ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

映画『JOKER』(2019)を観た。 ありがとうアーサー、おめでとうジョーカー。

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映画『JOKER』にはIMAX版限定で先着順の入場特典があるとのことだったので、近所にユナイテッドシネマがあるのをいいことに公開初日の朝イチで観てきました。入場者特典はA3サイズのポスターです。詳しくは以下のリンク(⬇︎)からどうぞ。

 

wwws.warnerbros.co.jp

 

入手後はとりあえずダイソーに行けば¥200+税でA3サイズの黒い額縁が買えるぞ! 私はさっそく額に入れて飾りました。ポスター写真の背景にもマッチしている不吉な色味でかっこいい!

公開早々にネタバレするのも酷なのでできるだけネタバレしないように気をつけますが、抽象的な感想のみをお送りするだけの語彙もないので所々、作中でどんなシーンがあったか書きます。これすらも嫌だという方はブラウザバックを推奨。あと、パンフレットにはあらすじが9割方書かれているので、ネタバレは絶対に嫌だという方は、鑑賞後にパンフレットを購入したほうがいいかと。

それでは以下、私の感想をお送りします。

 

ありがとうアーサー、おめでとうジョーカー。

観終わって最初に思ったことは、自分の日常が平穏に続いているのはひとつの奇跡なのだということ。些細なことで歯車は噛み合わなくなる。主人公のアーサーが危なっかしくも懸命に維持していた平和な人生は、段々と壊れていく。

観終わった後で、あのシーンは象徴だったのかなと想像したシーンがふたつ。これは観客の私が勝手に想像しただけなのだが。まずは、看板を奪われたアーサーがチンピラを追い、自ら看板に突っ込んで看板を壊してしまうシーン。あれは、アーサーが自分の手で大切だったものを壊していくという、この映画の筋立てを表していたのかもしれない。次に気になったのは、アーサーが母が入院している病院に、自動ドアの出口から無理やり入っていってしまうシーンだ。彼は出口から人が出てきて自動ドアが開いたすきに病院へ入ってしまう。これは、彼がいずれ間違った手段で目的を達するようになることを暗示していたのかもしれない。さらに言うと、この「出口と入口が決まっている自動ドア」は、「社会的に正しい人生」の象徴なのかもしれない。社会(院内)が求めているのはルールを守る人間であって、出口から入ってくるような人間ではない。しかし、たとえ「出口」から入ったとしても、「内」という社会に入ってしまえば目的は達成される。

パンフレットによると、アーサーがアパートに帰るために階段を登ることは、家に帰れば単調な生活が待っていることを象徴しているのだという。最初はその単調さこそが陰鬱で、アーサーがカウンセラーとの定期面談から家に帰るシーンでは暗く重い弦楽の曲が流れる。しかし物語が進むにつれ、いつの間にか私は、彼が外出する度にまた階段を登ってほしいと願っていた。どうか、帰る家までなくしませんようにと。しかし、この願いは無意味である。予告編を観ている観客の私はアーサーがいずれジョーカーになることを知っている。つまり、アーサーはいつか必ず、帰る家を失うのである。パトカーのボンネットの上で目を覚まして立ち上がり、メイクを直した彼は完全にジョーカーであろう。今の彼が、無名のまま貧しく生きることの辛さを訴えることはもうないだろう。そして、二度とあの階段を登ることもない。帰る必要はなくなったのだから。彼は最後に家を出た時に、唯一の友を見送っていた。彼はこの時、人間としてのつながりを持つすべての者と別れた。最期のショーのために身支度を終えて家を出た後の彼は、アーサーと呼ばれることを望んでいなかっただろう。アーサーだった時に少しでも良いおもいでをくれた者にはすでに別れを告げたのだから。

衣装に身を包み階段の踊り場でひとり機嫌よくダンスをしていた彼は、刑事たちにアーサーと呼ばれて我にかえる。この期に及んで彼をアーサーと呼ぶ者など、彼に殺人の容疑をかけて監視している刑事たちぐらいのものだ。

