今回はネタバレ大前提で『宝石の国』13巻の感想などをお送りいたします。
まず、私が第十三巻を読んだ第一印象は「美しい絶望」だった。
金剛の兄機は言う。「無」へ行った者たちは溶け合い、早すぎた進化の傷を癒しているだけなのだと。「無」へ行った者たちは、ちがう宇宙の素材になるらしい。いつか他の物になり、また意識を持つのかもしれない。だとしたらそれは、はたして月人の望んだ「安寧の無」だろうか? もう二度と意識を持たないこと。けっして何者にもならないことこそ彼らの願いだ。しかし、はじめから完全に機械である兄機には、月人の切なる願いがわかっていない。いつか生まれ変わることが、再構築されることが、さも希望であるかのように語る。兄機は人間につくられていながら、人間の望みを理解していない。この断絶が、哀しい。
フォスたちが地球から旅立ち、新たな「楽園」に着いても、哀しみはある。砂粒になったフォスは、今、そばにいる石たちが、出自の異なる者たちであることがわかっていない。かつて宝石として金剛先生を慕い、仲間たちを救いたいと願い、その果てに地球の神に成ったことを忘れている。今でこそ幼い子のようにふるまっているフォスはかつて石たちの保護者であったが、そのことも忘れている。現在のフォスの純真さは、地球でのできごとを忘れ去ることでもたらされた。このような喪失による純真さは、あまりにも哀しい。
人間との断絶は哀しいが、兄機と石たちは確かに救われた。フォスも、なに不自由なく、出自が異なりながらも疎外されることなく暮らしていることを考えれば、哀しくも救われたと言っていい。しかし、人間を含んでいる者たちは誰も救われなかった宇宙はありえたのではないか。しかも、宇宙ごとに少しずつ、登場人物の判断が異なるのだとしたら。今まで読者が見守ってきたこの宇宙よりも悪い結果にもなりうるのではないか。この宇宙がたまたま最善になっただけではないのか。そんな気がしてならない。
砂粒になったフォスが「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」と言う彗星の見開きで、左下にいるのは初期フォスである。フォスがこのような人型の姿をしていたのは、はるか昔だ。そして、石のひとつは砂粒になった現在のフォスに「君の破片 新しい宇宙を見に行った」と言っている。このことから、フォスの破片だった彗星は宇宙と時間を超え、隣接する宇宙の過去へ飛んでいると考えられる。フォスたちがたどり着いたあの「楽園」に咲く「光子の花」が中心に抱えている宝石は、それぞれがひとつの宇宙であるらしい。あの花は接触した物体を、宝石が内包する宇宙へワープさせるようだ。フォスの破片は「あけがたいろのおはな」の力でワープして、あの巨大な彗星になったらしい。
市川春子の美麗な画風で描かれた物語「宝石の国」は、麗しきバッドエンドを迎えたと言える。なぜなら、あの「楽園」に咲く花の数だけ宇宙が存在しているのだから。そのなかには、より悪い結末になった宇宙もあるだろう。たとえば、フォスを「新たなる神」に進化させることができなかったら? あるいは、神になったフォスが誰も赦さず皆を太陽フレアに沈みこませたら? 永遠に生きることに疲れ、心底から「何者にもならぬ安寧の無」を望んだ彼らが、永遠に「無に至る」ことができなかったとしたら? これを絶望と呼ばずして、何を絶望と呼ぶのか。「宝石の国」という作品は、全体で一篇の絶望なのだ。
もちろん、これは私の勝手な解釈だ。最終話のタイトルが「宝石の国」なのは、ただ単に作品名を回収しただけかもしれない。あるいは、フォスたちがたどり着いた「楽園」のことを指しているという解釈もできる。しかし、私にはどうもそうは思えないのだ。最終話と作品名が一致しているのは、ただタイトルを回収したわけではなく、この物語が他の宇宙でくりかえされていることを暗示しているように思えてしかたない。
たったひとつの見開きで読者にこれだけのことを考えさせる市川春子の技量はすばらしい。とても美しい1コマだというのに、左下にそっと過去の人物を描き加えるだけで、絶望を予感させることができるのだ。このように、最後の一文や1コマで読者の考えや感情を強く揺さぶることができる、いわゆる「どんでん返し」ができる作家が一流なのだろう。私はブログ記事の末文で記事タイトルを回収するぐらいがせいぜいだ。たとえ私が小説家としてデビューできたとしても、足元にも及ばない。
『宝石の国』第一巻の発行が2013年。最終第十三巻の発行が2024年。単行本から考えると、完結までに要した期間は11年になる。11年かけて、実に美しい絶望を読ませていただき、とても貴重な体験をさせてもらった。改めてまして、市川春子先生。フォスを救ってくれて、ありがとう。長期連載お疲れさまでした。
以上、美麗なる絶望『宝石の国』最終巻の感想でした。改めて、完結おめでとう。