので、おそらく意味がわかっていないのだろう。ここは説明しておいたほうがいい。
「この機に説明しておきましょう。警察用語で言う確保は、辞書に載っているのとは意味がちがうわ」
「あ、そうなんですね」
「ええ。我々の言う確保はね、捕まえるって意味よ。辞書に載っている言葉だと、拘束する、というのが近いかしら」
「え、じゃあ、冨入さんは私を捕まえるつもりなんですか!?」
「正確には、あなたじゃなくて廻屋さんを捕まえたいのだけれど」
「あなたほどの人間に興味を持ってもらえるとは光栄です、警視監殿。それで、逮捕状はどちらに?」
「今はまだなんの令状も発行されていないわ。だから、任意同行のお願いしかできないわね」
「ということは、センター長は今すぐ捕まるわけじゃないんですね。よかったです」
「しかし、私がなんらかの容疑者になっていることにはちがいありません。私にかけられた容疑はなんですか? 警視監殿」
「まず、いくつかハッキングの容疑があります。けれど、それより問題なのは、ジマーと呼ばれる輩を煽っていることです。我々はSAMEJIMA管理人を探して、あのセンターに行き着きました。あなたはあそこからSAMEJIMAにアクセスしている。そうでしょう?」
「Great! ようやく日本警察もサイバーテロ対策に本腰を入れたようですね」
「SAMEJIMAの管理人はあなたなのね?」
「いいえ。私があのビルからSAMEJIMAにアクセスしているのは事実ですが、管理人ではありません」
「では、管理人は誰なのか知っていますか」
「はい。しかし、誰なのかはお教えできません。ご容赦ください」
「あなた、さっきも言っていたわね。教えられないって…もしかして。SAMEJIMAの管理人と、あなたの管理者は、同一人物?」
「That's right!! そのふたりは同一人物です」
 あざみはスピーカーになった気分だ。センター長の言葉は伝えているものの、その意味はわからない。SAMEJIMAとは何だろう。どこかのウェブサイトらしいがあざみは聞いたことがない。センター長の管理者に至っては完全に意味不明だ。センター長を消しされる人物がいるとは思えない。
「念のため確認しますが、あなたの管理者は、福来あざみさんですか?」
「いいえ。SAMEJIMAの管理人と私の管理者は確かに同一人物ですが、あざみさんではありません。この点はけっしてお忘れなきよう願います」
「わかりました。それでは次の質問です。あなたたちを捕まえたら、SAMEJIMAの管理人は現れますか?」
「もちろん。超特急で現れますよ。警視監殿の目の前に」
「そう。話が早くて助かるわ。それじゃあ、何か適当な罪状をつくってあなたたちを捕まえましょう」

 