もう出演依頼を受けてしまった。それも、彼がずっと出たいと願っていたショーのだ。出演依頼の電話がかかってきた。アーサーだった時の努力は彼が死を決意した後になって実を結んだ。だから、死に方を変えて、出演するまで生きようと思ったのに。友だちにだって、さっきショーに出るんだと言ってしまった。なんにせよ今さら捕まるわけにはいかない。彼は刑事たちをふりきるべく、もう二度と登らないであろう階段を駆け下る。余計な演出に時間を割いてしまうのは悪役の常なのか。薄幸だった彼が珍しく楽しそうにしているのを見られて、観客の私はうれしくなった。彼の物語の終わりは近い。

彼は刑事たちをまいて無事に会場へ到着する。そして、楽屋へ挨拶に来た司会者マレーに言う。自分のことは本名ではなくジョーカーと紹介してほしいと。彼はカメラの前でアーサーとして死ぬつもりはなかった。最期ぐらいコメディアンでいたかったのだろう。

彼はこの日、カメラの前のジョークで人生を終えるはずだった。出演者いじりに慣れた司会者はまさか、ジョークに合いの手を入れて相手を怒らせることになるとは思いもしなかったのだろう。アーサーだった時に言ったジョークが一度もウケたことがなかった彼はついに言う。面白いか面白くないのかは自分で決めればいいのだと。カメラの前で一暴れした彼の人生はこの日に終わるどころか、彼の存在自体をジョークにしてしまった。生き延びてしまった今の彼は道徳にも社会貢献にも興味はないだろう。元から持っていた脳障害のせいで病院に入れられても彼は気にしない。自分はおかしくなどない。この発作的笑いも含めて自分なのだから。凝ったピエロメイクは落とされてしまったけれど。貧しいなかで用意した衣装は剥ぎ取られてしまったけれど。それでも彼は人生を楽しめることを知っている。病院に閉じ込められていることなど大した問題ではない。職員との追いかけっこは楽しい。アーサーとして私怨を持ちうるすべての人間を消した今の彼には、戻る場所どころか過去さえも必要ない。彼は今、本当に自由になった。

これは、彼の人生にバットマンが現れる前の物語。バットマンが現れるずっと前から彼は楽しくやっていた。彼には入院していながら愉快犯であり続ける才能があるらしい。

人間の変化は少しずつ進むものだ。人殺しなんて大げさなことをしなくてもいい。おとなしかった男がタイムカードの打刻機を叩き落とし「Don’t forget to Smille!」と書かれた標語の「forget to」を塗り潰す。見捨てられてなお、いい子でいる義理などない。この時に顔を出したアーサーの中の悪い子が後のジョーカーなのだろう。このイタズラは彼の不満の表現であると同時にわずかなユーモアが感じられる。この行動も彼にとってはジョークだったのだろう。打刻機は明日には直されて、標語を塗りつぶしたマジックはどうせすぐに落とされるのだから。アーサーが望んでいたのはこんな、ささやかな表現だったのだろう。人を傷つけないような。

彼がボンネットに乗せられるシーンは、ゲーム『アーカム・シティ』へのオマージュだろうか。バットマンに抱えられパトカーのボンネットに横たえられたゲーム版のジョーカーはすでに息絶えていた。彼が死んだことを皆に知らせるために、ゲーム版のバットマンはジョーカーを外へ運び出したのだ。しかし今作の映画では、ジョーカーは死んでいなかった。声援とともに立ち上がり、自分の血で口元のメイクを直した彼は拍手喝采される。この後、愉快そうにピエロマスクたちの暴動を眺めながら鼻歌混じりに歩きだしたのが、入場者特典のポスターになっているシーンなのではないかと想像している。

もしかしたら、このジョーカーは後に『ダークナイト』版のジョーカーになるのかもしれない。今回のジョーカーは口を切り裂かないし、アーサーとしてデータを取られているだろう。しかし、彼が口を切り裂いてデータを消せば、あのジョーカーにもなり得るのではないか。そうなればますます面白い。できることなら私はゴッサムの名もなき一市民になり、ジョーカーの活躍を無責任に眺められるようになりたい。

内心でジョーカーの誕生を、アーサーの不幸を望んでいる非情な観客の前で最後まで踊ってくれたアーサーに心からの感謝を。そして、ジョーカーの誕生に祝福を。

 

以上。

 

※本記事は、10月9日にリンクを加えました。