ロマンというほどでもない

日常以上、ロマン未満のモノを紹介するブログ。たまに私見も書きます。

私のゲン担ぎは、偽善をしないことです。

今週のお題「ゲン担ぎ」

目次

 

「ゲン担ぎ」って、「何か事を成そうとする時、その事がうまくいくようにする行い」のことだと思います。体調とか精神状態がよくないと何事もうまくいかないので、神頼みする以前に自分の調子を整えるべきではないでしょうか。

 では、自分の調子を整えるって、どうすればいいのか。この表現のままだと漠然としているので、「自分と仲良くなっておく」と言い替えてみます。

 自分と仲良くなるといっても小難しいことではなくて、普通の友人関係と同じく、嫌がられることを避けて信頼関係をつくること。自信をつけるのとはちょっと違う。最大のポイントは「自分が嫌なことはできるだけしない」点。私にとって嫌なのは、自分にとって偽善である行いをすることです。

 

偽善を恐れずに善いことをしろ論

 パオロ・マッツァリーノ著『偽善のすすめ』では「やらない善よりやる偽善」ということが書かれています。以下、リンクを兼ねた画像です。

 

 

 私は「やらない善よりやる偽善」というフレーズを、動機はどうでもいいから他人の助けになることをしたほうがよい、ということだと解釈しています。現金な話ですが、売名のため、下心丸出しで100万円寄付するほうが、「誰かが助かればいいな」という善意で寄付される1000円よりも役に立つのは確かです。

 同書には、あらゆる親切は突きつめると自分のためなので、偽善でない親切はない、ということも書かれています。人間には偽善ではない親切はできないので、偽善であることを恐れずに善いことをしろ、と。偽善者だと言われるのを恐れて動けなくなるぐらいなら、「ありがとう」と言われたい下心でもって親切な行いをしろ、ということかと。

 

私の「善意」と「偽善」の定義

  しかし、偽善だとわかっていて何かすると、あとで自分に腹が立つし、疲れるのではないでしょうか。親切や人助けといった善意の行いは、本人が心から納得して、本人がしたいと思ってするべきだと思います。私は「人の自主的な、他人を助けたいという気持ち」を善意と呼びたいのです。私はこの気持ちを伴わない「親切」を偽善と定義しています。

 具体例をあげましょう。実は私、電車でお年寄りに席を譲ることはめったにありません。電車の座席は純粋に早いもの勝ちだと思っているし、目的地の何駅も前で譲ってしまうと、自分が立たないといけなくなって疲れ、あとで不機嫌になりそうだからです。

 だからといって絶対に譲らないわけではなく、目的地の一駅前で立ったり、優先座席には座らないようにするなど、自分が不機嫌にならない範囲で気をつけています。あとで不機嫌になるとわかっているなら、無理をしない。あとで不機嫌になることは自分にとって偽善です。

 

まとめ

何かを成し遂げるためには、体と心の調子がよくないといけない

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体と心の調子を保つため、自分と仲良くすごすことを心がける

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 自分にとって嫌なことはしない

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私は偽善的な行いが嫌なので、偽善的なことはしない

 

こうして、私のゲン担ぎは「自分にとって偽善なことをしない」になりました。

みなさん、無理せず自分と仲良くしてみては。

 

以上。今週のお題「ゲン担ぎ」へのエントリーでした。