5、彼女は「話のわかるボス」だそうです

 優雅な仕草でカップを持ち上げた冨入が何気なく言った直後。
「本気ですか!? 警視監!!」
 覆面パトカーを駐めて駐車場から店内に駆け込んできたジャスミンの怒気を含んだ声が富入へ浴びせられるのと同時に
「初めまして」
 あざみの位置から三人めの声がした。
『え?』
 富入とジャスミンは驚き、あざみの顔を見た。まるであざみが急に記憶を失ったかのような言葉だが、そもそも声がちがった気がする。
「私はSAMEJIMA管理人。あなたたちが探していた人物よ」
「ぎゅい!?」
 冨入の左肩にいた「我が子」が喉を鳴らした。それは目の前いた人間が変貌したことに驚いている。顔も声も、先ほどまでそこにいた少女とはちがう。もしかして別人なのだろうか。
「ちょっと、あざみー? いったいなんの冗談? 声優志望だったっけ?」
 冨入の「我が子」の声は霊感のある人間にしか聞こえないらしく止木警視正は無反応で、ただあざみの変化に驚いている。今は富入への憤りよりもあざみの変化に対する驚きのほうが強いようだ。
「察しが悪いわねジャスミン。私はあざみじゃないわ。顔を見てわからないの?」
「言われてみれば…人相が、ちがう。瞳の色も」
 自称「SAMEJIMA管理人」はあざみと完全に顔立ちが異なるわけではない。目鼻の位置やバランスはあざみのままだ。しかし瞳の色は異なり目つきが鋭く、同じ顔立ちでありながら人相は異なる。あざみの平和な学生生活からは考えられない、険のある顔だ。
「そう。私はあざみじゃない。別人よ。この体の、本来の持ち主」
「福来さんは『福来あざみ』という人間として出生したわけではない、ということね?」
「さすが。部下とちがって察しがいいわね、警視監さん。そう。あざみも渉と同じように、法律上は存在しないの。戸籍があるのは私だけ」
「はあ? それでどうやって生活すんのよ。身分証明は? ワン大の学籍はどうなってんの?」
「それは今から説明するから。とりあえず、座りなさい。警視監さんの隣に」
「あざみーの体ごとトンズラしようと思ってるでしょ。そうはいかない。あたしはあんたの隣に座らせてもらう」
 ジャスミンは富入の指示を待たず自称「SAMEJIMA管理人」の隣にどかりと腰を下ろし、横目で彼女を睨んだ。
「あざみーにとって、その体は自分の体よ。急に知らない所にいたら驚くでしょ。逃げないでよ。話が終わったら、あざみーに交代して。あたしが送ってくから」
「察しは悪いのに飲み込みは早いのね。私たちは多重人格だって、すぐに認めてくれて」
「実演されちゃしかたないわ。あんたの言動、あざみーの演技だとは思えない」
「ええ。あざみの一人芝居じゃないわ。私は私よ…とりあえず、あなたも何か注文したら?」
「この状況で!?」
「私も彼女に賛成ね。喫茶店に入って席についた以上は、何か注文するのが礼儀よ。といっても食欲はないでしょうから、飲み物でも頼みなさい」
「わかりましたよ…それじゃ、コーラでもいただきますか」
「ただのコーラはないわ。この店のソフトドリンクは、すべてフロートなの」
「フロート? ああ、あの、バニラアイスが乗せられてるやつですか」
「そうよ。コーラがほしければ『フロートのアイス抜き』を注文しなさい。そうすればトッピングなしのコーラが飲めるわ」
「なんでそんなややこしいことになってるんですか…まあ、郷に入ったからには郷に従うとしますか」
 ジャスミンが呼び鈴を押すとすぐにウェイトレスが来た。まだピークタイムではないからか、対応が早い。午後3時過ぎになるとこうはいかなかいだろう。ティータイムをはずしたのは正解だ。
「お待たせいたしました。ご注文承ります」
「コーラフロートのアイス抜き、ください」
「かしこまりました」
 席に着いた三人は、ジャスミンの注文を受けたウェイトレスが厨房へ去るのを見送った。
「さっきのウェイトレスは、あんたのこと、あざみーだと思ったみたいね」
「当然でしょう。服も顔も同じなんだから」
「あざみーの身分証がどうなってんのか、ちょっとわかったわ。写真はあんたで、名前はあざみーなんでしょう」
「半分正解で、半分はずれ。写真も名前も私よ。ただし、あざみの目には氏名が『福来あざみ』に見えているだけ。私があざみに幻覚を見せているの」
「内側からあざみーを操作してるってこと? ひどい」
「しかたないわ。私しか実在しない以上、社会的なことには私の名前を使うしかないの」
「事情はわかりました。あなたの名前を教えてください」
「私の名前は歩。歩くと書いてあゆみと読むの。廻屋の名前は、私からとったのよ」
「それはわかったけど、なんで下の名前を名乗るかな。名字は?」
「私の名字は珍しいから、名乗っただけでヒントになってしまうわ。だから、この場では教えない。『口に出しても存在しないもの』について調べていけば、私の名字もおのずとわかるでしょう。だから、ここでは名乗らないわ」
「口に出しても存在しないもの?」
「そう。たとえば『クローゼット』の中身とか」
「部外者に『クローゼット』の存在が知られるとは…セキュリティの担当者は何をしているのかしら」
「私はハッカーよ。正確にはクラッカーだけど。並のセキュリティでは私を阻めないわ。次の質問は?」
「あなたが福来さんと廻屋さんを押しのけて、わざわざ現れたわけを教えてほしいのだけど。答えるのはもう少しあとにしてください」
「なぜ?」
「もうすぐ給仕さんがコーラを持ってくるからよ。ほら」
 富入の視線の先を見ると、ちょうど、コーラを乗せたトレーを持ったウェイトレスが近づいてくるところだった。
 ジャスミンが注文したのはフロートのアイス抜きだ。トッピングのアイスを乗せなくてよい分、準備にかかる時間が短くなったのだろうが。それにしても異様に仕事が早い。
「お待たせいたしました、コーラです」
「はい」
 ジャスミンが軽く手を上げてウェイストレスに合図すると、ウェイトレスはジャスミンの前にコーラを置き、伝票を伝票刺しに入れて去った。
「仕事の早いウェイトレスね」
「本当に。いつ来ても、彼女の仕事の早さと身のこなしにはほれぼれするわ…彼女、うちに転職してくれないかしら」
「警視監。お言葉ですけどね、警察は命がけの仕事ですよ」
 ジャスミンはあえて富入を階級名で呼んだ。この人が言う「うち」は警察庁のことだろう。もしかしたら警視監は優秀な人間をみつけるたびに「あなた、とても優秀ね。警察官になる気はない?」とでも言って勧誘しているのかもしれない。公務員のうえに銃が持てて、市民に対して少々威圧的な態度をとっても許され、道交法違反者を免停にする権限があり、不審者に応対すれば人々に感謝されるとなれば、警察官になりたがる人間は多いかもしれない。しかし、利益だけを見て警官になりたがるような思慮の足らない人間に警察官は務まらない。警察官になるには適性の他にも必要なものがある。
「優秀なだけじゃ務まりません。覚悟もないと」
「覚悟? 平和ボケした日本で警察官になるのに、覚悟が必要なの? 誰でも銃を持ってる米国でもあるまいし」
「アメリカより殉職率が低いのは事実だけどね、それでも死ぬ時は死ぬから。危険な仕事には変わりないの。だから、軽々しく勧誘しないでくださいね、警視監」
「ええ。もちろん、わかっています」
「わかってらっしゃるならいいですけど…それで歩、質問の答えは?」
「私がなぜ今ここに現れたのか、よね。そうね…端的に言えば、一度こうしてみたかったから、かしら」
「こうしてみたかった? 悪いんだけど、意味がよく…」
「ほら、フィクションでよくあるでしょう。主人公がしたっぱともめているところに、お偉いさんが急に現れて。鶴の一声でその場が収まるっていうのが」
「あー。少年マンガとかなら、たまにある展開かな」
「ああいう場面で、管理職の連中を無視して現場に現れる人物は、優秀で話がわかるって相場が決まってるの」
「だから自分もそうしようと思ったわけ? センター長を押しのけて」
「そうよ。あざみが現場のしたっぱで、渉が管理職で、私がボスってわけ。だったら、私が出たほうが話が早いでしょ。こう見えて私、優秀で話がわかるの」
「自分でそれ言うか…要するに、話のわかるボスごっこがしたかったわけね。まあ、わからなくはないわ。現にうちの警視監も、今ここにいるわけだし」
