今週のお題「平成を振り返る」
平成という元号には思い入れがある。弟が生まれたのが平成だった。平成とお別れすると思うと少しさみしい。
弟が生まれた日、私は父とともに病院にいた。幼い私はその日、慣れない病院のトイレに行って個室に入り、用を足した後でなぜか非常ボタンを押してしまった。水を流すボタンと間違えたのか、それとも単なる好奇心だったのか。当時5歳だった私の気持ちや考えは今となってはまったく思い出せない。なにぶん未就学児だったので、非常ボタンの注意書きがうまく読めなかったのだろう。いや、それ以前に、注意書きを読むという習慣がなかったのだと思う。
とにかく父にひどく叱られて泣いた。この「トイレの非常ボタン押しちゃった事件」は弟が生まれた後に起こったのか、弟が生まれる前に起こったのかは覚えていない。それどころか弟の産声を聞いたかどうかさえ覚えていないし、病院で生まれたての弟に会ったのかどうかもあやふやだ。肝心のところはあやふやなのに、自分の失敗の思い出だけはある。私にとって弟が生まれた日はめでたい日というよりも自分が父に叱られた日として記憶されており、当時の私には弟の誕生を喜んでいるヒマがなかった。
母はよく「ウチは一人っ子が二人いる感じだった」と言う。母としては5歳離れていて性別が違うきょうだいは世話がしやすかったからだろう。第一子の私は日中は小学校にいるので家におらず弟の世話に専念できた。おまけに姉と弟で欲しがるオモチャが全然違ったのでオモチャを奪い合ってケンカすることもなかったし、着せる服も違ったので下の子が「お下がりは嫌だ」と駄々をこねることもなかったのである。
以上のような家庭環境なので私は弟とケンカらしいケンカをしたことがない。大人になった今でも仲が良いきょうだいだと思っている。上の子が5歳になってから下の子が生まれると、「お姉ちゃん(お兄ちゃん)なんだから我慢しなさい」と言われた時の理不尽感が減るのも一因だろう。6歳になった私は立派な小学生になって社会参加しているというのに、弟はまだ1歳でずっと家にいて歩行器を使っており、歩けるようにさえなっていないのである。やっとハイハイできるようになっばかりのた赤ん坊を目の前にして、親に「もっと私を見ろ」とか、「こいつと私はそんなに違わないのになぜ私だけ我慢しなくてはいけないのか」と言う気にはなれないし、弟は見るからに無力な赤ん坊なので本人をいじめる気にはまったくならない。親が弟につきっきりなのは仕方ないと理解できたので、第一子特有の理不尽感は少なかった。
私は、自分が我慢してやるのは当然であろうと思って育った。だから弟に何かを、たとえばお菓子の最後の一口とかを譲ることにはまったく抵抗がない。しかし、私が我慢を覚えたところで我が家から理不尽がなくなったわけでもない。両親は第一子の私に「弟がほしいか」なんてきいてくれなかったし、第二子の弟からしてみれば気がついたら姉がいたわけで、第一子の私と違って親の愛を独占していた時期は皆無である。第一子には「途中で親の関心を奪われる」という理不尽があり、第二子には「気がついたら自分よりも賢くて強い奴が常にいる」という理不尽があるのだ。
こう考えると、あらゆるきょうだいはお互いに存在自体が理不尽である。しかし私は両親のことも弟のことも恨んではいない。第一子特有の理不尽を引き受けることは、弟と出会う絶対条件だから。きょうだいの仲が良いと多少の理不尽は大目に見ようという気になれる。
私が10歳だった時、5歳だった弟の頭の高さは私の肘置きにちょうどよかったが、弟が14歳になる頃にはついに身長で抜かされて少し悔しかった。しかし弟が天井の電球を替えてくれるようになったので悪いことではない。
以上。平成に弟が生まれた話でした。