ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

【国語】異分子を発見するための「感想文」

 先日、久しぶりに友達から電話がかかってきて1時間ほど話し込んだ。この長電話で思い出したのは、とある授業の感想文。あれは授業参観、小学校の国語の時間だった。友達からきくまであの1コマが授業参観で、背後からクラスメイトの保護者に見守られていたことは忘れていたが、自分が書いた感想文の内容は覚えている。

 あの時はたしか、タヌキにだまされ、タヌキに食べられるウサギの話を読まされた。そして、この話を読んで感想文を書け、と言われたのだ。タヌキの狩りが成功したことに安堵した当時の私は、タヌキの視点で「しめしめ、これで腹が膨れるぞ」といった内容の感想を用紙に書き、バカ正直に読み上げた。みんなはウサギに同情して「ウサギがかわいそう」とか「タヌキは悪いやつだ」みたいな感想を書いていると知ったのは、自分の感想文を読み上げた後だ。

 私にはみんながウサギだけを「かわいそう」と言う理由がよくわからなかった。確かに食われるウサギはかわいそうだが、腹を減らしたタヌキだってかわいそうじゃないか。私は、タヌキは肉食だと知っていた。だから、タヌキがウサギを食うのは当然だと思った。タヌキを警戒しなかったウサギがバカなのだ。タヌキは肉食なのだから、ウサギを食ったぐらいで「悪者」呼ばわりされる筋合いはないはずだ。だいたい、肉食獣のエサは動物なのだから、草のようにじっとしているわけがない。肉食獣は腹が減るたびにがんばって狩りをして、獲物を捕らなければならないのである。クラスメイトどもはタヌキが肉食であることも、狩りの苦労も知らないのではないか(私だって知らないが)。私以外はみんなバカなのでは?

 この場合、バカなのは自分である。よく考えれば先生は、この話を読んで「自分の感想」を書けと言ったのであって「キャラクターの気持ちになって」「感情移入した」文章を書けと言ったのではない。それでは感想文ではなく二次創作になってしまう。当時の私に二次創作という概念はなかったものの、自分が書いた文章が先生の意図に沿っていなかったことは事実である。当時の私は察しが悪い子供だったので国語の感想文では「先生の想定内で」「先生の気に入るような」感想文が求められているのであり、そもそも「自由な感性で書かれた文章」は求められていないことに気づいていなかった。小学生のお子さんがいる親御さんは、この点をよくお子さんに言い聞かせてほしい。

 極論すると「国語の感想文」は、妙な感性を持つ異分子をあぶりだすための課題である。タヌキとウサギの話を読んでタヌキに感情移入し、ウサギに同情しない私は完全に要注意人物だろう。先生は私に悪人の素質があると思ったかもしれない。

 しかし、先生の心配は杞憂である。本当に悪人の素質がある人間は猫をかぶるのも上手いはずだから、こんなことでボロは出さない。本当はタヌキに感情移入していても、ウサギに同情した感想文が書けるだろう。だから、こんなつまらない手段で異分子をあぶりだそうとするのは無駄である。こんなことでボロを出すのは、生粋の悪役派ぐらいだから。悪役に憧れるようなやつは、本当の悪人にはならない。悪人になる度胸がないからこそ、悪役に憧れるのである。

 

以上、小学生の頃から悪役派だったミーシックスでした。