「私はべつにフィクションじみた行動をしようと思っているわけではないわ。ただ、物事を自分の目で見て確かめたいだけよ」
「いい姿勢ね。おかげで、追っ手のボスと話す機会が得られたわ」
「追われている自覚はあるのね。そろそろ、あなたの目的を教えてもらえるかしら。なんのためにジマーたちを煽動しているの?」
「グレートリセットのためよ。ジマーたちはGRと呼んでいるわ」
「要するに社会を転覆させたいわけね。では、それはなんのため?」
「ジマーたちは、みじめな人生をなかったことにするため。社会の価値観をひっくり返して、見下してきた奴らを見返すために活動しているわ」
「あなたは?」
「私は、復讐のために」
「復讐ね。ずいぶんと抽象的だこと。標的は何? 日本政府?」
「まさか。私が恨んでいるのは、そんな大それた組織じゃないわ。もっとずっと小さなグループよ。数年前に活動してた、とある学生グループ。あいつら、なんて名乗ってたかしら」
「学生のグループ・・・?」
 富入の頭の片隅に何かがひっかかる。以前、どこかの学生グループが起こした事件が、非解決事件専用書庫「クローゼット」送りになったことがある。自分が担当していない事件だったので今まで忘れていたが、当時から自分は「クローゼットを空にする」ことを願っていた。クローゼットそのものを消し去ることは不可能だとわかってはいても、せめて自分の代で空にしたかった。それなのにクローゼットの中身がまた増えてしまって、夢の実現が遠のいたことを嘆いたのだ。あの頃の嘆きと悔しさをばねにして警視監になった。階級を上げることに邁進してきたのは夢の実現に一歩でも近づくため、それを現実にする権力を得るためだ。
「なにか、思い当たる事件はある?」
「ええ。闇に葬られた事件があるわ。守秘義務があるから口には出せないけれど」
「そう。それが『口に出しても存在しないもの』よ。私は、あの5人に復讐したいの。あいつらには消えてもらうわ」
「あんたまさか、あざみーの体で人殺しするつもり!?」
「まさか。人殺しはしないわ。私はね。彼女はどうするかわからないけど」
「彼女?」
「私の協力者よ。あの事件の、被害者の遺族。彼女にとってあいつらは直接の仇だから、何をするかわからないわ」
「その5人と彼女を、同じ部屋に閉じこめるつもりね?」
「ええ。ただし、5人のほうは拘束してあるわ。彼女にはナイフを持たせる。そのあとどうするかは彼女の自由よ。縄を切って恩人面するもよし」
「めった刺しにして殺してもよしってか? そうはさせない。絶対、みつけだす」
「どうして? あなたはどっちにも無関係な人間でしょ」
「見ず知らずの人間も助けるのが警察官の仕事なの。なめないで。あんたの好きにはさせない」
 ジャスミンは歩を睨みつけながら宣言した。どんな重罪を犯した者であろうと生きて裁きを受ける権利はある。「こいつらは法で裁けない」と断じて殺すつもりなら見過ごせない。
「威勢がいいのはいいけど、早く飲まないとコーラの気が抜けるわよ」
「そういうあんたのアイスティーも、すっかりぬるくなって薄まってるけど。氷が溶けてるし」
「あら、本当。あざみには悪いことしたわね。それじゃあおふたりとも、ごきげんよう」
 歩は目を閉じてうつむき、静止した。まるで電源が切れたアンドロイドのように。
「え、ちょっと! まだ話は終わってないでしょ!?  『彼女』と『あの5人』って、誰のことよ!」
「…なんの話ですか? ジャスミンさん」
 顔を上げてジャスミンに応えたのは歩ではなくあざみだった。歩から他の人格への切り替えに要する時間はほんの数秒らしい。
「うわ、マジであざみー!? 交代が早すぎでしょ。もう話すことはないってか」
「さすがはジマーのボスね。自己中心的だこと」
「あの、えーと」
 あざみには二人の言うことがいまひとつ理解できない。ジャスミンの言う「交代」の意味も、富入の言う「ジマーのボス」も、あざみにはまったく心当たりがない。
「とりあえずおかえり、あざみー。無事でよかった」
「福来さん、おかえりなさい。また会えて嬉しいわ」
 あざみの困惑に気づいたふたりが声をかける。考えてみれば廻屋とあざみは不安定な存在だ。歩は廻屋とあざみが不要になったら消すつもりだろう。このふたりはいつ何時、音信不通どころか存在しなくなるかもしれない。今は素直にあざみとの再会を喜ぶべきだろう。
「お、おかえり? もしかして私、他の所に行ってました!? 実は夢遊病だったとか!? だとしたらすごくご迷惑かけたんじゃ…」
「いやいや。大丈夫。あざみーはたぶん夢遊病じゃないし、迷惑かけたのはあざみーじゃないから」
「あなたはずっとその席にいたわ。その点は私たちが保証します」
「そうなんですか? じゃあ、なんでおかえりなさいって…」
「実はね、さっきまでセンター長が出てきてたのよ」
 ジャスミンはとっさに嘘をついた。あざみが歩の存在を知っているのかどうかわからないが、知らないのなら教えないほうがいいだろう。あざみが歩の目的を知れば計画の妨害を試み、非協力的な邪魔者として消されてしまうかもしれない。センター長もあざみのなかにいるのなら口裏を合わせてもらったほうがいい。
「え、センター長さんが!? 私のなかにいるとはきいてましたけど、出てこられるんですか!?」
「そ。さっき言ってた『交代』って、そのことよ。センター長ったら、前触れもなく一瞬で現れてさあ。マジでびびったわ」
「私も、廻屋さんの出現には驚いたわ。フィクションでよくある、話のわかるお偉いさんごっこがしてみたかったそうだけど」
 富入もジャスミンの嘘に話を合わせた。実際に表へ出てきたのは歩だが、あざみの変化に驚かされたのは事実だ。「話のわかるお偉いさんごっこ」をしたがったのはどちらなのか知らないが、歩が出てきたのは廻屋にとっても予想外なことだろう。
「なんか、いかにもセンター長さんらしい感じがしますね。それにしても、急に交代するなんでひどいじゃないですか。交代してる間は眠っちゃうなんて、私、知りませんでしたよ。センター長さん」
 あざみは自分のなかにいるセンター長に話しかけた。交代するなら合図がほしかったし、あざみが眠ってしまうことも教えてほしかった。
「すみません。あざみさん越しに話しているとまどろっこしかったもので」
 廻屋はジャスミンの嘘に話を合わせた。実際のところは自分が表に出ようとした瞬間に歩に押しのけられてしまい、自分は三人の会話を聴いていることしかできなかったのだが。
「道理で、センター長はめったに表に出てこなかったわけだわ。自分が出るとあざみーが眠っちゃうからなのね」
「はい。あざみさんの意識は眠ってしまうので、あとで説明するのが面倒でして」
 これも嘘だ。あざみは歩に眠らされただけで、交代するたびに眠ってしまうわけではない。他の多重人格者はどうか知らないが、自分たちの脳はそんなシステムになっていない。この脳は処理能力が高いので、三つの人格を同時に活動させていても問題なく思考できる。歩があざみを眠らせたのは脳の負荷を減らすためではなく、あざみに余計な情報を与えないためだ。ひたすらに優しいあざみが歩の計画を知ろうものなら全力で妨害するだろう。
「私が眠らなくても交代できる方法はないんですか?」
 あざみは早くも現実を受け入れていた。センター長が自分のなかにしかいないのはしかたない。これからは同じ体を使う者として連携していこう。そのためにもまずは情報を共有してほしい。
「あるにはありますが、確実とは言えませんね…」
 珍しくセンター長が答えを濁した。
「なにか問題があるんですか?」
「ええまあ」
 今のようにあざみが表に出ており、あざみの意思で「裏」にいる人格と交代する方法は用意されている。しかし、それをしたところで「裏」へ行ったあざみの意識が保たれるとは限らない。主人格である歩はいつでも廻屋とあざみを眠らせることができるのだから。
「確実ではありませんが、手順はお教えしましょうか」
「はい。お願いします。…え、そんな簡単な方法なんですか。わかりました、やってみます」
「あざみー、怖くないの? さっきまで奥に押し込められてたんだよ? 自分の体に戻ったばっかなのに、もうひっこんじゃうの?」
「センター長さんなら、大丈夫です。私を閉じこめるような人じゃないと思います。だから、試してみます」
「でも、あざみー」
「止木さん、静かに」

 

6、あの子はセンター長さんにお譲りしました

 冨入とジャスミンが見守るなか、あざみは両頬に手を当ててから目を閉じてうつむいた。長い前髪がはらりとこぼれて額にかかる。あざみはその姿勢で3秒ほど止まってから顔を上げたが、そこにあったのは福来あざみの顔ではなかった。
 両頬から手を離して目を開き、言葉を発したのは廻屋渉だ。
「お待たせしました。おふたりがお待ちかねの私、センター長こと廻屋渉です」
『!!』
 これを見てふたりが驚いたのは、この人物がどこから見ても廻屋だからだ。よく見れば服装までちがっていて、あざみの姿ではない。
「ぎゅいぃぃぃッ」
 冨入の左肩にいた「我が子」がまたしても喉を鳴らし、警戒音を発した。それは目の前いた人間が変貌したことに驚いている。顔も声も体つきも、先ほどまでそこにいた少女とは明らかにちがう。この男が少女の正体なら、どうやって化けていたのだろう。
「うわ、マジでセンター長だ!」
「え? ジャスミンさん、さっき富入さんと一緒に、センター長さんに会ったんじゃないんですか?」
 さっきあざみの意識が戻るまでセンター長が表に出てきていたと言っていたのに、ジャスミンはなぜ驚いているのだろう。もしかして先ほど「センター長に会った」と言っていたのは嘘だったのだろうか。だとしたらなぜジャスミンは嘘をついたのだろう。何かあざみが意識をなくしていた理由について隠したいことでもあるのだろうか。
「あざみーは今どこにいるの? あと、その服はどうなってんの?」
 ジャスミンはあざみが心配だが、思わず服装についても質問してしまった。歩はいつでもあざみを眠らせて表に出てこられるようなのでいつ交代してしまうかわからない。センター長はあざみが眠らずに交代する方法を教えたらしいが本当にあざみの意識はあるのだろうかという不安に加え、センター長が服ごと現れたことに驚きと疑問を隠せない。
「この服は幻覚です。変わっているのは外見だけですよ。物理的にはあざみさんの服です。さわってみればわかりますよ。どうぞ」
「そこまで言うなら確かめますか。ちょっと失礼」
 ジャスミンはセンター長の左隣に座っているので、右手でセンター長の左腕にそっとさわってみた。するとフリルの感触があった。センター長の言う通り、この服はあざみのシャツだ。
「あ、本当だわ。フリルの感触がある。ということは、マジであざみーの体を使ってんのね」
「それにしても、一度に複数の人間に幻覚を見せられるとは驚きだわ。この瞬間に福来さんを見た人はみんな、廻屋さんの姿が見えるわけね?」
「その通りです。この幻覚は、私のことを知らない人物にも有効です。例えば、ここのウェイトレスにも。なんなら実験しましょうか」
「そこまでしてもらわなくてけっこうよ。あなたの力は確かめました。この店の従業員は巻き込まないでください。言ったでしょ、ここは私のお気に入りの店なの。手出ししたら容赦しません」
「了解しました、警視監殿…あざみさんは私の裏にいて、この会話を聴いています。そして『あの子』はそこにいます」
 廻屋が富入の左肩を指さしたが、ジャスミンには意味がわからない。
「あそこに、なにかいるってこと? あたしには何も見えないけど。何か、気配は感じますか?」
「気配どころじゃないわ。この子はここにいる。私には見えるわ。廻屋さんにも見えるのね」
「はい。あくまでも痕跡ですが」
「この子? なんのことですか?」
「センターへの依頼内容は教えたでしょう。得体の知れない小動物が生まれたから、見てほしいって」
「それは覚えています。しかしそれは、センターへ近づくための嘘では」
「いいえ。この子が生まれたのは事実よ。だからこそ、他の人にも見てほしかったの。他の人にはまったく見えないのであれば、この子は私の妄想の産物ということになるわ」
「ぎゅいッ」
 富入の左肩にいたそれは不満を表明して鳴いた。自分たちを空想生物だと思われるのも、自分が親の妄想だと思われるのも嫌だ。自分たちだって生き物だし、自分は確かにここにいる。
「あら、機嫌を損ねたみたい」
「不満そうな鳴き声でしたね」
「あなたにも聞こえたのね」
「はい。第六感を持つ者にだけ観測できるものと思われます。本職の方々にお見せすれば問答無用で『邪悪なもの』に認定され、引き剥がされること請け合いです」
「やっぱり、そうよね…どうしたものかしら」
「もうお考えは決まっているのでは? 私としては早急に殺処分することをおすすめしますが」
「ぎゅああああッ」
 富入の肩の上でそれは廻屋を威嚇した。この男は自分に消えてほしいらしいが、恨みを買った覚えはない。この男は何を根拠に殺処分を勧めているのか。それ自身を目の前にして、あまりにも無礼だ。
「あの、先ほどからお話が見えないんですが。まさかその『子』は本当にいるんですか?」
「どうやら、そのようね」
「そんな、どうして…」
「廃病院でジマーの残党を捕らえた日に、腹に仕込まれたらしくて。あそこに何か居たんでしょうね」
「くそっ、あの日、私も現場にいればッ」
 尊敬する上官が怪異の生み腹に使われたなど信じがたいが、事実ならば早急に手を打たなければならない。後悔している場合ではない。
「早いところそれを本職の方に見せましょう。自称霊能者どもはともかく、本物の聖職者なら対処できるでしょう」
「ああいう人たちにこの子はさわらせません。福来さんにも説明しました」
「しかし…」
「廻屋さん。せっかく出てきてくれたことだし、報酬の話をしましょう。私からの依頼は解決したことにしてください」
「その『子』の処遇は決まっていませんが」
「かまいません。この子をどうするかは、今、決めました」
「そうですか。では、報酬をいただきましょう。今回は、実費を含めて…」
「あなたがたの奥にテロリストのボスがいるとわかった以上、お金を払うわけにはいきません」
 富入は警察官だ。テロリストの関係者に金を渡したという事実が公になればいらぬ容疑をかけられ、地位も信用も失ってしまう。何より、ジマーの協力者だと思われることは避けたい。苦労して得た階級をわずかな金銭のやりとりで失うわけにはいかない。
「警視監殿がおっしゃることもわかります。しかし、実費はお支払いいただきませんと赤字になってしまいますので、当センターとしては困りますね」
「出費以上の価値があるものが手に入れば、文句はないでしょう?」
「ほう。意外な提案ですね。金銭以外の報酬をいただけるということですね?」
「そうです」
「では、その『価値があるもの』とは何ですか?」
「この子よ」
 富入が左肩を指さすと
「ぎゅっ!?」
 我が子が驚愕する声がして
「Wonderful!」
 廻屋の喜びに満ちた叫びが聞こえた。
「今回の報酬は、この子でどう? 徐々に大食いになっていて、手に余ると思っていたところなの」
「ぎゅ…」
 当のそれは富入の肩で悲しげに鳴いた。自分の食事が親の負担になっているとは思いもしなかった。
 一方の廻屋はそれの悲しみに気づきつつもあえて無視し、自分の喜びを表明したというより興奮して言葉が抑えられなかった。
「いやあすばらしい提案ですさすが富入警視監殿は話がわかりますねその子は産怪に属すと思われますが既知のものとちがって毛並みに異常はないどころか豊かであると言えるでしょうかなり姿形が整っていますし生みの親を殺そうとする様子もありませんそれどころか非常に懐いているように見えますこのようなものが親と共存する例はきいたことがありません以上の特徴から新種と思われますので非常に興味深い喜んで引き取らせていただきましょう餌には何を与えていましたか?」
「疑問形で終わるマシンガントークなんてあるんだ。びっくりした。ていうかセンター長、マジでそんな得体の知れないもの引き取るつもり? さっき、殺処分をおすすめしますとか言ってなかった?」
「その発言は撤回します。私たちのものになってくれるなら話がちがいますから。得体が知れないからこそよいのです。よく調べればわかるかもしれませんし、何より…」
「なにより?」
「怪異と同居できるなど、実にFantastic! それで警視監殿、餌には何を与えれば?」
「餌とは言ってほしくないわね。この子は見た目こそ栗鼠のようだけど、こう見えて自制心があるのよ。獣と一緒にしないでちょうだい」
「これは失敬」
「この子のご飯は、甘いお菓子よ。ただし、動物質が含まれているものに限るわ。あんこのように、植物質だけでできたものは食べられないの」
「ほう。それは興味深い。まるで肉食獣の食性を矯正したかのようですね」
「そうね。実際、矯正したのだと思うわ。この子は妖怪みたいなものだから、本来なら人喰いでしょう。少なくとも肉食ね。でも、食べさせていないわ。肉も、血の一滴すら。いつまでも小さいのはそのせいかもしれないけれど、血の味を覚えさせるわけにはいかないから」
「なんとも思い切った食育ですね。それで不調にならなかったのですか」
「今のところ、この子に不調はないわね。卵やバターから動物質を摂取しているからでしょう」
「なんと融通のきく食性でしょうか。実に興味深い…警視監殿のご判断は賢明だと思いますよ。ご飯に甘いお菓子というのは」
 廻屋には「この子」の食性についてひとつの仮説がある。おそらくこの子は「動物質のものを食う」のではなく「親が『この子の食べ物』とみなしたものを食う」のだろう。富入はこの子を人喰いとみなしたが、だからこそ菓子だけで育てると決意した。「本来の食性」に配慮し「動物質が含まれる菓子」という妥協点をみつけ、もっぱら洋菓子でこの子を育ててきたのだろう。この子は怪異ゆえに生理的な消化器の性能に左右されることなく、個体ごとに異なる食性を持てるようだ。親の育て方が食性や外見に現れるのかもしれない。栗鼠のような外見は富入の「この子には無害かつ愛らしい存在でいてほしい」という願いが具現化したものだろう。富入の影響で現在の外見になったのなら、自分たちが引き取ったら三人それぞれの影響を受けて今より複雑な外見になるかもしれない。それはそれで興味深い。
「それで、主食は?」
「リコッタチーズのパンケーキよ。私が焼いていたの」
「それでは、リコッタチーズが手に入らないところでは飼育できないのでは?」
「そうなるわね」
「それが条件であれば、承知しました。そろそろお渡し願いま…」
「ちょっと待ってください! 富入さん、本当にいいんですか? 大事なお子さんでしょう。それに、挑戦する価値のあることだって、言ってましたよね?」
「おっと。あざみさんから抗議されてしまいました。警視監殿、飼育の挑戦は放棄なさるということでよろしいですか?」
「この子には悪いけど、そうなるわね」
「ぎゅ…」
 それは悲しくてまた鳴いた。どうやら親のなかで別れは決定事項らしい。自分としては親が老いて天寿を迎えるまで一緒にいたかったけれど、負担になっているのなら離れるべきなのかもしれない。
「では、譲渡は決定ですね。しかしその子は言うことをききますかね?」
「その点は大丈夫よ。爪は立てないように躾たから、抵抗はしないわ」
「抵抗しないからって、同意してるとは限らないと思うんです。ちゃんとお子さんの同意を得たほうがいいと思います」
「いやそれ同意じゃなくて強制じゃないですか。おとなしく肩から離れたとしても納得しているわけではないのでは…」
 ジャスミンにあざみの声が直接聞こえているわけではないが、あざみならこの話の運びに抗議しそうなので、かわりに富入につっこみを入れる。あまり上官に意見したくはないが「その子」とあざみの両方が納得しているべきだろう。彼らこそが当事者なのだから。
「大丈夫よ。降ろされた所から動かないようにも躾たから。勝手に移動することはないわ」
「わざとずれたお答えをなさってますね? ちゃんと言葉で説得しましょうよ」
「止木さんはどっちの味方なの? この子を私から引き剥がしたいんでしょう。渡りに船の状況なのに、この子の味方をするつもり?」
「いいえ。悪いですけどお子さんの味方をするつもりはありません。納得させてから手放さないと、勝手に戻ってきそうだと思っただけです。このままだと不安だらけで納得できないでしょう。自分のこと殺処分しろとか言ってた男の所に行くんですよ?」
「確かに、その点は不安よね」
「発言は撤回しました。解剖など、暴力的な解析はしないと約束します」
「それだけではまだ弱いでしょ。怪異は人間ではないので約束は無効です、とか言いそうじゃん」
「そんなことは…あるかもしれませんね」
「センター長さん、ひどいです! うちに来てくれたとしても、この子をいじめないでください!」
「無意味にいじめることはありませんのでご安心ください。私はサディストではありませんから」
「ほんとですか? いつも私に怖い話をして、怖がらせるじゃないですか。私が怖がってるのを見て、楽しんでますよね?」
「…これはもう不安要素を取り除くのはあきらめて、何かお子さんに餞別でもあげればどうですか?」
「餞別ね。それじゃあ、名前はどうかしら」
「ぎゅっ」
 それは目を輝かせた。人間界において赤子に与える名は、親からの最初の愛情だという。今まで自分の親は「情が移りすぎないように」と名付けてくれなかった。今ここで名をもらえるのなら、それだけ愛されていることになる。蠅帳の下で抱きしめていた手袋のように、離れてなお抱きしめられるもの、親の愛が感じられるものがほしい。名前以上に愛の込められたものはない。
「え、この子には名前がなかったんですか? そういえば一度もききませんでした」
「まだ名付けていなかったのですか」
「ええ。情が移りすぎると殺せなくなってしまうから。30年後には殺すつもりだったの」
「本気だったんですか!? 育てきれなかったら殺すって…」
「だからといって名付けないとは、これまた思い切ったご判断で」
「そうするしかなかったの。でも、離れるなら名前が必要でしょう。次に会った時に、呼んであげられるように」
「これからつける名前には、また会いたいって気持ちが込められてるんですね。素敵です」
「なるほど。再会に備えての名付けですか」
「ええ。実を言うとね、名前はいくつか考えていたのよ。この子にはひとつも教えなかったけれど」
「ぎゅっ」
 それは初めて知った。親が名付けようとしてくれていたことを。いくつも名を考えて、それを胸に秘めていたことを。生きて別れる機会がなければ一生名付けてもらえなかったかもしれない。優しい親と離れるのはさみしいけれど、名前をもらえればきっとまた会える。
「それで、警視監殿のなかで一番良いと思う名は?」
「そうね…あまり人名らしいのはかえって良くないでしょうから、『ロンリー』でどうかしら」
「ロンリー? ああ、孤独のlonelyですか」
「そうよ。ひとりぼっちのロンリー。さみしさを表す名前は、長寿の代償です。わかりましたか?」
 富入は肩の上にいる我が子と目を合わせた。自分が考えた候補のなかではこれが一番良い名だ。あとはこの子に受け入れられるかどうか。万が一餞別を拒否され別れを拒まれようものなら、いつか殺し別れることになる。生かして育てると決めた日に覚悟したことではあるが、できることなら穏便に別れたい。あざみにそう言った時には嘘だった気持ちが、今では本当になっている。この気持ちを汲んでほしい。
「名前を持てばあなたの存在が確定して、ずっと生きていられると思うの。長生きしてほしいのよ。私よりもずっと長く。何百年でも何千年でも、あなたが生きることに飽きるまで。だから、お願い。この名前を受け取ってちょうだい。ロンリー」
「ぎゅ!!」
 ロンリーはこの店に来て初めて嬉しくなった。親からの最後の贈り物。最高の贈り物。今日から自分は「ロンリー」だ。「自分たち」の一匹には変わりないけれど、もう「それ」ではない。自分はこの世に一匹しかいなくなった。富入順蔵の唯一の子。それこそがこの自分「ロンリー」だ。
「喜んでくれたみたいね。受け取ってくれてありがとう、ロンリー」
 かくして新しい都市伝説が生まれた。「東洋のカーバンクル」「肩の上の栗鼠」「男から生まれた子リス」「ひとりぼっちのロンリー」はどれも同じものを指している。夜中に鏡の前に立ち「ひとりぼっちのロンリー、こっちへおいで」と唱えると、鏡に移る肩の上に小さなリスが現れる。それを見てから自分の肩を見ると、本当にリスがいる。その「リス」に甘いお菓子を食べさせると幸せになれるけれど、肉を食べさせたらさあ大変。肉の味を覚えたリスはみるみる大きくなり、あなたを丸かじり。血まみれの口であなたを食べ終わっても、本当はお菓子がほしかったリスの飢えは満たされない。リスはお菓子をくれる人を求めて鏡のなかへ戻り、また次の呼び出しを待つのでした。
「というのはどうでしょうか」
「人喰いじゃなくて、優しいものに育ててほしいのよ」
「お譲りくださるのであれば、教育方針はお任せ願います」
「なんでふたりとも本人置き去りで話すかな。どうなりたいかはロンリー君が自分で決めるんでしょうが。ねえ、ロンリー君」
 ジャスミンがロンリーの姿が見えないまま富入の左肩に声をかけると
「ぎゅう」
 何か小動物の鳴き声らしきものが聞こえた気がした。
「あ、今、返事が聞こえた気がする。名付けられると実体化するのか…まずいのでは?」
「まずくないわ。そのほうが情緒も安定するでしょう。手渡しもしやすいわ。さ、この手に乗りなさい。ロンリー」
「ぎゅ」
 愛着のある親の肩から離れるのはさみしい。けれど、ここで拒んだら殺されるかもしれない。食卓の上にあった銀のナイフが片づけられたからといって油断してはいけないし、目的を忘れてもいけない。自分は生きて繁殖しないといけないのだ。親のそばにいるのは生きるためだ。他の人が新しい親になってくれるのなら、その人のそばへ行かないといけない。
 ロンリーはおとなしく富入の左肩から右手へ降りた。
「いい子ね。動くから、落ちないように気をつけて」
「ぎゅ」
 富入は我が子を右手に乗せて廻屋の左肩の前でそっと手のひらを傾けた。ロンリーは富入の右手から廻屋の左肩へ移る。
「新しい親のそばでもいい子にしていなさい。わかった? ロンリー」
「ぎゅっ」
「いい子ね」
 富入は我が子の頭を指先でそっと撫でた。
「これで譲渡は完了ですね。これからよろしく、ロンリー」
「ぎゅ」
 ロンリーは新しい親の肩で鳴いた。この人は廻屋というらしい。自分を調べようとしていじくられそうで不安だけど、あざみという子に化けている時は優しそうだから大丈夫だろう。本当に怖くなったら富入のところへ帰ればいい。たとえ富入が黄泉へ行っても自分ならきっとみつけられる。怪異なら浮世と常世を自由に行き来できるはずだ。
「ロンリー君、名前をもらえてよかったですね。センターのマスコットキャラクターを増やさないといけませんね、センター長さん」
「ふむ。センターのチラシにロンリー君を描き加えますか。伝承とちがって額の赤い石こそありませんが、カーバンクルだと言えばそう見えそうですから」
「マスコットキャラクターの話? 私としては、センターを畳んでほしいのだけど」
「我々に圧力をかけなくても、直にそうなりますよ。あのセンターは復讐のためにつくられたものであって、目的を遂げてしまえば不要になります。あのビルは不正な金で買った物件ですし、文字通りの解体に応じるのもやぶさかではありません」
「復讐? センター長さん、いったいなんの話ですか?」
「あとはあなたがたの仕事です」
 廻屋はあざみの疑問を無視して話を続けた。目的を遂げるまであざみには何も教えるなと歩に命じられているからだ。すべてが終わればあざみも事件の全貌を知ることになるだろう。それまで何も話すことはない。
「『口に出しても存在しないもの』を調べて、あの事件を解決してください。警視監殿」
「わかっています。あそこの中身を減らすまたとない機会ですもの。ジマーのボスを止めるためなら、捜査再開の許可もおりるでしょう」
「忙しくなりそう。悪いけどセンター長、新規の依頼は断ってくれる? あたしはもう運転手できないから」
「ジャスミンさん、富入さんの所に戻っちゃうんですね。さみしいです」
「あざみさんのピンチの時には駆けつけてくださいね」
「もちろん助ける。どうせあざみーは何も知らないんでしょ」
「ええ。あざみさんは私たちの計画を何も知りません。あざみさん自身も計画の一部なのですが、何も教えるなと言われています」
「言われてるって、誰にですか? センター長さんに指示できる人がいるんですか?」
「当事者なのに蚊帳の外なのね。気の毒に。ロンリーも福来さんの力になってくれるといいのだけど」
「この子を譲り受けるにはベストタイミングだったと思います。すべて終わったら日本を離れることになりそうですから」
「海外旅行ですよね? 外国に移住するって意味じゃないですよね!?」
「あざみーから学校も友達も奪うつもり? そうはさせないから」
「さあ、どうなりますかね」
「はあ…これ以上話し込んでも無駄ね。センター長、あざみーと交代して。送っていくから」

 

7、彼らの出国に同行しました

 あの日は喫茶店でジマーのボスに出会ったものの穏便に別れられた。しかしその後が大変だった。6人の行方不明者に黒沢局長の息子が含まれていなければ「クローゼット」にある資料の閲覧すら許可されなかったかもしれない。富入が密かにスマホでとった録音を元に上の連中を説得してクローゼットに入る許可をもぎとって見た資料で「上野天誅事件」の被害者である野村の家族構成と加害者ファイブソサエティのメンバーを知り、捜索対象者のリストを作成した。それを元に聞き込みを進め、なんとか6人をみつけだした。別々の部屋へ監禁された5人に「あんたたちのリーダーは誰?」と訊いた野村朋子は、一人だけ他の名を答えた男をリーダーとみなし、ナイフで刺していた。朋子の詰問に4人が「黒沢」と答えたのに対してただ一人「眉崎」と答えた男は、黒沢優弥だ。C.U.T.U機動隊が監禁場所へ突入し野村朋子を確保した時、彼女に刺された黒沢優弥は重傷を負っていた。彼は緊急搬送されて手術を受け、一命は取り留めたものの、まだ入院している。
「っていうのが、あの後に起こったこと。ここまでだったら、あんたのことだって捕まえられたのに」
 ジャスミンは空港のラウンジで如月歩と話している。明るく清潔で優雅な国際線のファーストクラス専用ラウンジにいると、あの血なまぐさい現場でのできごとが嘘のように思えてくる。
「なぜ、私を捕まえられなくなったの?」
「どうせもう知ってるんでしょ」
「ええ。知ってるわ。でも、あなたの口から聴きたいの」
「わかった。1回しか言わないから、よく聴いて。あんたの起こしたサイバーテロ事件は、クローゼット行きが決定した」
「やっぱりね。計算通りだわ」
「あんたはこれを狙って警視庁のサーバーを使ったのね?」
「もちろんそうよ。日本警察の隠蔽体質はよくわかってるから、利用させてもらったわ」
 野村朋子はリーダーすなわち主犯とみなした黒沢を殺す気で、他の4人も無傷で帰すつもりはなかった。それでも死人が出なかったのは良いことのはずだった。SAMEJIMA管理人こと如月歩が日本中の通販サイトとSNSをハッキングして全ユーザーの個人情報をばらまくまでは。
「あの5人が野村を襲った動画を公開したのはともかく、なんで一般人の個人情報までばらまいたかな」
「襲撃動画を公開したのは、誰も死ななかったから」
「は?」
「あの5人のうちの誰かがおとなしく野村朋子に殺されてたら、あの襲撃動画は公開しなかった。私、死人にムチ打つ趣味はないの」
「あんたそれ、あの5人に伝えるつもり?」
「もちろん。あいつらが正式にどこかの刑務所へ収監されたら手紙を送るわ。誰か死んでれば、過去が晒されることはなかったって。あの4人は、生き延びた黒沢を恨むでしょうね。特に、身代わりにされそうになった眉崎は」
「要するにあいつらを仲違いさせたいわけね。性格悪すぎ。それで、市民までターゲットにした理由は?」
「ジマーたちに約束したグレートリセットの実現。それと、間接的な復讐」
「はあ? 復讐なら終わってるでしょうが。主犯の黒沢はまだ入院してて死にかけだし、5人とも過去が晒されたから罪に問われてる。復讐なら終わったでしょ」
「当時、あの5人は隠蔽工作したのよ。単純な手段だったけど、陰謀説が流行りがちなネット空間では効果的だった。犯人は如月努の信奉者で、如月努が黒幕だってデマを流したのよ。それが定説になるまで、何度も何度も」
「それで、その説を信じて拡散した連中にも復讐しようしたわけか」
「ええ。当時その説を広めたアカウントを特定するのが面倒だったから、無差別攻撃に踏み切ったわ。その説を信じた奴らも同罪だから。兄さんは誹謗中傷に苦しんで、大学をクビになって、それから」
「自殺した。それは知ってる。妹のあんたは気の毒だった。その点だけは」
「だ・け・は? 他のことは何も気の毒じゃないっていうの? ひとりで何もかも準備したの。警察の目をかいくぐりながら。大変だったのよ」
「同情されるのは嫌でしょ? それに、あんたはひとりじゃない。助手と手駒をつくった。廻屋渉と、福来あざみを。他人を騙すために演技するんじゃなくて、人格までつくるなんて常軌を逸してる」
「当然でしょ。私は天才なんだから。それで、どうしてここまで追いかけてきたの? 捕まえられない人間を」
「あざみーのためよ。あんたらがどこに住み着くのか見届ける。だから、ついてくことにしたの」
「同じ航空機に乗って、トルコまで? 私が乗る便を特定したのはさすがだけど、妙に粘着質ね」
「あんたらの拠点は、ロンリー君の家でもあるから。あんたらがどこに住み着いたか報告しろって言われてるの。富入警視監に」
「警視監さんは心配性ね。トルコに永住するとは限らないのに。あのテロがクローゼット行きになったってことは、逮捕されないってことなんだから。ほとぼりが冷めたら日本に戻るかもしれないのに」
「それも可能かもね。今はまだあのサイバーテロで社会が混乱してるけど、それだっていつまでも続かない。そのうち収まる」
「でも、元通りにはならない。少なくとも、あの7人の人生は」
 野村建吾を死なせたファイブソサエティの5人。その5人が起こした事件をクローゼットに隠した黒沢征二。その息子の黒沢優弥に重傷を負わせた野村朋子。この7人の人生が「元通り」になることはない。
「朋子を犠牲にしたけど、あの6人も塀の中へ落ちる。いい気分だわ」
「全員に死んでほしかったんじゃないの? あたしらが突入するのが遅れてたら黒沢は死んでたし、あとの4人もただじゃすまなかった。朋子がヤケを起こしてたら、全員がめった刺しにされて死んでたかもしれない。というか、それがあんたの真の望みでしょ。それなのに5人とも生きてる。本当に、いい気分?」
「あ、あは、あははははっ」
 歩が声をあげて笑った。ラウンジにいた他の客が数人、何事かとこちらを見る。
「え、ちょ、急になに!?」
 人前で声をあげて笑ってよいのは子どもだけだろう。大の大人が人前で、それも高級なラウンジで笑っているのは不気味だ。
「やっとわかった」
「何が?」
 歩はまだ笑みを浮かべている。声をあげていなくても不気味だ。
「フィクションの悪役が主人公を前にして高笑いしてる時の気持ちが。こういう気分だったのね、なるほど」
「どういう気分?」
「敵のなかに理解者をみつけた気分よ。利害が一致することはないけれど、自分の気持ちはわかってくれる。そんな人、現実でみつかるなんて思ってもみなかったわ。案外面白いものね、人生って」
「ああ、なるほど、そういう…まあ、あんたが人生を楽しむ気になってくれたならよかった。伝えることは伝えたから、あざみーに交代して。搭乗口までエスコートする」
「そう。ありがとう。なかでも見張っていてね。あざみが変な客に絡まれないように」
「ファーストクラスに変な客がいるわけないと思うけど、ガードは万全よ。隣の席が取れたから。ほら」
 ジャスミンは懐から自分の航空券を取り出して歩に見せた。
「あら、本当ね。ずいぶん準備が良いじゃない。見直したわ」
「言ったでしょ、なめないで。さっさとあざみーに代わって」
「はいはい。それじゃあ、またね」
 歩が目を閉じてうつむき、静止したと思ったらすぐに顔を上げた。その顔の主はあざみだ。
「お待たせしました、ジャスミンさん。ついてきてくれて、嬉しいです。国際線って初めて乗るので、心細くて。添乗員さんとは英語で話すんですよね。私の発音で通じるでしょうか。不安です」
「英語なら任せなさい。あたし、英語は得意だから。ハリウッド映画が字幕なしで観られる程度には」
「ジャスミンさん、すごいですね! 心強いです!」
「なんせ私、ハーフだから。あ、今時はダブルって言うんだっけ。とにかく、アメリカ生まれなのよ。父親がアメリカ人なの」
「そうなんですか。じゃあ、ジャスミンさんの金髪は生まれつきなんですね」
「そう。ついでに、あたしのフルネーム教えとくわ。止木・休美・ジャクソンっていうの。念のため覚えといて」
「覚えました! もしかして、ジャスミンさんがジャスミンって名乗ってるのは、英語の名字と、下の名前の組み合わせですか?」
「そうそう。ジャクソン+休美でジャスミンってわけ」
「そうだったんですね。これで、ジャスミンさんの謎がひとつ解けました」
「ひとつ? あたしには他の謎もあるわけ?」
「はい。色々と」
「ふーん。それは、飛行機に乗ってからゆっくり解こうか。そろそろ搭乗時間だから。行こう、あざみー」
「はい。ジャスミンさん」
 二人は席を立ち、搭乗口へむかった。

 

エピローグ、あの子は元気です

 富入がジャスミンから「ロンリーは問題なく全てのチェックを通り抜けて現地に到着。ロンリーをメンバーに加えた新たな『都市伝説解体センター』がトルコにできた」と報告を受けてから2年。富入は深夜、自宅のリビングで姿鏡の前に立っていた。去年試した時には何も起きなかったが、今年はどうだろう。
「ひとりぼっちのロンリー、こっちへおいで」
 富入がつぶやくと、ロンリーの姿が鏡に映った。肩の上にいるように見える。
「今年は映ったわね」
 廻屋が創作した都市伝説によると、このまま視線を肩の上に移せばそこに本物がいるはずだ。
「トミィリ!」
 富入が肩へ視線を移すと、そこにロンリーがいた。つぶらな瞳は喜びで輝いている。
「タダイマ!」
 富入が呼んでくれて本当に嬉しい。おかげで外国から一瞬で帰ってこられた。ロンリーが富入と別れて2年が経ち、廻屋がつくってくれた都市伝説が充分に広がって現実になりはじめたのだ。これからはいろんな人のところへ行って、いろんなお菓子がもらえると思うと嬉しい。
「まあ! この2年で話せるようになったのね。なんて成長かしら。おかえり、ロンリー。久しぶりにお茶をしましょう」
「オカシ、アル?」
「もちろん。マカロンも用意したわ。あなたが初めて食べたものを」
「アリガト!」
「まあ。お礼まで言えるようになったのね。いい子」
 富入は指先で我が子の小さな頭をそっと撫でた。彼らはこの子をきちんと育ててくれているようだ。自分の人選に間違いはなかった。
「移動するから、しっかりつかまっていなさい」
「ハイ」
 ダイニングのテーブルにはお茶の用意ができている。これからこの子に教えてあげよう。幸せという言葉の意味を。 END.

 

以上、二次創作「富入と産怪の子」でした。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

※ジャスミンのフルネームは私の創作で、ジャスミンがアメリカ育ちという設定は非公式です。